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第十三章
女王の奇策
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七月下旬の夜。
湾岸地区に、その廃ビルは墓標のように佇んでいた。かつては街の経済を支えたであろう建物も、今ではただ、砕けた窓が、虚ろな眼窩のように月を見上げているだけだった。
健介は、広大な空間の中央へと、一歩、また一歩と進んでいく。
そこは廃ビルの最上階だったが、フロアを仕切る天井はなく、見上げれば、むき出しになった屋根の鉄骨が、月光に照らされて巨大な骸のように横たわっている。まるで、だだっ広い体育館のような、巨大な空間。
その中央、月光が最も強く差し込む場所に、ゼノスは立っていた。
「来たか」
彼の声が、がらんどうのビルの中に響き渡る。その両腕は、既に無数の金属的な触手に姿を変え、まるで生き物のように、ゆっくりと蠢いていた。
「ああ」
健介は、短く応じると、左腕を構えた。彼の覚悟に呼応し、腕は滑らかに、黒曜石の刃へと変貌を遂げる。
先に動いたのは、ゼノスだった。
彼の足が、音もなく床を蹴る。次の瞬間、健介の目の前に、無数の金属的な触手が、嵐となって殺到した。
健介の体は、ダリアの意志によって、反射的に動く。黒曜石の刃が、触手の嵐を迎え撃った。
ジャラララララッ!!
甲高い金属音が、ビル全体を震わせる。ダリアの操る一撃は重い。だが、ゼノスの手数と速度は、それを遥かに上回っていた。刃が一本の触手を弾いても、別の三本が死角から襲いかかる。
健介は、自分の意思とは無関係に、まるで人形のように動かされていた。
「どうした、ダリア! その程度か! 嘗ての貴様の力は、そんなものではなかったはずだ!」
ゼノスの嘲るような声が響く。彼の触手の一本が、ついに防御をかいくぐり、健介の脇腹を浅く裂いた。
「ぐっ……!」
走る激痛に、健介の動きがわずかに鈍る。
健介は、柱の影へと、転がるように身を隠した。
追撃してきたゼノスの触手が、健介が隠れたコンクリートの柱を、爆ぜるように砕け散らせた。
だが、健介の姿はそこにはなかった。
彼は、懐から取り出した、小さな球体を床に叩きつけていた。次の瞬間、刺激臭のある濃厚な煙が、フロア全体に瞬く間に充満していく。
「小賢しい真似を……!」
煙の中、ゼノスの声が響く。「その程度の玩具で、この俺の感覚を逃れられるとでも思ったか!」
健介は戦っていなかった。ただ、逃げ回り、隠れ、注意を引きつけていた。そのあまりに泥臭く、姑息な抵抗に、ゼノスの動きに、次第に苛立ちが募っていく。
「終わりだ!」
ついに、健介はフロアの隅へと追い詰められた。ゼノスの触手が、四方八方から、逃げ場のない檻のように迫る。
ゼノスは、勝利を確信していた。目の前の、玩具に頼るしか能のない、哀れな器に、とどめの一撃を放つべく、全ての触手を収束させた。
その、瞬間だった。
突如、ゼノスの背後、最も深い闇の中から、黒曜石の刃が、音もなく襲い掛かった。
「なっ!?」
ゼノスが、背後に生まれた、ありえない気配に気づいた時には、全てが遅かった。
彼の胸の中心を、鋭利な刃が深々と貫いていた。
「ぐ……あ……っ!」
ゼノスの口から、鮮血が溢れ出す。彼の腕から伸びていた無数の触手が、力を失い、だらりと床に落ちた。彼は、信じられないという顔で、ゆっくりと振り返った。
そこには、半透明に揺らめく、ダリア本人が立っていた。
「……馬鹿な……このような、姑息な策に……!」
ゼノスは、驚愕と、そしてどこか悲しげに叫んだ。「あなたも人間ごときの力を借りるのですか!」
それに対し、ダリアは弱々しくも、毅然として答えた。
「今の我では人間の力を借りでもしなければお前には勝てなかった。我は負けるわけにはいかなかった。本国へ帰り、ことの始末をつけるまでは!」
そして、彼女は続ける。
「ゼノス、お前はまだ分かっておらんのか。我らの国が人間界に干渉しなかったのは、彼らを脆弱なだけの存在と侮っていたからではない。むしろ、逆だ。人間の欲望は底がなく、その知略は、時として我らをも凌駕する。だからこそ、関わるべきではないと判断しておったのだ」
ダリアの真意を聞き、ゼノスは全てを理解した。カシウスの過ちも、ダリアの正しさも。
彼は、何かを納得したように、か細い声で、最後の言葉を紡いだ。
「ダリア様……あなたは、正しかった……。カシウス様は……変わられてしまった。あの『人間』が、現れてから……」
その謎の言葉を残し、ゼノスは、ゆっくりと前のめりに崩れ落ちた。
ゼノスが息絶えた後、ダリアの半透明の体は光の粒子となって、再び健介の左腕へと吸い込まれていく。それと同時に、刃と化していた左腕が、音もなく収縮し、元の腕の形へと戻っていった。
健介は、荒い息をつきながら、その場に膝をついた。全身が傷だらけで、血が止まらない。
「……うまくいったな」
健介が、か細い声で言う。
脳内に響くダリアの声は、弱々しかった。
『……フン。二度とごめんだわ。あのように無防備な姿を、下等生物の前に晒すなど……』
――燃え盛る家を後にし、廃ビルへと向かう道すがら、健介は脳内で必死に思考を巡らせていた。まともに戦っても勝てない。何か、何か手はないのか……。その時、一つの、あまりにも無謀な考えが、彼の頭をよぎった。
健介は、ダリアに問いかけた。「一つ、確認したいことがある。お前は、俺の体から、一時的にでも離れられるか?」と。
ダリアは、その突拍子もない問いに驚きながらも、「不可能ではない。だが、長くはもたん。器から離れた我は極度に不安定で、おそらくは、一撃を放つのが限界だろう」と答えた。
その言葉を聞き、健介の心に、一つの作戦が形作られた。「……よし。なら、勝つための策が一つだけある」
そして、彼は決戦の前に、深夜まで営業しているホームセンターに寄り、防犯用の発煙筒や、子供のおもちゃコーナーにあった大量のビー玉といった、ガラクタのような品々を買い揃えていたのだった――
『だが、認めよう。お主の小賢しい策がなければ、我らは負けていた』
そして、ダリアは、新たな決意を、健介の脳内に力強く響かせた。
『カシウスを唆した人間がいるというのなら、そ奴は、我らの世界の理を乱した大罪人よ。……必ず見つけ出し、我が手で、相応の報いを受けさせてやる』
健介は、何も答えなかった。ただ、自らの意志と、知恵で、初めて掴み取った勝利の重みを、噛みしめていた。その腕を見つめながら、彼は、これがまだ、長い戦いの始まりに過ぎないことを、予感していた。
湾岸地区に、その廃ビルは墓標のように佇んでいた。かつては街の経済を支えたであろう建物も、今ではただ、砕けた窓が、虚ろな眼窩のように月を見上げているだけだった。
健介は、広大な空間の中央へと、一歩、また一歩と進んでいく。
そこは廃ビルの最上階だったが、フロアを仕切る天井はなく、見上げれば、むき出しになった屋根の鉄骨が、月光に照らされて巨大な骸のように横たわっている。まるで、だだっ広い体育館のような、巨大な空間。
その中央、月光が最も強く差し込む場所に、ゼノスは立っていた。
「来たか」
彼の声が、がらんどうのビルの中に響き渡る。その両腕は、既に無数の金属的な触手に姿を変え、まるで生き物のように、ゆっくりと蠢いていた。
「ああ」
健介は、短く応じると、左腕を構えた。彼の覚悟に呼応し、腕は滑らかに、黒曜石の刃へと変貌を遂げる。
先に動いたのは、ゼノスだった。
彼の足が、音もなく床を蹴る。次の瞬間、健介の目の前に、無数の金属的な触手が、嵐となって殺到した。
健介の体は、ダリアの意志によって、反射的に動く。黒曜石の刃が、触手の嵐を迎え撃った。
ジャラララララッ!!
甲高い金属音が、ビル全体を震わせる。ダリアの操る一撃は重い。だが、ゼノスの手数と速度は、それを遥かに上回っていた。刃が一本の触手を弾いても、別の三本が死角から襲いかかる。
健介は、自分の意思とは無関係に、まるで人形のように動かされていた。
「どうした、ダリア! その程度か! 嘗ての貴様の力は、そんなものではなかったはずだ!」
ゼノスの嘲るような声が響く。彼の触手の一本が、ついに防御をかいくぐり、健介の脇腹を浅く裂いた。
「ぐっ……!」
走る激痛に、健介の動きがわずかに鈍る。
健介は、柱の影へと、転がるように身を隠した。
追撃してきたゼノスの触手が、健介が隠れたコンクリートの柱を、爆ぜるように砕け散らせた。
だが、健介の姿はそこにはなかった。
彼は、懐から取り出した、小さな球体を床に叩きつけていた。次の瞬間、刺激臭のある濃厚な煙が、フロア全体に瞬く間に充満していく。
「小賢しい真似を……!」
煙の中、ゼノスの声が響く。「その程度の玩具で、この俺の感覚を逃れられるとでも思ったか!」
健介は戦っていなかった。ただ、逃げ回り、隠れ、注意を引きつけていた。そのあまりに泥臭く、姑息な抵抗に、ゼノスの動きに、次第に苛立ちが募っていく。
「終わりだ!」
ついに、健介はフロアの隅へと追い詰められた。ゼノスの触手が、四方八方から、逃げ場のない檻のように迫る。
ゼノスは、勝利を確信していた。目の前の、玩具に頼るしか能のない、哀れな器に、とどめの一撃を放つべく、全ての触手を収束させた。
その、瞬間だった。
突如、ゼノスの背後、最も深い闇の中から、黒曜石の刃が、音もなく襲い掛かった。
「なっ!?」
ゼノスが、背後に生まれた、ありえない気配に気づいた時には、全てが遅かった。
彼の胸の中心を、鋭利な刃が深々と貫いていた。
「ぐ……あ……っ!」
ゼノスの口から、鮮血が溢れ出す。彼の腕から伸びていた無数の触手が、力を失い、だらりと床に落ちた。彼は、信じられないという顔で、ゆっくりと振り返った。
そこには、半透明に揺らめく、ダリア本人が立っていた。
「……馬鹿な……このような、姑息な策に……!」
ゼノスは、驚愕と、そしてどこか悲しげに叫んだ。「あなたも人間ごときの力を借りるのですか!」
それに対し、ダリアは弱々しくも、毅然として答えた。
「今の我では人間の力を借りでもしなければお前には勝てなかった。我は負けるわけにはいかなかった。本国へ帰り、ことの始末をつけるまでは!」
そして、彼女は続ける。
「ゼノス、お前はまだ分かっておらんのか。我らの国が人間界に干渉しなかったのは、彼らを脆弱なだけの存在と侮っていたからではない。むしろ、逆だ。人間の欲望は底がなく、その知略は、時として我らをも凌駕する。だからこそ、関わるべきではないと判断しておったのだ」
ダリアの真意を聞き、ゼノスは全てを理解した。カシウスの過ちも、ダリアの正しさも。
彼は、何かを納得したように、か細い声で、最後の言葉を紡いだ。
「ダリア様……あなたは、正しかった……。カシウス様は……変わられてしまった。あの『人間』が、現れてから……」
その謎の言葉を残し、ゼノスは、ゆっくりと前のめりに崩れ落ちた。
ゼノスが息絶えた後、ダリアの半透明の体は光の粒子となって、再び健介の左腕へと吸い込まれていく。それと同時に、刃と化していた左腕が、音もなく収縮し、元の腕の形へと戻っていった。
健介は、荒い息をつきながら、その場に膝をついた。全身が傷だらけで、血が止まらない。
「……うまくいったな」
健介が、か細い声で言う。
脳内に響くダリアの声は、弱々しかった。
『……フン。二度とごめんだわ。あのように無防備な姿を、下等生物の前に晒すなど……』
――燃え盛る家を後にし、廃ビルへと向かう道すがら、健介は脳内で必死に思考を巡らせていた。まともに戦っても勝てない。何か、何か手はないのか……。その時、一つの、あまりにも無謀な考えが、彼の頭をよぎった。
健介は、ダリアに問いかけた。「一つ、確認したいことがある。お前は、俺の体から、一時的にでも離れられるか?」と。
ダリアは、その突拍子もない問いに驚きながらも、「不可能ではない。だが、長くはもたん。器から離れた我は極度に不安定で、おそらくは、一撃を放つのが限界だろう」と答えた。
その言葉を聞き、健介の心に、一つの作戦が形作られた。「……よし。なら、勝つための策が一つだけある」
そして、彼は決戦の前に、深夜まで営業しているホームセンターに寄り、防犯用の発煙筒や、子供のおもちゃコーナーにあった大量のビー玉といった、ガラクタのような品々を買い揃えていたのだった――
『だが、認めよう。お主の小賢しい策がなければ、我らは負けていた』
そして、ダリアは、新たな決意を、健介の脳内に力強く響かせた。
『カシウスを唆した人間がいるというのなら、そ奴は、我らの世界の理を乱した大罪人よ。……必ず見つけ出し、我が手で、相応の報いを受けさせてやる』
健介は、何も答えなかった。ただ、自らの意志と、知恵で、初めて掴み取った勝利の重みを、噛みしめていた。その腕を見つめながら、彼は、これがまだ、長い戦いの始まりに過ぎないことを、予感していた。
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