左腕のDALIA

TrueEnd

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第十二章

炎上の日常

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健介は、割れた卵がアスファルトに広がるのも構わず、自宅へと駆け戻った。
玄関のドアに鍵を差し込む指が、恐怖で震えている。リビングに入ると、妻と娘が、彼が突然走り去ったことに困惑し、ソファから心配そうに立ち上がっていた。
「あなた、どうしたの!? 顔が真っ青よ!」
「お父さん……?」
だが、健介には彼女たちの声に答える余裕はなかった。彼の頭の中では、ダリアの、これまでになく硬質で、切迫した声が響き渡っていたからだ。
『……ゼノスだ』
ダリアの声は、静かだが、鋼のような硬質さがあった。
『まずいな。奴がここまで来た以上、この場所は、もはや戦場になる』
戦場になる。その言葉が、健介の腹の底に氷の杭を打ち込んだ。
健介は、美奈子と遥の前に向き直ると、必死に言葉を絞り出した。
「美奈子、遥。……聞いてくれ。急で、本当にすまないが、今すぐ、ここから避難してほしい」
「避難? 一体、何の話をしてるの?」
美奈子の声が、不安に強張る。
「会社での一件が、原因なんだ」
健介は、あらかじめ用意していた、半分だけの真実を語った。「俺が殴った部長の裏に、もっと悪質な連中がいた。そいつらが、逆恨みして、この家を……俺たちを狙っている。今、家の近くで、そいつらの一人を見た」
その言葉には、嘘偽りのない、必死の響きが宿っていた。数々のすれ違いの末に、ようやく取り戻しかけた、夫への、父への信頼。美奈子と遥は、それを信じることを選んだ。
「……わかったわ」
美奈子は、覚悟を決めたように、一度だけ強く頷いた。「遥、すぐに最低限の荷物をまとめて! おばあちゃんの家に行くわよ!」
「う、うん……!」
遥も、父親のただならぬ様子に、文句一つ言わずに自室へと駆け上がった。
数分後。小さなボストンバッグを一つだけ持った美奈子と遥が、階段を駆け下りてきた。
玄関で、美奈子は健介の腕を掴み、真っ直ぐに彼の目を見た。「わかったわ。あの子を連れて、実家に行く。だから、あなたは、必ず全てを解決して、私たちを迎えに来て。約束よ」
「ああ……必ず」
遥も、泣きそうな顔で健介の腕にすがりつく。
「お父さん……必ず、迎えに来てね。約束だよ」
「……ああ、約束だ」
健介は、込み上げる感情を押し殺し、娘の頭を優しく撫でた。
健介が「早く行け」と二人を促し、三人がまさに玄関のドアを開けて外に出ようとした、その瞬間だった。
―――轟ッ!!!
何の予兆もなかった。
突如、家全体を揺るがす、爆撃のような轟音と、全てを薙ぎ倒す衝撃。リビングの壁が、外からの不可視の攻撃によって、まるで紙細工のように吹き飛び、そこから業火と爆風が、家族三人に襲いかかった。
「ぐっ……!」
健介は、とっさに妻と娘を庇い、その身を盾にした。熱風が背中を焼き、降り注ぐガラスの破片が肌を切り裂く。だが、不思議なことに、爆発の威力は、リビングの壁だけをピンポイントで破壊するように、完璧に制御されていた。
「行けッ!!」
健介は、妻と娘の背中を、力の限り突き飛ばした。「車のキーだ! エンジンをかけろ! 何があっても、絶対に後ろを振り返るな! 俺が必ず、後から行く!」
美奈子は一瞬躊躇したが、夫の鬼気迫る表情に、涙をこらえながら頷くと、娘の手を引いて夜の闇へと駆け出していった。
車のエンジンがかかり、タイヤがアスファルトを削る音を立てて走り去っていく。
その音を聞き届けた後、健介は、燃え盛る我が家を背にして、ゆっくりと振り返った。
家族の笑い声が響いていたはずのリビングは、もうない。彼が守ろうとした日常が、家族の思い出が、パチパチと音を立てて燃えていく。
だが、彼の瞳に、もはや絶望の色はなかった。
あるのは、全てを奪われた男の、静かで、底なしの怒りだった。
『ケンスケ! 奴が来るぞ! 構えろ!』
ダリアの叱咤が、脳内に響く。
『私の感覚に、お前の意識を同調させろ!』
ダリアの言葉に呼応するように、健介の左腕が灼けつくように熱くなった。意思とは無関係に、普通の腕に見えたはずの左腕が、ありえない形状へと変貌を遂げる。皮膚が裂け、骨が軋み、そこから現れたのは、黒曜石のように鋭利で、しなやかな刃だった。炎の光が、そのおぞましくも美しい刃に反射し、妖しく揺らめいた。
健介は、その刃を構え、炎の前に立ちはだかった。
その、臨戦態勢の男の前に、破壊された壁の外、炎の向こう側から、もう一人の男が、まるで散歩でもするかのように、静かに姿を現した。ゼノスだった。
『手荒な真似をして失礼した、敗残者ダリアよ』
ゼノスの声は、背後の業火の轟音とは裏腹に、氷のように冷徹な響きを持っていた。
『私が本気であると、わかっていただけたか? 私としても、無為に人間を傷つけるつもりはない。場所を変えようではないか。決着を付けるために』
健介は、刃と化した左腕を構えたまま、燃え盛る我が家を背に、静かに告げた。
「……望むところだ」
ダリアの声と、健介の覚悟が、完全に一つになった瞬間だった。
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