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第十七話 完全アウェーの侯爵邸と埃まみれの客室
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王都から馬車に揺られること三日。車窓の景色は、賑やかな街並みから、広大な麦畑と鬱蒼とした森へと変わっていた。
クローデル侯爵家。代々、強力な武人や魔術師を輩出し、国境の守りを担ってきた武門の名家。その本拠地である屋敷は、優雅というよりは要塞に近い、威圧的な石造りの巨館だった。
重厚な鉄門をくぐり、馬車寄せに到着すると、そこには既に二十名ほどの使用人が整列して待ち構えていた。全員が、まるで彫像のように無表情だ。歓迎の空気など微塵もない。
「……降りるぞ。俺の後ろを歩け」
シルヴィスが先に馬車を降り、手を差し出した。
エレナはその手を取り、静かに地面に降り立つ。瞬間、数十の視線がエレナに突き刺さった。好奇心、侮蔑、そして敵意。
(ああ、予想通りですね)
エレナは内心で冷静に分析する。彼らにとって、自分は「若様をたぶらかした身の程知らずの泥棒猫」なのだ。
「おかえりなさい、シルヴィス」
玄関ホールの階段の上に、二人の人物が立っていた。
一人は、シルヴィスをそのまま老けさせ、厳格さを煮詰めたような初老の男。当主であるグレアム・クローデル侯爵。もう一人は、煌びやかなドレスに身を包み、扇子で口元を隠した女性。シルヴィスの母であり、グレアムの妻、ベアトリス・クローデル侯爵夫人だ。
「……久しぶりだな、父上、母上」
シルヴィスの声は硬い。
ベアトリスの鋭い視線が、エレナを頭のてっぺんから爪先まで、値踏みするように舐め回した。
「あら……。もっと派手な女かと思いましたけれど、随分と地味ですこと。王宮のメイドというのは、身なりに気を使わない――いえ、使えないのかしら?」
開口一番の嫌味。シルヴィスのこめかみに青筋が浮かぶのが見えた。彼が怒鳴り返そうとするより早く、エレナは一歩進み出た。
スカートの裾を摘み、背筋を伸ばし、完璧な角度と速度で膝を折る。
「お初にお目にかかります、侯爵閣下、奥様。王宮付きメイド、エレナ・フォスターと申します。この度は、格式あるクローデル家にお招きいただき、身に余る光栄と存じます」
そのカーテシーは、王族への謁見で鍛え上げられた一級品だった。
使用人たちがざわめく。名家とは言え、王都から離れた国境沿いに位置する貴族の屋敷では、これほど洗練された所作を見る機会などそうそうない。
夫人は鼻白んだように扇子を閉じた。
「……ふん。まぁいいでしょう。リナ、部屋へ案内さしあげて」
リナと呼ばれたメイド長らしき中年の女性が、意地の悪そうな笑みを浮かべて近づいてきた。
「こちらへどうぞ。……お客様用の部屋はあいにく満室でして。東の角部屋をご用意いたしました」
東の角部屋。その単語が出た瞬間、シルヴィスが言の葉を発した。
「母上、あそこは長年使っていない物置同然の場所だ。客人を物置に泊めるのが、クローデル家の作法なのか?」
「何か勘違いしているようね。彼女はメイドであって、客人ではありません。嫌なら馬小屋を使ってもらっても構わないわ」
シルヴィスが激昂して詰め寄ろうとするのを、エレナがそっと制した。
「屋根があるだけで十分です。ご配慮、感謝いたします」
***
案内された東の角部屋の扉が開かれた瞬間、ムッとしたカビと腐敗臭が鼻をついた。
窓は厚い板で打ち付けられ、床には雪のように埃が積もり、天井の隅には巨大な蜘蛛の巣が張っている。家具には白いシーツがかけられたままで、そこにも埃が積層していた。
「……これは酷いな」
後ろからついてきたシルヴィスが、ハンカチで口元を覆いながら絶句した。
案内役のメイド長は、勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「申し訳ありません。人手が足りなくて、掃除が追いついておりませんの。まあ、王宮の優秀なメイド様なら、これくらいご自分でなんとかできますわよね?」
これは「掃除をしてみろ」という挑発ではない。「泣いて逃げ出せ」という宣告だ。
普通の令嬢なら、この汚さと悪意に耐えきれず、その場で泣き崩れるだろう。だが、エレナは違った。彼女のエメラルドグリーンの瞳が、キラリと鋭く光ったのを、メイド長は見逃した。
「……ええ。お気遣いなく」
エレナは懐から、愛用の真っ白な手袋を取り出し、パンッ!と音を立てて装着した。それは、獲物を見つけた狩人の顔だった。
「やりがいがありますね」
「は?」
「シフォン、出番ですよ。天井の隅に見える、あの黒い靄を」
「キュッ!!」
エレナの鞄から、白い毛玉――シフォンが飛び出した。
魔術の名家らしい重苦しい空気や、屋敷にいる者たちの悪意が凝り固まった、魔力の澱。シフォンにとってはご馳走の山だ。
シフォンが壁を駆け上がり、魔力の塵をパクパクと食べ尽くしていく間に、エレナは動いた。
窓の板を素手で引き剥がして風を通し、持参した高濃度の洗浄液を含ませた雑巾で、床を猛烈な勢いで拭き上げていく。その動きは、もはや残像しか見えないレベルだった。
「ちょ、ちょっと!? 何をしているの!?」
「掃除です。……そこ、退いていただけますか? 邪魔です」
エレナの有無を言わせぬ迫力に、メイド長は後ずさる。埃が舞うことすら許さない。風魔術のような換気術と、物理的な高速拭き掃除。
十分も経たないうちに、廃墟のようだった部屋は、モデルルームのように輝きを取り戻していた。カビ臭さは消え、代わりにエレナが焚いたアロマの香りが漂っている。
「……さて。これで今夜は快適に過ごせそうです」
手袋を外し、汗一つかいていない顔で微笑むエレナ。その隣で、シルヴィスはお腹を抱えて笑いを堪えていた。
「……メイド長、母上に伝えておけ。『部屋は最高に快適だ』とな」
「か、かしこまりました……」
メイド長は顔を引きつらせ、逃げるように廊下を走っていった。
最初の戦いは、エレナの圧勝に終わった。だが、これはまだ序の口。翌日には、さらに陰湿で、しかしどこか間抜けなおもてなしが待ち受けていることを、二人はまだ知らなかった。
クローデル侯爵家。代々、強力な武人や魔術師を輩出し、国境の守りを担ってきた武門の名家。その本拠地である屋敷は、優雅というよりは要塞に近い、威圧的な石造りの巨館だった。
重厚な鉄門をくぐり、馬車寄せに到着すると、そこには既に二十名ほどの使用人が整列して待ち構えていた。全員が、まるで彫像のように無表情だ。歓迎の空気など微塵もない。
「……降りるぞ。俺の後ろを歩け」
シルヴィスが先に馬車を降り、手を差し出した。
エレナはその手を取り、静かに地面に降り立つ。瞬間、数十の視線がエレナに突き刺さった。好奇心、侮蔑、そして敵意。
(ああ、予想通りですね)
エレナは内心で冷静に分析する。彼らにとって、自分は「若様をたぶらかした身の程知らずの泥棒猫」なのだ。
「おかえりなさい、シルヴィス」
玄関ホールの階段の上に、二人の人物が立っていた。
一人は、シルヴィスをそのまま老けさせ、厳格さを煮詰めたような初老の男。当主であるグレアム・クローデル侯爵。もう一人は、煌びやかなドレスに身を包み、扇子で口元を隠した女性。シルヴィスの母であり、グレアムの妻、ベアトリス・クローデル侯爵夫人だ。
「……久しぶりだな、父上、母上」
シルヴィスの声は硬い。
ベアトリスの鋭い視線が、エレナを頭のてっぺんから爪先まで、値踏みするように舐め回した。
「あら……。もっと派手な女かと思いましたけれど、随分と地味ですこと。王宮のメイドというのは、身なりに気を使わない――いえ、使えないのかしら?」
開口一番の嫌味。シルヴィスのこめかみに青筋が浮かぶのが見えた。彼が怒鳴り返そうとするより早く、エレナは一歩進み出た。
スカートの裾を摘み、背筋を伸ばし、完璧な角度と速度で膝を折る。
「お初にお目にかかります、侯爵閣下、奥様。王宮付きメイド、エレナ・フォスターと申します。この度は、格式あるクローデル家にお招きいただき、身に余る光栄と存じます」
そのカーテシーは、王族への謁見で鍛え上げられた一級品だった。
使用人たちがざわめく。名家とは言え、王都から離れた国境沿いに位置する貴族の屋敷では、これほど洗練された所作を見る機会などそうそうない。
夫人は鼻白んだように扇子を閉じた。
「……ふん。まぁいいでしょう。リナ、部屋へ案内さしあげて」
リナと呼ばれたメイド長らしき中年の女性が、意地の悪そうな笑みを浮かべて近づいてきた。
「こちらへどうぞ。……お客様用の部屋はあいにく満室でして。東の角部屋をご用意いたしました」
東の角部屋。その単語が出た瞬間、シルヴィスが言の葉を発した。
「母上、あそこは長年使っていない物置同然の場所だ。客人を物置に泊めるのが、クローデル家の作法なのか?」
「何か勘違いしているようね。彼女はメイドであって、客人ではありません。嫌なら馬小屋を使ってもらっても構わないわ」
シルヴィスが激昂して詰め寄ろうとするのを、エレナがそっと制した。
「屋根があるだけで十分です。ご配慮、感謝いたします」
***
案内された東の角部屋の扉が開かれた瞬間、ムッとしたカビと腐敗臭が鼻をついた。
窓は厚い板で打ち付けられ、床には雪のように埃が積もり、天井の隅には巨大な蜘蛛の巣が張っている。家具には白いシーツがかけられたままで、そこにも埃が積層していた。
「……これは酷いな」
後ろからついてきたシルヴィスが、ハンカチで口元を覆いながら絶句した。
案内役のメイド長は、勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「申し訳ありません。人手が足りなくて、掃除が追いついておりませんの。まあ、王宮の優秀なメイド様なら、これくらいご自分でなんとかできますわよね?」
これは「掃除をしてみろ」という挑発ではない。「泣いて逃げ出せ」という宣告だ。
普通の令嬢なら、この汚さと悪意に耐えきれず、その場で泣き崩れるだろう。だが、エレナは違った。彼女のエメラルドグリーンの瞳が、キラリと鋭く光ったのを、メイド長は見逃した。
「……ええ。お気遣いなく」
エレナは懐から、愛用の真っ白な手袋を取り出し、パンッ!と音を立てて装着した。それは、獲物を見つけた狩人の顔だった。
「やりがいがありますね」
「は?」
「シフォン、出番ですよ。天井の隅に見える、あの黒い靄を」
「キュッ!!」
エレナの鞄から、白い毛玉――シフォンが飛び出した。
魔術の名家らしい重苦しい空気や、屋敷にいる者たちの悪意が凝り固まった、魔力の澱。シフォンにとってはご馳走の山だ。
シフォンが壁を駆け上がり、魔力の塵をパクパクと食べ尽くしていく間に、エレナは動いた。
窓の板を素手で引き剥がして風を通し、持参した高濃度の洗浄液を含ませた雑巾で、床を猛烈な勢いで拭き上げていく。その動きは、もはや残像しか見えないレベルだった。
「ちょ、ちょっと!? 何をしているの!?」
「掃除です。……そこ、退いていただけますか? 邪魔です」
エレナの有無を言わせぬ迫力に、メイド長は後ずさる。埃が舞うことすら許さない。風魔術のような換気術と、物理的な高速拭き掃除。
十分も経たないうちに、廃墟のようだった部屋は、モデルルームのように輝きを取り戻していた。カビ臭さは消え、代わりにエレナが焚いたアロマの香りが漂っている。
「……さて。これで今夜は快適に過ごせそうです」
手袋を外し、汗一つかいていない顔で微笑むエレナ。その隣で、シルヴィスはお腹を抱えて笑いを堪えていた。
「……メイド長、母上に伝えておけ。『部屋は最高に快適だ』とな」
「か、かしこまりました……」
メイド長は顔を引きつらせ、逃げるように廊下を走っていった。
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