王宮の万能メイド、偏屈魔術師を餌付けする

葉山あおい

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本編 

第四十二・七話 九つの絶望と一人の魔王

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 時間が止まったかのような錯覚。ヒュドラの九つのあぎとから紫色の毒霧が吐き出された、コンマ一秒後のことだった。

「――させんッ!!!」

 パチンッ。

 乾いた指パッチンの音が、戦場の喧騒を圧して響いた。瞬間、負傷者たちが集められていた円陣の中心部に、突如として猛烈な上昇気流が発生した。

真空回廊ヴォイド・コリドー

 シルヴィスが紡いだのは、風魔術の応用だった。吐き出された致死性の毒霧は、負傷者たちに触れる寸前で、見えない煙突に吸い込まれるように真上へと巻き上げられたのだ。

 上空で拡散していく毒の雲。あわや全滅かと思われた負傷者たちは、何が起きたのか呆然と空を見上げている。

「ぼーっとするな! 結界を再構築しろ!」

 シルヴィスが叫ぶと同時に、彼は泥の上を滑るように移動し、ヒュドラの側面に躍り出た。

 全長二十メートルを超える巨体。九つの首が、獲物を横取りした小さな人間――シルヴィスを一斉に睨みつける。

「ギシャアアアアッ!!」

 鼓膜を破らんばかりの咆哮と共に、九つの首が鞭のようにしなり、シルヴィスへ殺到した。物理的な噛みつき攻撃だ。速度は音速に近い。だが、シルヴィスは眉一つ動かさなかった。

「……面倒だ。まとめて消えろ」

 彼は右手の平を手刀のように振りあげた。

「――多重炎槍パラレル・フレア・ランス

 シルヴィスの周囲に、幾何学模様を描く魔術陣が九つ、同時に展開された。

 通常、魔術師は一つの魔術を行使するのに全神経を集中させる。二重詠唱ができれば一流、三重詠唱なら歴史に名を残すレベル。だが、シルヴィスは涼しい顔で九つの異なる軌道の攻撃魔術を、同時並列で制御してみせたのだ。

 ドォォォォォォンッ!!!

 九つの魔術陣から放たれたのは、極大の炎の槍だった。それらは意思を持つかのように空中で軌道を変え、迫りくる九つの首すべてを、寸分違わず迎撃した。

 炎が肉を焼き、骨を砕く音が響く。ヒュドラの首が一斉に弾け飛び、肉片となって泥沼に散らばった。

「一撃……」

「どっちが化け物か分からねぇ……」

 騎士たちが歓声を上げようとした、その時。シルヴィスだけは油断なく残った胴体を睨みつけていた。

「……しぶといな」

 千切れ飛んだ首の断面から、ボコボコと肉が盛り上がり、瞬く間に新しい首が再生していく。古代種ヒュドラの真骨頂、不死に近い再生能力だ。しかも、再生した首は怒りで赤黒く変色し、魔力が増大している。

「これじゃあジリ貧だ! どうすれば……!」

 絶望する部下たちを背に、シルヴィスは泥だらけのブーツで一歩踏み出した。

「騒ぐな。……再生するということは、核があるということだ」

 シルヴィスの蒼い瞳が、光を帯びる。彼の視界には今、ヒュドラの体内を巡る膨大な魔力回路と、その中を高速で移動し続ける魔石の位置が、数式となって映し出されていた。

「移動型のコアか。厄介な進化をしているな。……だが」

 シルヴィスはニヤリと笑った。それは、難解な数式を解いた時の、無邪気で残酷な子どもの笑みだった。

「俺から逃げられると思うなよ」

 ヒュドラが再び攻撃態勢に入る。今度は毒霧だけでなく、魔力を帯びた熱線まで吐き出そうとしている。シルヴィスは右腕を頭上に掲げた。

「総員、対ショック防御! 目を閉じて耳を塞げ!」

 警告は一度きり。シルヴィスは膨大な魔力を一点に収束させた。大気中の水分、泥沼の水、すべてを支配下に置く。

「――絶対零度アブソリュート・ゼロ――氷結牢アイス・プリズン

 カッ!!!!

 世界が白一色に染まった。音すら凍りつくような静寂の後、ピキピキという音が響く。

 目を開けた騎士たちが見たのは、氷の彫像と化したヒュドラの姿だった。襲いかかろうとした姿勢のまま、吐き出そうとしたブレスごと、細胞の一つ一つに至るまで完全に凍結されている。移動していたコアごと、分子運動を強制停止させられたのだ。

「……仕上げだ」

 シルヴィスは、氷像の前に歩み寄ると、デコピンをするように指を弾いた。

 パリン。

 その小さな衝撃をきっかけに、巨大な氷像に亀裂が走る。

 ピキ、パキ、ガシャン!!

 次の瞬間、ヒュドラは無数の氷のつぶてとなって砕け散った。再生などさせない。細胞レベルでの完全なる破壊。

 後に残ったのは、山のような氷の残骸と、静まり返った湿地帯だけだった。

「…………」

 誰も言葉を発せなかった。あまりにも圧倒的な、神業のごとき殲滅劇。静寂の中、シルヴィスはふぅ、と息を吐き、泥だらけになったローブの裾を払った。

「……汚れた」

 彼が最初に口にしたのは、勝利の宣言でも部下への労いでもなく、自分の身だしなみへの不満だった。先程の戦闘で、ヒュドラの返り血ならぬ返り泥を浴びてしまったのだ。

「最悪だ。こんな泥だらけで帰ったらあいつに何を言われるか……」

 ボソリと呟かれたその言葉を聞いた者は少なかったが、副官だけは苦笑いを堪えるのに必死だった。一国を滅ぼす古代の魔獣を単身で討伐した英雄が、一人の侍女に叱られることを何より恐れているとは。

「……討伐完了だ。怪我人を治療し、残敵掃討に入る」

 シルヴィスは背を向け、歩き出した。その背中は泥にまみれ、疲労の色も濃かったが、部下たちにとってはどんなに輝く勲章よりも頼もしく見えた。

 こうして、南方の湿地帯におけるヒュドラ討伐戦は、魔術師団長シルヴィス・クローデルの単独無双によって幕を閉じた。

 彼がその後、泥だらけのまま北の塔へ通信を繋ぎ、「飯が不味い」と愚痴をこぼすことになるのは、もう少し後の話である。
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