左腕のDALIA

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第十五章

置き去りの日常

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七月二十九日、火曜日の朝。
世間のサラリーマンたちが、気だるい体をスーツに押し込んで戦場へと向かう時間。健介は、駅前のビジネスホテルの一室で、コンビニで買ってきた便箋に、一文字一文字、丁寧に言葉を刻んでいた。
『退職願』。
ゼノスとの死闘で負った傷が、全身で鈍い痛みを主張しているが、彼の心は、これまでにないほど澄み渡っていた。書き終えたそれを、そっと封筒に入れる。
彼は、クローゼットから、一番良いスーツを取り出し、丁寧に袖を通す。そして、完成した退職願を、そのスーツの内ポケットへと、そっとしまった。
これから向かうのは、処刑台ではない。過去の自分との、決別のための儀式だ。
会社の門をくぐる健介の足は、不思議なほど軽かった。
オフィスに入ると、数人の同僚が、驚いたように、しかしどこか安堵したような複雑な表情で彼に駆け寄ってきた。
「小林さん…! 体、大丈夫なんですか! それに、家が燃えたって……!」
声をかけてきたのは、後輩の渡辺だった。その声には、以前の要領の良さではなく、心からの心配が滲んでいた。
「ああ、大丈夫だ。心配してくれて、ありがとう」
健介が穏やかに返すと、渡辺は何か言いたそうに口ごもった後、「…俺、小林さんが戻ってきてくれて、嬉しいです」と、小さな声で言った。
他の同僚たちも、代わる代わる声をかけてきた。「大変でしたね」「無理しないでくださいよ」。彼らの言葉は、健介が孤独だと思っていたこの灰色の戦場で、彼が確かに築いてきた、ささやかな繋がりの証だった。
健介は、その温かい言葉に感謝しながらも、どこか寂しげに微笑むと、言った。
「すまない。俺は、けじめをつけに来たんだ」
その言葉に、同僚たちの間に、困惑と、嫌な予感が広がる。
健介は、彼らに一礼すると、輪を抜け、まっすぐ人事部長の元へと向かった。
通された会議室で、健介は内ポケットから、あの封筒を取り出した。
「部長、お話があります」
彼は、人事部長の前に、「退職願」と書かれた封筒を、静かに置いた。
人事部長は、その封筒を見て、驚愕の表情を浮かべた。
「……本気かね、小林君」
「はい」
「考え直してくれないか。高橋部長の件は、君だけの責任ではないと、会社は判断している。今や、君は、この会社に必要な人間だ」
数週間前なら、喉から手が出るほど欲しかった言葉。だが、今の健介の心には、もう響かなかった。
「ありがとうございます。ですが、俺には、やらなければならないことがあるんです。家族のために」
健介は、深く、そして、晴れやかに頭を下げた。
自分のデスクに戻り、私物を段ボール箱に詰め始めると、予感が的中したことを知った同僚たちが、どっと押し寄せてきた。
「嘘だろ、小林さん!」「なんでだよ!」「あなたが、やっとあの部長を追い出してくれたのに!」「これから、この部署を良くしていけると思ったのに!」
皆が、必死に健介を引き留めようとする。
健介は、その言葉の一つ一つに感謝しながらも、静かに、しかし、きっぱりと首を横に振った。
「すまない。だが、もう決めたんだ」
彼は、荷物を詰め終えた段ボール箱を閉じながら続けた。「みんなには、本当に感謝してる。俺が孤独じゃなかったってこと、最後に気づかせてもらったよ」
彼の、揺るぎない覚悟を悟った同僚たちは、それ以上、何も言えなくなった。
最後に、エレベーターホールまで、渡辺が見送りに来た。
「……必ず、戻ってきてくださいよ。俺たち、待ってますから」
彼は、力強く手を差し出した。
「ああ」
健介は、その手を固く握り返した。
同僚たちの、尊敬と、寂しさが入り混じった視線に見送られながら、健介はオフィスを去った。
会社のビルを出た瞬間、彼を長年縛り付けていた「サラリーマン」という役割から、本当に解放されたような、不思議なほど晴れやかな気持ちになった。
次に、彼は銀行のATMに向かった。自分の口座に残っていた預金のほぼ全額を、妻の美奈子の口座へと振り込んだ。通帳に残ったのは、わずかな残高だけ。それが、彼が過去と決別するための、儀式のように感じられた。

昼過ぎ。健介は、ローカル線の電車に揺られていた。窓の外には、見慣れた市街地が遠ざかり、のどかな郊外の風景が広がっていく。妻と娘が避難している、美奈子の実家がある町だった。
彼は、駅を降りると、実家から少し離れた、小高い丘の上にある公園へと向かった。そこからは、眼下に広がる住宅街と、その一角にある妻の実家が見下ろせた。
庭先で、美奈子が母親と、洗濯物を取り込んでいるのが見えた。二人は、時折、何かを話しては、穏やかに笑っている。やがて、家の中から遥が出てきて、母親たちに冷たい麦茶でも持ってきたのだろうか、三人で縁側に座って、楽しげに談笑を始めた。
そこには、健介がここ数年、見たこともなかった、心からの平穏があった。
(……よかった)
健介の胸に、温かい何かが込み上げてくる。
彼が守りたかったものは、これだ。自分がここにいなければ、彼女たちは、こうして穏やかに笑っていられる。その事実が、彼の決意を、揺るぎないものにした。
『……ケンスケ』
脳内に響いたダリアの声は、静かだった。健介の瞳を通して、彼の家族の穏やかな光景を、彼女もまた見ていた。そして、彼の心から流れ込んでくる、愛おしさと、断ち切るような痛み、そして、揺るぎない決意の奔流を、彼女は自らのもののように感じ取っていた。
『会わずに行くつもりか?』
健介は、答えない。ただ、目に焼き付けるように、家族の姿を見つめていた。
(ああ)
彼は、心の中で、強く頷いた。
(今会ったら、きっと、覚悟が鈍ってしまう。……必ず帰ってくる。そして、今度こそ、俺が二人を迎えに来るんだ)
健介は、その光景に、静かに背を向けた。
そして、ポケットからスマートフォンを取り出した。妻の美奈子に、短いメッセージを打ち込む。
何度も言葉を打ち直し、そして、最後にこう記した。
『今まで、ありがとう。必ず、全てを解決して、お前たちを迎えに行く。それまで、遥のことを頼む』
送信ボタンを押すと同時、彼は、スマートフォンの電源を完全に落とした。
彼の、日常との最後の繋がりが、自らの手で断ち切られた瞬間だった。
健介は、来た時とは逆方向の、市内の歓楽街へと向かう電車に乗るために、駅へと歩き始めた。
もう、彼の足取りに、かつてのような迷いはなかった。
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