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第十一章
死の足音
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あの奇妙で、屈辱的で、それでいて、どこか倒錯した高揚感を伴った夜から、一日が過ぎた。
健介の心は、まだ整理がつかないままだったが、家族の間の空気は、驚くほど穏やかだった。遊園地での一日が、そして、その夜の夫婦と親子の対話が、凍り付いていた小林家の時間を、確かに動かし始めていた。
日曜の夕暮れ。ヒグラシの鳴く声が、昼間の猛烈な暑さを少しだけ和らげている。
「ごめん、牛乳切らしちゃった。あと、卵も」
リビングで寛いでいた美奈子の言葉に、健介は「じゃあ、俺が買ってくるよ」と、ごく自然に立ち上がった。数週間前には考えられなかった、穏やかな夫婦の会話だった。
近所のコンビニまでは、歩いて数分。健介は、サンダル履きで、ゆっくりと夕暮れの道を歩いていた。再生しかけている家族との、ささやかな幸せ。その余韻に、彼の心は満たされていた。左腕に宿る異質な存在との、あまりにも異常な秘密を胸に隠しながらも、彼は確かに、失っていた日常を取り戻しつつあった。
コンビニからの帰り道、卵のパックが入った袋を片手に、慣れた住宅街の角を曲がったところで、一人の男とすれ違った。
ごく普通の、Tシャツにジーンズという格好の若い男。健介は、特に気にも留めずに通り過ぎようとした。
だが、すれ違う瞬間、健介の全身の産毛が、一斉に逆立った。
七月下旬の蒸し暑さの中、その男の周囲だけが、まるで真冬のように空気が凍りついている。男から放たれる、人間のものではない、絶対的な冷気。それは、無機質で、底知れないプレッシャーとなって、健介の肌を刺した。
そして、その視線が、一瞬だけ、健介の左腕に突き刺さったのを、確かに感じた。
健介は、弾かれたように振り返った。
だが、そこには誰もいなかった。今の男は、まるで陽炎のように、あるいは、最初から存在しなかったかのように、忽然と姿を消していた。
(なんだ、今の寒気は……一体……?)
健介が、得体の知れない現象に困惑した、その時だった。
『くっ……!』
ダリアの、苦々しげに、そして忌々しげに舌打ちするような思念が、脳内に響いた。
(ダリア、どうした!? 今の男、知り合いか!?)
『……やはり、奴を差し向けたか、カシウスめ……』
ダリアの声は、静かだが、底知れない怒りに震えていた。彼女は、健介の問いに、有無を言わせぬ響きで告げる。
『聞け、ケンスケ。今の男はゼノスだ。サイラスのような若造とは、格が違う。カシウスの懐刀……奴の配下では、最も腕が立つ男だと聞いている』
ダリアの、これまで感じたことのないほどに純粋で、冷徹な『殺意』。それが引き金となった。
健介の脳裏に、無理やり蓋をしていたはずの、あの路地裏の記憶が、鮮明な悪夢となって蘇る。
切り落とされる腕。血の匂い。サイラスという名の追手。そして、自らの腕が刃と化し、敵を貫いた、あの悍ましい感触……!
健介は、自分が体験した出来事が、ただの悪夢ではなかったことを、今、この瞬間に、完全に理解した。
そして、あの悪夢が、まだ終わっていなかったという事実に、本当の意味で絶望する。
「……あ……ああ……!」
声にならない声が、喉から漏れる。
ダリアの告白と、蘇った記憶が、一つの恐ろしい結論を導き出す。
――あの男は、俺たちを殺しに来る。
コンビニの袋が、カサリ、と音を立てて手から滑り落ちる。卵が割れる、鈍い音がアスファルトに響いた。
健介は、振り返ると、家族のいる我が家へと、死に物狂いで駆け出した。
束の間の平穏が、音を立てて崩れ落ちていく。
本当の戦いが、もう始まってしまっていることを、健介は、全身で理解していた。
健介の心は、まだ整理がつかないままだったが、家族の間の空気は、驚くほど穏やかだった。遊園地での一日が、そして、その夜の夫婦と親子の対話が、凍り付いていた小林家の時間を、確かに動かし始めていた。
日曜の夕暮れ。ヒグラシの鳴く声が、昼間の猛烈な暑さを少しだけ和らげている。
「ごめん、牛乳切らしちゃった。あと、卵も」
リビングで寛いでいた美奈子の言葉に、健介は「じゃあ、俺が買ってくるよ」と、ごく自然に立ち上がった。数週間前には考えられなかった、穏やかな夫婦の会話だった。
近所のコンビニまでは、歩いて数分。健介は、サンダル履きで、ゆっくりと夕暮れの道を歩いていた。再生しかけている家族との、ささやかな幸せ。その余韻に、彼の心は満たされていた。左腕に宿る異質な存在との、あまりにも異常な秘密を胸に隠しながらも、彼は確かに、失っていた日常を取り戻しつつあった。
コンビニからの帰り道、卵のパックが入った袋を片手に、慣れた住宅街の角を曲がったところで、一人の男とすれ違った。
ごく普通の、Tシャツにジーンズという格好の若い男。健介は、特に気にも留めずに通り過ぎようとした。
だが、すれ違う瞬間、健介の全身の産毛が、一斉に逆立った。
七月下旬の蒸し暑さの中、その男の周囲だけが、まるで真冬のように空気が凍りついている。男から放たれる、人間のものではない、絶対的な冷気。それは、無機質で、底知れないプレッシャーとなって、健介の肌を刺した。
そして、その視線が、一瞬だけ、健介の左腕に突き刺さったのを、確かに感じた。
健介は、弾かれたように振り返った。
だが、そこには誰もいなかった。今の男は、まるで陽炎のように、あるいは、最初から存在しなかったかのように、忽然と姿を消していた。
(なんだ、今の寒気は……一体……?)
健介が、得体の知れない現象に困惑した、その時だった。
『くっ……!』
ダリアの、苦々しげに、そして忌々しげに舌打ちするような思念が、脳内に響いた。
(ダリア、どうした!? 今の男、知り合いか!?)
『……やはり、奴を差し向けたか、カシウスめ……』
ダリアの声は、静かだが、底知れない怒りに震えていた。彼女は、健介の問いに、有無を言わせぬ響きで告げる。
『聞け、ケンスケ。今の男はゼノスだ。サイラスのような若造とは、格が違う。カシウスの懐刀……奴の配下では、最も腕が立つ男だと聞いている』
ダリアの、これまで感じたことのないほどに純粋で、冷徹な『殺意』。それが引き金となった。
健介の脳裏に、無理やり蓋をしていたはずの、あの路地裏の記憶が、鮮明な悪夢となって蘇る。
切り落とされる腕。血の匂い。サイラスという名の追手。そして、自らの腕が刃と化し、敵を貫いた、あの悍ましい感触……!
健介は、自分が体験した出来事が、ただの悪夢ではなかったことを、今、この瞬間に、完全に理解した。
そして、あの悪夢が、まだ終わっていなかったという事実に、本当の意味で絶望する。
「……あ……ああ……!」
声にならない声が、喉から漏れる。
ダリアの告白と、蘇った記憶が、一つの恐ろしい結論を導き出す。
――あの男は、俺たちを殺しに来る。
コンビニの袋が、カサリ、と音を立てて手から滑り落ちる。卵が割れる、鈍い音がアスファルトに響いた。
健介は、振り返ると、家族のいる我が家へと、死に物狂いで駆け出した。
束の間の平穏が、音を立てて崩れ落ちていく。
本当の戦いが、もう始まってしまっていることを、健介は、全身で理解していた。
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