王宮の万能メイド、偏屈魔術師を餌付けする

葉山あおい

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本編 

第四十五話 鉄の女の機能不全と覚悟の休暇

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 時が、止まったようだった。

 北の塔のリビング。湯気を立てるカツサンドの香ばしい匂いの中で、エレナは石像のように固まっていた。

 キラキラと輝くエメラルドの指輪。そして、目の前の主人が紡いだ『妻』という言葉。それらはエレナが心の奥底で――侍女という立場を言い訳にして、決して触れまいと封印していた箱を、こじ開ける鍵だった。

「……え、あ……」

 口を開いても、言葉が出てこない。嬉しい。心臓が破裂しそうなほど嬉しい。けれど、それ以上に巨大な恐怖が押し寄せてきた。

 自分は平民だ。彼は侯爵家の跡取りだ。その結婚が意味する重み。社交界からの風当たり。クローデル家の品格。『お隣に立っても恥ずかしくない女性になる』と誓ったはずなのに、いざその瞬間が現実として突きつけられると、足がすくんで動かない。

 顔面蒼白になり、過呼吸寸前で震えるエレナを見て、シルヴィスは困ったように眉を下げた。

「……すまない。急すぎたな」

 彼はゆっくりと、エレナの手から自分の手を離した。その温もりが消え、エレナはハッとして顔を上げる。

「お前を困らせるつもりはなかった。……すぐに答えを出す必要もない。だが、考えておいてほしい」

 これまで見たこともない、シルヴィスの誠実で、どこか痛みを堪えるような顔。エレナは何も言えず、ただ呆然と頷くことしかできなかった。

 ***

 翌朝。北の塔には、かつてないほどギクシャクした空気が流れていた。

「……し、失礼いたします! モーニングティーをお持ちしました!」

 エレナはカクカクした動きで銀のトレーにのせられた紅茶を持ってきた。意識しすぎて、どこを見ていいのか分からない。視線がシルヴィスの顔に向かうたび、昨夜の言葉が蘇り、心臓が早鐘を打つ。

「……ああ」

 シルヴィスもまた、気まずそうにエレナから目を逸らした。エレナは震える手でポットを持ち上げ、カップに注ぐ。だが――。

 ドボボボボッ!

「おいっ!」

「ひっ! も、申し訳ありません!」

 手元が狂い、紅茶がソーサーから溢れ出して机に置かれている書類を汚してしまった。普段の――いや、これまでのエレナからは考えられないようなミスだった。

「す、すぐに拭きます! ああっ、布巾が……!」

 慌てて拭こうとして、今度は花瓶に肘をぶつけそうになる。

 完全なる機能不全。かつて鉄の女と呼ばれた完全無欠のメイドは見る影もない。

「……エレナ」

「は、はいッ!」

「落ち着け。……火傷はしていないか?」

「は、はい……大丈夫です……」

 シルヴィスはため息をつくこともなく、ただ静かに言った。

 その優しさが、今のエレナには逆に辛かった。エレナはもう、メイドではなく、侍女だ。その一挙手一投足が主の品位に関わり、あるいは、侍女のせいで主が後ろ指を指されることだってある。

 侍女としての失態は、すなわち主の失態。完璧だから、シルヴィスの近くにいられるのに。こんな失態を見せるなんて。エレナは逃げるように朝食の支度を済ませ、気分転換にでも出ようと、王宮へと向かった。

***

 だが、場所を変えてもエレナの不調は治らなかった。

「エレナ! 貴女、今週の定例報告書はどうなっているの!?」

 王宮の侍女控室の傍を取った所で、雷のような怒号が飛んだ。声の主は、侍女頭補佐を務める古参の女性だ。彼女の手には、未提出の書類リストが握られている。

「え……?」

「え、ではありません! 北の塔の管理報告、締め切りは昨日よ!」

「あ……」

 忘れていた。頭の中がシルヴィスのことでいっぱいで、曜日感覚すら消し飛んでいたのだ。完璧主義のエレナにとって、業務の失念などあってはならないことだ。

「も、申し訳ございません……。すぐに提出いたします」

「全く……。まぁいいわ。時間があるのなら、いま書いていってちょうだい」

「……かしこまりました」

 エレナは報告書を手早く書き上げると、背中を丸めて控室を後にした。

 トボトボと廊下を歩く。自分が自分でないようだ。仕事が手につかない。思考がまとまらない。これでは侍女失格だ。ましてや、侯爵夫人なんて務まるはずがない。

(……私は、どうすれば)

 ふらふらと人気のない回廊を歩いていると、向こうから見知った顔が歩いてきた。

「あら、エレナ? どうしたの、幽霊みたいな顔をして」

 穏やかで、しかし全てを見透かすような声。メイド長、マーサだった。

「……マーサ様」

 エレナにメイドの何たるかをすべて叩き込み、侍女に推薦してくれた恩人。かつての上司の顔を見た瞬間、張り詰めていた糸が切れそうになった。

 マーサはエレナの様子を一瞥すると、何も聞かずに手招きした。

「……少し、お茶でもしましょうか」

***

 王宮の庭園にあるベンチ。マーサが差し出してくれた温かいミルクティーを一口飲み、エレナは少しだけ落ち着きを取り戻した。

「……で? 何があったのかしら」

「その……」

 エレナはカップを両手で包み込み、言葉を選んだ。シルヴィスの名前やプロポーズのことは伏せなければならない。だが、この悩みは一人では抱えきれなかった。

「……マーサ様は、『身分違いの婚姻』について、どう考えられますか?」

「身分違い?」

「はい。たとえば……平民が、高位貴族の方に嫁ぐような」

 マーサは少し目を丸くし、やがて「なるほどね」と納得したように頷いた。彼女の鋭い洞察力は、それが誰のことを指しているのか察しているようだった。

「……そうね。綺麗事を抜きにして言えば、それは『修羅の道』よ」

 マーサは静かに、けれど厳しく告げた。

「愛があれば乗り越えられる、なんていうのは物語の中だけ。現実は、価値観の違い、親族からの冷遇、社交界での孤立……死ぬまで針のむしろかもしれないわ。私の知っているご令嬢の中にも、似たような状況で自ら命を絶ってしまった子がいる」

 エレナの指先が冷たくなる。

 やはり、そうなのだ。ベアトリス夫人が言っていた壁は、想像以上に高く、分厚い。

「……でもね、エレナ」

 マーサは空を見上げた。

「それで幸せになった子も、私は知っているわ。……大切なのは、身分を埋めるほどの覚悟があるかどうか。相手に守ってもらうのではなく、二人で血を流しながらでも戦う覚悟がね」

 覚悟。その言葉が、エレナの胸に重く響いた。

 マーサと別れた後も、エレナの霧は晴れなかった。むしろ、より濃くなっていた。自分にその覚悟があるのか。シルヴィスを愛している。それは間違いない。だが、彼の家名を、歴史を、未来を背負い、泥にまみれて戦う覚悟が、今の自分にあるのか。

 考えて、考えて、考えて、血液が沸騰するほど考え抜いて、今にも倒れそう、という時、ふと脳裏にある人物の顔が浮かんだ。

 かつて、自分にその壁の存在を教え、そして唯一の抜け道を示してくれた人。

『もしもあなたが、シルヴィスと今以上の関係を望むのなら』

『その時は、もう一度私の元に来なさい。その覚悟を持って来た時だけは――私が友人として、話くらいは聞いてあげます』

 ベアトリス・クローデル侯爵夫人。シルヴィスの母であり、この国の貴族社会をよく知っている女性。彼女の言葉が、今になって鮮烈に蘇る。

(……私は、順番を間違えていたのかもしれません)

 シルヴィスへの返事をする前に、会わなければならない人がいる。彼に守られて「はい」と言うのではなく、自分の足で壁を越える許可を得るために。

 エレナは踵を返した。向かう先は、侍女頭の部屋だ。

 ***

「……休暇、ですか?」

 侍女頭は眼鏡の位置を直し、怪訝な顔でエレナを見た。仕事の虫であるエレナが、私用で休みを申請するなど、天変地異の前触れかと疑うレベルだ。

「はい。一週間、いただきたく存じます」

「ちなみに、どちらへ?」

「……少し、遠方へ。どうしても、お会いして話をしなければならない方がおりますので」

 エレナの瞳には、先ほどまでの迷いは消え、かつての鉄の女としての強い光が戻っていた。いや、それは以前のような冷徹な光ではない。一人の女性として、愛する人の隣に立つための、決意の炎だった。

「……分かりました。許可しましょう。もしも期間を過ぎる場合は、必ず伝書を飛ばすように。それと最終的な決定はクローデル様が下しますので、必ずお伺いを立てるように」

「承知しました。ありがとうございます」

 許可証を受け取り、エレナは深く一礼した。

 一度、北の塔へ戻ろう。そしてシルヴィスに告げよう。「答えを出すために、少し時間をください」と。

 エレナの足取りは、来る時よりもずっと軽かった。
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