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本編
第三話 リリアナの過去
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ヴァレンタイン公爵邸のレッスン室。分厚いカーテンが閉ざされたその部屋には、今日も定規が机を叩く乾いた音が響いていた。
「姿勢が悪うございます、リリアナ様。背筋は常に氷柱のように真っ直ぐに」
ヴァレンタイン公爵家に長らく仕えて来た執事長・セバスチャンが、冷徹な声で告げた。
十二歳のリリアナは、重たいドレスに身を包み、唇を噛んで背筋を伸ばした。
「……はい、セバスチャン」
「声が小さい。貴女は将来、大国の名のある貴族に嫁ぐのです。完璧な所作、そして完璧な微笑み以外は必要ありません」
セバスチャンはリリアナの細い指先を定規でパシリと打った。
痛みが走るが、リリアナは涙をこらえた。泣けば「見苦しい」と食事を抜かれるからだ。
この頃のリリアナにとって、世界はこの薄暗い部屋と、父の冷たい視線だけで構成されていた。母はこの陰鬱とした屋敷に嫌気がさしたのか早々に逃げ出し、ひと月に一度帰ってくればよいほうだった。
遊びは禁止。友人を作ることも禁止。彼女に許されているのは、膨大な魔力を制御するための訓練と、貴族としての教養を詰め込むことだけ。
「……あの、セバスチャン」
「なんでしょう」
「今日のレッスンの後、厨房に行ってもよろしいですか? 料理長がチョコパンを作るそうで、お手伝いがしたくて……」
リリアナがおずおずと尋ねると、セバスチャンは眉間に深い皺を刻み、侮蔑の色を隠そうともせずに吐き捨てた。
「下賤な。公爵令嬢が、油と煤にまみれた厨房に出入りするなど、言語道断です」
「でも……私は……」
「貴女が作るべきは料理ではなく、公爵家の利益です。二度とそのような戯言を口になさらぬよう」
ピシャリと跳ね除けられた。
リリアナは膝の上で拳を握りしめた。彼女の中に眠る本能的な衝動は、行き場を失い、魔力の奔流となって体内を渦巻いた。
その時、部屋の扉が開き、リリアナの父――ゲオルグ公爵が入ってきた。
「セバスチャン、教育の進み具合はどうだ」
「はっ。順調でございます。魔力の制御も安定しております」
「そうか。……ならば、そろそろ頃合いだな」
公爵はリリアナを見下ろした。娘を見る目ではない。磨き上げた宝石の値踏みをする目だ。
「リリアナ。明日から街の孤児院へ行け」
「……え?」
「教会と連携し、貧民どもに治癒魔術を施すのだ。美しく、慈悲深い、公爵家の聖女として振る舞え。そうすれば、民衆からの支持が集まり、お前の価値が上がる」
それは、純粋な善意からの命令ではなかった。あくまで聖女というブランドを確立するための政治的パフォーマンス。
けれど、リリアナの瞳に微かな光が宿った。この息の詰まる屋敷の外に出られる。そして、誰かの役に立つことができる。
「……はい、お父様。謹んでお受けいたします」
リリアナは深くカーテシーをした。
それが、彼女にとっての唯一の外の世界への扉となるとは知らずに。そして、その孤児院での活動が、彼女の規格外の能力を開花させるきっかけになるとも知らずに。
「姿勢が悪うございます、リリアナ様。背筋は常に氷柱のように真っ直ぐに」
ヴァレンタイン公爵家に長らく仕えて来た執事長・セバスチャンが、冷徹な声で告げた。
十二歳のリリアナは、重たいドレスに身を包み、唇を噛んで背筋を伸ばした。
「……はい、セバスチャン」
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「……あの、セバスチャン」
「なんでしょう」
「今日のレッスンの後、厨房に行ってもよろしいですか? 料理長がチョコパンを作るそうで、お手伝いがしたくて……」
リリアナがおずおずと尋ねると、セバスチャンは眉間に深い皺を刻み、侮蔑の色を隠そうともせずに吐き捨てた。
「下賤な。公爵令嬢が、油と煤にまみれた厨房に出入りするなど、言語道断です」
「でも……私は……」
「貴女が作るべきは料理ではなく、公爵家の利益です。二度とそのような戯言を口になさらぬよう」
ピシャリと跳ね除けられた。
リリアナは膝の上で拳を握りしめた。彼女の中に眠る本能的な衝動は、行き場を失い、魔力の奔流となって体内を渦巻いた。
その時、部屋の扉が開き、リリアナの父――ゲオルグ公爵が入ってきた。
「セバスチャン、教育の進み具合はどうだ」
「はっ。順調でございます。魔力の制御も安定しております」
「そうか。……ならば、そろそろ頃合いだな」
公爵はリリアナを見下ろした。娘を見る目ではない。磨き上げた宝石の値踏みをする目だ。
「リリアナ。明日から街の孤児院へ行け」
「……え?」
「教会と連携し、貧民どもに治癒魔術を施すのだ。美しく、慈悲深い、公爵家の聖女として振る舞え。そうすれば、民衆からの支持が集まり、お前の価値が上がる」
それは、純粋な善意からの命令ではなかった。あくまで聖女というブランドを確立するための政治的パフォーマンス。
けれど、リリアナの瞳に微かな光が宿った。この息の詰まる屋敷の外に出られる。そして、誰かの役に立つことができる。
「……はい、お父様。謹んでお受けいたします」
リリアナは深くカーテシーをした。
それが、彼女にとっての唯一の外の世界への扉となるとは知らずに。そして、その孤児院での活動が、彼女の規格外の能力を開花させるきっかけになるとも知らずに。
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