左腕のDALIA

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第十六章

青い獅子の酒場

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七月二十九日、火曜日の夜。
健介が、市内の中心部に戻ってきた頃には、街はすっかり夜の顔を見せていた。スマートフォンの地図を頼りに、彼は、ネオンの光が煌めき、酔客たちの喧騒が渦巻く、この街一番の歓楽街へと足を踏み入れた。
『……けたたましい。人間の欲望が、何の秩序もなく垂れ流されておるな』
ダリアが、嫌悪感を隠さずに呟く。
(違いない)
健介も、心の中で同意した。だが、感傷に浸っている暇はない。彼は、人波をかき分けるようにして、スマートフォンの地図が示す場所へと向かった。
雑居ビルがひしめく、路地裏の一角。
その奥に、目的の店はあった。古い煉瓦造りのビルの、地下へと続く、重厚な木の扉。看板らしい看板はなく、ただ、扉の中央に、月光を鈍く反射する、真鍮製の「青い獅子の紋章」が埋め込まれているだけだった。
健介は、一度だけ深呼吸をすると、その重い扉を押した。
カラン、とドアベルが鳴る。
内部は、外の喧騒が嘘のような、静かな空間だった。壁一面の洋酒のボトル、低く流れるジャズの音色、そして、磨き上げられた一枚板のカウンター。オーセンティックな、大人のための酒場。それが、第一印象だった。
客は、健介一人だけだった。
カウンターの奥で、一人の女性が、静かにグラスを磨いていた。歳の頃は三十代半ばだろうか。黒いベストに身を包み、長い髪を後ろで一つに束ねた、涼やかな目元の美女だった。
「いらっしゃいませ」
彼女は、穏やかな笑みを浮かべて、健介に言った。
健介は、カウンターの隅の席に腰を下ろす。メニューを開くふりをしながら、心臓が早鐘を打つのを感じていた。
「……ご注文は?」
「その前に、一つ」
健介は、意を決すると、ダリアに教えられた合言葉を、静かに告げた。
「『月は、今も、かの地を照らしているか』」
その瞬間、女性の表情から、全ての感情が消え去った。
穏やかだったバーテンダーの顔は、能面のように冷徹な、工作員の顔へと変わる。彼女は、グラスを置くと、カウンターの下から、音もなく、鈍色の銃口のようなものを健介に向けた。
「貴様、何者だ! なぜその言葉を知っている! カシウスの手のものか!」
その声は、低く、鋭く、有無を言わさぬ響きを持っていた。
観測者の敵意を前にしても、健介は不思議なほど冷静だった。彼は、静かに、しかし、はっきりと告げる。
「証明が、必要みたいだな」
そして、彼は、自らの左腕に、心の中で語りかけた。
「―――頼むぞ、相棒」
その健介の、絶対的な信頼に応えるように、ダリアが、彼の左腕を、ほんの少しだけ、黒曜石の刃へと変貌させた。スーツの袖が内側から裂け、月光を吸い込むような、漆黒の刃の先端が、数センチだけ、姿を現す。
その、紛れもないダリアの力の波動を感じ取った観測者は、武器を取り落としそうになるのを、必死でこらえた。彼女の目に、信じられないという驚愕と、そして、次の瞬間には、熱い涙が溢れ出した。
彼女は、カウンターから飛び出すと、健介の前に崩れ落ちるようにひれ伏した。
「ダリア様! ご無事であったのですね! ……ああ、しかし、なんとおいたわしい……! まさか、この世界に逃げ延びるために、そのような冴えない姿におなりとは……!」
健介は、自分がダリア本人だと思われていることに、ただただ困惑した。
「え? 俺が?」
『違う、この阿呆! 我は、こやつの左腕に宿っておるだけじゃ!』
健介の脳内で、ダリアが呆れ返ったように叫ぶ。
そして、彼女は観測者に向かって(健介を通して)言った。「顔を上げよ、レイラ。久しいな。そして、この冴えない中年は、わしの相棒じゃ」
健介は、すかさずツッコミを入れた。
「だから、冴えないとか言うな!」
ダリアに「レイラ」と呼ばれ、彼女ははっと我に返った。涙を拭い、彼女は、それでもまだ潤んだ瞳で健介を見つめる。
「左腕に……? なるほど、さようでございますか! さすがはダリア様! 敵の目を欺くため、あえてこのようなお姿に! なんという深慮遠謀! そして、その『相棒』というのも、もしや暗号か何か…!」
「暗号じゃない!」
話が通じないことに苛立った健介が、ここで初めて、自らの素性を明かす。
「俺は、小林健介だ!」
レイラは、ここで初めて健介の名前を聞き、それをますます感涙にむせびながら、とんでもない方向に解釈した。
「なんと、『コバヤシケンスケ』という人間らしい偽名までご用意されていたとは!」
『この、筋金入りの阿呆めが……! ケンスケ、もうよい! こやつに何を言っても無駄じゃ! ……まあ、こやつは優秀な観測者じゃが、この思い込みの激しさが玉にきずじゃな』
ダリアが、脳内で完全にさじを投げた。
レイラは、「これ以上は、ダリア様の深遠なるお考えを、私が軽々しく詮索すべきではない」と、自らの忠誠心から、勘違いしたまま気を取り直した。そして、深々と頭を下げる。
「これは、大変失礼をいたしました。ダリア様、そして……相棒殿。どうぞ、奥へ」
彼女は、二人を店の奥にある隠し部屋へと案内した。そこは、バーとは打って変わって、最新の電子機器が並ぶ、司令室のような空間だった。
レイラは、奥のセラーから、埃をかぶった年代物のボトルを取り出してきた。
「ダリア様、長旅でお疲れでしょう。これは、人間界で見つけました、貴方様のお口に合うかもしれぬ、古い葡萄酒でございます。ささ、まずは一杯…」
彼女は、最高級のワイングラスに、深紅の液体を注ぐと、それを恭しく健介の前に差し出した。
(俺、こんな高い酒、飲んだことないんだけど……)
健介が戸惑っていると、ダリアが脳内に響かせた。
『ケンスケ。此奴めはお主を我と信じ疑っておらぬ。気にせず飲むが良い』
健介が、恐る恐るグラスを口にした後、レイラは改めて居住まいを正した。
「私としたことが、取り乱してしまいました」と、レイラは言った。「あの日以来、ずっと、ダリア様の反応を探しておりました。ですが、あの日を境に、ダリア様の気配が、この世界から完全に消失してしまいました。最悪の事態も…覚悟しておりました…」
彼女は、真っ直ぐに二人を見つめると、力強く告げた。
「異世界へのゲートを開く準備は、いつでもできております。ダリア様、そして、相棒殿。いつでも、ご命令を」
健介の、人間としての日常は、完全に終わりを告げた。ここから先は、もう引き返すことのでない、異世界への道だ。
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