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本編
第四十話 魔窟の掃除婦とふわふわスフレパンケーキ
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北の塔を出て、宮廷魔術師団の本部へと向かう道中。紺色のドレスを風に揺らして歩くエレナの横で、シルヴィスはあからさまに不機嫌そうに歩いていた。
「……なんで俺が、あんな無能どもの巣窟に行かねばならんのだ」
「定例会議ですから。それに、本日は南の湿地帯の件で決裁が必要ですし、何より――」
エレナは手に持ったバスケットを少し持ち上げた。
「お昼のサンドイッチも、温かい紅茶も持参しました。ピクニック気分だと思えば、少しは気も紛れるのでは?」
「……ピクニックの行き先が墓場でも、お前は同じことが言えるのか?」
憎まれ口を叩きながらも、シルヴィスは大人しくエレナを共だって歩いている。
すれ違う騎士や文官たちが、ギョッとした顔で二人を見ていた。滅多に姿を現さない魔術師団長が、侍女を連れて徒歩で出勤しているのだ。しかも、その侍女はかつて鉄の女と呼ばれたメイド――エレナ・フォスターである。
「……おい、見たか? あれが噂の専属侍女か」
「紺色のドレス……本当に侍女になったんだな」
「あの団長を手懐けるなんて、どんな魔術を使ったんだ?」
ひそひそ話が聞こえてくるが、エレナは涼しい顔で聞き流し、シルヴィスの半歩後ろを完璧な姿勢でついていった。
***
宮廷魔術師団本部。王宮の東棟にあるその場所は、またの名を悪魔の巣窟と呼ばれている。
重厚な扉を開けた瞬間、エレナを迎えたのは、淀んだ空気と、紙魚の死骸のような臭い、そして死人のような顔をした魔術師たちだった。
「あ……団長……おはよう、ござ、います……」
「……空気が悪い。窓を開けろ」
シルヴィスが不快そうに顔をしかめながら、執務室へとズカズカ進んでいく。
部屋の中は、予想通りの惨状だった。書類は地層のように積み上がり、床には脱ぎ捨てられたローブや謎の魔道具が転がり、机の上には飲みかけの冷え切ったコーヒーが何杯も放置されている。
「……やりがいがありますね」
エレナの目が、獲物を見つけた狩人のように鋭く光った。
「シルヴィス様は会議へ行ってらっしゃいませ。その間に、ここを整理しておきます」
「……手加減してやれよ。こいつらも一応、国の宝だ」
シルヴィスが会議室へ向かうと、エレナは袖を捲り上げ、まずは部屋の隅で縮こまっていた事務官――今朝、北の塔へ来た青年に声をかけた。
「給湯室はどこですか?」
「えっ、あ、突き当たり右ですけど……」
「お湯を沸かしてきます。それと、換気を行いますので、重要な書類が風で飛ばないように文鎮を乗せておいてください」
そこからのエレナの動きは、まさに疾風怒濤だった。窓を全開にして風を通し、乱雑な書類を「未決」「既決」「保管」「破棄」に瞬時に分類して整える。埃を払い、枯れかけた観葉植物に水をやり、淀んだ空気を物理的かつ視覚的に浄化していく。
一時間後。会議から戻ってきたシルヴィスは、見違えるように整頓された執務室を見て、ほう、と息を吐いた。
「……俺の塔ほどではないが、マシになったな」
「環境は思考に直結しますから。……皆様も、お疲れ様です」
エレナは、執務室で死屍累々としていた部下の魔術師たちに向き直った。彼らは連日の徹夜作業で、目には隈を作り、魂が抜けたような顔をしている。
「会議、お疲れ様でした。少し休憩になさいませんか?」
「休憩……?」
「はい。脳には糖分が必要です。……食堂の材料をお借りして、少しばかりおやつを作らせていただきました」
エレナがワゴンに乗せて運んできたのは、またしても見たことのない料理――いや、菓子だった。平皿の上に、赤ちゃんのほっぺのように白く、ふっくらとした円盤状のものが二段、三段と重ねられている。
「『特製・ふわふわスフレパンケーキ』です」
パンケーキ。だが、彼らが知る薄くて平べったいそれとは明らかに違う。厚さは数センチあり、皿を揺らすと、ぷるん、ぷるんと柔らかく震えるのだ。上からは粉雪のような粉砂糖と、琥珀色のメープルシロップ、そしてホイップバターが添えられている。
「……なんだそれは。空気でも焼いたのか?」
シルヴィスが怪訝そうに突っつく。フォークの先が、抵抗なく沈んでいく。
「メレンゲをたっぷりと泡立てて、弱火でじっくり蒸し焼きにしました。口の中で溶けますよ」
シルヴィスがおずおずと一口分を切り取り、口へ運ぶ。瞬間、彼の目がカッと見開かれた。
「……消えた」
噛む必要がない。口に入れた途端、シュワリという微かな音と共に生地が解け、卵の優しい風味とミルクの甘みが広がっていく。雲を食べているようだ。そこに、バターの塩気とシロップのあっさりとした甘みが絡みつき、疲弊しきった脳髄に直接快楽物質を叩き込んでくる。
「……ッ!」
シルヴィスは無言のまま、猛烈な勢いで二口目を運んだ。その様子を見ていた部下たちが、ゴクリと喉を鳴らす。
「あの……我々も……」
「もちろんです。皆様の分も焼いてありますから」
エレナが配り始めると、死んでいた魔術師たちがゾンビのように群がった。一口食べた瞬間、あちこちから「うおおお!」「生き返る……!」「なんだこれ、布団か!?」という悲鳴に近い歓声が上がる。
「甘い……優しい……母さん……」
「体に染み渡るぅ……!」
殺伐としていた悪魔の巣窟が、一瞬にして幸福なパンケーキ天国へと変わった。その光景を、口の端にクリームをつけたシルヴィスが、不満げに睨みつける。
「……おい、エレナ」
「はい、おかわりですか?」
「違う。……俺の分が減るだろうが」
「皆様が元気になれば、仕事が早く終わります。そうすれば、シルヴィス様も早く帰れますよ?」
「……む」
シルヴィスは渋々納得し、最後の一切れを惜しむように口へ運んだ。
「……今日の夕食は、肉だぞ。分厚いステーキにしろ」
「はいはい。ニンニクをたっぷり効かせたソースでご用意しますね」
(以前にも似たような光景を見た気がする……)
そんなこと考える団員をよそに、「偏屈団長に有能な侍女が就いた」という噂が瞬く間に広がったのだった。
「……なんで俺が、あんな無能どもの巣窟に行かねばならんのだ」
「定例会議ですから。それに、本日は南の湿地帯の件で決裁が必要ですし、何より――」
エレナは手に持ったバスケットを少し持ち上げた。
「お昼のサンドイッチも、温かい紅茶も持参しました。ピクニック気分だと思えば、少しは気も紛れるのでは?」
「……ピクニックの行き先が墓場でも、お前は同じことが言えるのか?」
憎まれ口を叩きながらも、シルヴィスは大人しくエレナを共だって歩いている。
すれ違う騎士や文官たちが、ギョッとした顔で二人を見ていた。滅多に姿を現さない魔術師団長が、侍女を連れて徒歩で出勤しているのだ。しかも、その侍女はかつて鉄の女と呼ばれたメイド――エレナ・フォスターである。
「……おい、見たか? あれが噂の専属侍女か」
「紺色のドレス……本当に侍女になったんだな」
「あの団長を手懐けるなんて、どんな魔術を使ったんだ?」
ひそひそ話が聞こえてくるが、エレナは涼しい顔で聞き流し、シルヴィスの半歩後ろを完璧な姿勢でついていった。
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宮廷魔術師団本部。王宮の東棟にあるその場所は、またの名を悪魔の巣窟と呼ばれている。
重厚な扉を開けた瞬間、エレナを迎えたのは、淀んだ空気と、紙魚の死骸のような臭い、そして死人のような顔をした魔術師たちだった。
「あ……団長……おはよう、ござ、います……」
「……空気が悪い。窓を開けろ」
シルヴィスが不快そうに顔をしかめながら、執務室へとズカズカ進んでいく。
部屋の中は、予想通りの惨状だった。書類は地層のように積み上がり、床には脱ぎ捨てられたローブや謎の魔道具が転がり、机の上には飲みかけの冷え切ったコーヒーが何杯も放置されている。
「……やりがいがありますね」
エレナの目が、獲物を見つけた狩人のように鋭く光った。
「シルヴィス様は会議へ行ってらっしゃいませ。その間に、ここを整理しておきます」
「……手加減してやれよ。こいつらも一応、国の宝だ」
シルヴィスが会議室へ向かうと、エレナは袖を捲り上げ、まずは部屋の隅で縮こまっていた事務官――今朝、北の塔へ来た青年に声をかけた。
「給湯室はどこですか?」
「えっ、あ、突き当たり右ですけど……」
「お湯を沸かしてきます。それと、換気を行いますので、重要な書類が風で飛ばないように文鎮を乗せておいてください」
そこからのエレナの動きは、まさに疾風怒濤だった。窓を全開にして風を通し、乱雑な書類を「未決」「既決」「保管」「破棄」に瞬時に分類して整える。埃を払い、枯れかけた観葉植物に水をやり、淀んだ空気を物理的かつ視覚的に浄化していく。
一時間後。会議から戻ってきたシルヴィスは、見違えるように整頓された執務室を見て、ほう、と息を吐いた。
「……俺の塔ほどではないが、マシになったな」
「環境は思考に直結しますから。……皆様も、お疲れ様です」
エレナは、執務室で死屍累々としていた部下の魔術師たちに向き直った。彼らは連日の徹夜作業で、目には隈を作り、魂が抜けたような顔をしている。
「会議、お疲れ様でした。少し休憩になさいませんか?」
「休憩……?」
「はい。脳には糖分が必要です。……食堂の材料をお借りして、少しばかりおやつを作らせていただきました」
エレナがワゴンに乗せて運んできたのは、またしても見たことのない料理――いや、菓子だった。平皿の上に、赤ちゃんのほっぺのように白く、ふっくらとした円盤状のものが二段、三段と重ねられている。
「『特製・ふわふわスフレパンケーキ』です」
パンケーキ。だが、彼らが知る薄くて平べったいそれとは明らかに違う。厚さは数センチあり、皿を揺らすと、ぷるん、ぷるんと柔らかく震えるのだ。上からは粉雪のような粉砂糖と、琥珀色のメープルシロップ、そしてホイップバターが添えられている。
「……なんだそれは。空気でも焼いたのか?」
シルヴィスが怪訝そうに突っつく。フォークの先が、抵抗なく沈んでいく。
「メレンゲをたっぷりと泡立てて、弱火でじっくり蒸し焼きにしました。口の中で溶けますよ」
シルヴィスがおずおずと一口分を切り取り、口へ運ぶ。瞬間、彼の目がカッと見開かれた。
「……消えた」
噛む必要がない。口に入れた途端、シュワリという微かな音と共に生地が解け、卵の優しい風味とミルクの甘みが広がっていく。雲を食べているようだ。そこに、バターの塩気とシロップのあっさりとした甘みが絡みつき、疲弊しきった脳髄に直接快楽物質を叩き込んでくる。
「……ッ!」
シルヴィスは無言のまま、猛烈な勢いで二口目を運んだ。その様子を見ていた部下たちが、ゴクリと喉を鳴らす。
「あの……我々も……」
「もちろんです。皆様の分も焼いてありますから」
エレナが配り始めると、死んでいた魔術師たちがゾンビのように群がった。一口食べた瞬間、あちこちから「うおおお!」「生き返る……!」「なんだこれ、布団か!?」という悲鳴に近い歓声が上がる。
「甘い……優しい……母さん……」
「体に染み渡るぅ……!」
殺伐としていた悪魔の巣窟が、一瞬にして幸福なパンケーキ天国へと変わった。その光景を、口の端にクリームをつけたシルヴィスが、不満げに睨みつける。
「……おい、エレナ」
「はい、おかわりですか?」
「違う。……俺の分が減るだろうが」
「皆様が元気になれば、仕事が早く終わります。そうすれば、シルヴィス様も早く帰れますよ?」
「……む」
シルヴィスは渋々納得し、最後の一切れを惜しむように口へ運んだ。
「……今日の夕食は、肉だぞ。分厚いステーキにしろ」
「はいはい。ニンニクをたっぷり効かせたソースでご用意しますね」
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