63 / 81
本編
第四十九・五話 氷の侯爵夫人の華麗なる嫁自慢
しおりを挟む
クローデル侯爵家の隣領。とある子爵が主催した夜会は、華やかな熱気に包まれていた。クリスタルのシャンデリアが煌めき、高価なドレスを纏った貴婦人たちが扇子を片手に談笑している。
だが、どんなに美しい宝石よりも、貴族社会において価値があるのは情報だ。特に、最近の社交界の話題を独占しているのは、王宮にいる偏屈魔術師と、その傍らに立つ身の程知らずの女のことだった。
「ねえ、聞きました? クローデル侯爵家のシルヴィス様、まだあの女を傍に置いているそうですわよ」
「まあ、信じられない。婚姻したとはいえ、所詮は平民でしょう? 侯爵家の跡取りが、あんな身分の低い女に執心だなんて」
「噂では、何か怪しい薬でも盛っているんじゃないかって……」
会場の隅、数人の貴婦人が、シャンパングラスを片手にひそひそと嘲笑を含んだ声を上げていた。
エレナの実力は王宮内では周知の事実となりつつあったが、古い慣習に縛られた地方の貴族たちにとっては、依然として彼女は異物でしかない。
そんな彼女たちの背後に、ふわりと冷たい風が吹いた気がした。
「――あら。随分と楽しそうですわね」
凛とした、鈴を転がすような声。けれどその響きには、極北の氷河のような冷たさが含まれていた。噂話をしていた夫人たちが、弾かれたように振り返る。
そこに立っていたのは、濃紺のベルベットドレスに身を包んだ、クローデル侯爵夫人ベアトリスだった。扇子で口元を隠し、優雅に微笑んでいる。だが、その瞳は一ミリたりとも笑っていない。
「ベ、ベアトリス様……! ごきげんよう」
「奇遇ですわね、こちらにいらしたなんて」
夫人たちは慌てて取り繕い、愛想笑いを浮かべた。
ベアトリス・クローデル。「氷の侯爵夫人」の異名を持つ彼女を敵に回すことが何を意味するか、社交界の人間なら誰もが知っているからだ。
ベアトリスはゆっくりと歩み寄り、彼女たちのグラスを一瞥した。
「それで? 何か面白いお話でしたの? 怪しい薬、とか聞こえましたけれど」
「い、いいえ! 他愛のない噂話ですわ! ねえ?」
「は、はい! そうですわ! しようもない噂話です!」
「そう……。てっきり、わたくしの可愛い義娘の話をしているのかとばかり……」
サラリと言われた言葉に、夫人たちが息を呑む。ベアトリスは扇子をパチリと閉じた。
「ところで、うちの義娘が淹れる紅茶を、飲んだことはあって?」
「え、いえ、そのような機会は……」
「そう、お可哀想に。一度でもあの子の紅茶を飲んでしまえば、この会場で出された茶など、ただの泥水に思えてしまうでしょうね」
ベアトリスはふっと溜息をつき、遠くを見るような目をした。
「温度、蒸らし時間、茶葉の選定。全てが完璧に計算され尽くした一杯。それを毎日飲める息子が、時々妬ましくなるの……」
さらに彼女は、自身のドレスの胸元に輝くブローチを指差した。繊細な銀細工に、小さなエメラルドがあしらわれた上品な品だ。
「これ、あの子からの贈り物なの。先日、領地から旬の果物を送ったお礼にとね。……デザインのセンスも素晴らしいけれど、何より嬉しいのは、わたくしが好む色や形を、完璧に把握していることよ」
ベアトリスは愛おしそうにブローチに触れた。
「媚びへつらうわけでもなく、高価な品で釣るわけでもない。ただ純粋に、相手を想い、相手が喜ぶことを完璧に成し遂げる。それはとても難しいことだと思うのだけれど、貴女方はどう思う?」
問いかけに、誰も答えられない。これは、ただの自慢話ではない。
ベアトリスは冷ややかな瞳で夫人たちを見回し、そして優雅に微笑んだ。
「あの子を悪く言っていいのは、私だけ。外野が勝手なことを言わないでいただけるかしら」
それは、明確な警告だった。今後、エレナを侮辱することは、クローデル侯爵家への、そしてこのベアトリスへの宣戦布告と見なすという、最後通告。
夫人たちは蒼白になり、「し、失礼いたしました……!」と逃げるようにその場を去っていった。
周囲に静寂が戻ると、ベアトリスはふう、と小さく息を吐いた。扇子を開き、口元を隠す。その下で、彼女はほんの少しだけ、口元を緩めた。
「……まったく。あの子のせいで、敵が増えてかないませんわ」
ベアトリスは夜空を見上げた。今頃、北の塔では、あの不器用な息子と、しっかり者の侍女が、温かい夕食を囲んでいることだろう。
「精々、お幸せになさいな。……私の自慢の子どもたち」
氷の侯爵夫人の瞳には、月光よりも優しい、母としての温かな光が宿っていた。
だが、どんなに美しい宝石よりも、貴族社会において価値があるのは情報だ。特に、最近の社交界の話題を独占しているのは、王宮にいる偏屈魔術師と、その傍らに立つ身の程知らずの女のことだった。
「ねえ、聞きました? クローデル侯爵家のシルヴィス様、まだあの女を傍に置いているそうですわよ」
「まあ、信じられない。婚姻したとはいえ、所詮は平民でしょう? 侯爵家の跡取りが、あんな身分の低い女に執心だなんて」
「噂では、何か怪しい薬でも盛っているんじゃないかって……」
会場の隅、数人の貴婦人が、シャンパングラスを片手にひそひそと嘲笑を含んだ声を上げていた。
エレナの実力は王宮内では周知の事実となりつつあったが、古い慣習に縛られた地方の貴族たちにとっては、依然として彼女は異物でしかない。
そんな彼女たちの背後に、ふわりと冷たい風が吹いた気がした。
「――あら。随分と楽しそうですわね」
凛とした、鈴を転がすような声。けれどその響きには、極北の氷河のような冷たさが含まれていた。噂話をしていた夫人たちが、弾かれたように振り返る。
そこに立っていたのは、濃紺のベルベットドレスに身を包んだ、クローデル侯爵夫人ベアトリスだった。扇子で口元を隠し、優雅に微笑んでいる。だが、その瞳は一ミリたりとも笑っていない。
「ベ、ベアトリス様……! ごきげんよう」
「奇遇ですわね、こちらにいらしたなんて」
夫人たちは慌てて取り繕い、愛想笑いを浮かべた。
ベアトリス・クローデル。「氷の侯爵夫人」の異名を持つ彼女を敵に回すことが何を意味するか、社交界の人間なら誰もが知っているからだ。
ベアトリスはゆっくりと歩み寄り、彼女たちのグラスを一瞥した。
「それで? 何か面白いお話でしたの? 怪しい薬、とか聞こえましたけれど」
「い、いいえ! 他愛のない噂話ですわ! ねえ?」
「は、はい! そうですわ! しようもない噂話です!」
「そう……。てっきり、わたくしの可愛い義娘の話をしているのかとばかり……」
サラリと言われた言葉に、夫人たちが息を呑む。ベアトリスは扇子をパチリと閉じた。
「ところで、うちの義娘が淹れる紅茶を、飲んだことはあって?」
「え、いえ、そのような機会は……」
「そう、お可哀想に。一度でもあの子の紅茶を飲んでしまえば、この会場で出された茶など、ただの泥水に思えてしまうでしょうね」
ベアトリスはふっと溜息をつき、遠くを見るような目をした。
「温度、蒸らし時間、茶葉の選定。全てが完璧に計算され尽くした一杯。それを毎日飲める息子が、時々妬ましくなるの……」
さらに彼女は、自身のドレスの胸元に輝くブローチを指差した。繊細な銀細工に、小さなエメラルドがあしらわれた上品な品だ。
「これ、あの子からの贈り物なの。先日、領地から旬の果物を送ったお礼にとね。……デザインのセンスも素晴らしいけれど、何より嬉しいのは、わたくしが好む色や形を、完璧に把握していることよ」
ベアトリスは愛おしそうにブローチに触れた。
「媚びへつらうわけでもなく、高価な品で釣るわけでもない。ただ純粋に、相手を想い、相手が喜ぶことを完璧に成し遂げる。それはとても難しいことだと思うのだけれど、貴女方はどう思う?」
問いかけに、誰も答えられない。これは、ただの自慢話ではない。
ベアトリスは冷ややかな瞳で夫人たちを見回し、そして優雅に微笑んだ。
「あの子を悪く言っていいのは、私だけ。外野が勝手なことを言わないでいただけるかしら」
それは、明確な警告だった。今後、エレナを侮辱することは、クローデル侯爵家への、そしてこのベアトリスへの宣戦布告と見なすという、最後通告。
夫人たちは蒼白になり、「し、失礼いたしました……!」と逃げるようにその場を去っていった。
周囲に静寂が戻ると、ベアトリスはふう、と小さく息を吐いた。扇子を開き、口元を隠す。その下で、彼女はほんの少しだけ、口元を緩めた。
「……まったく。あの子のせいで、敵が増えてかないませんわ」
ベアトリスは夜空を見上げた。今頃、北の塔では、あの不器用な息子と、しっかり者の侍女が、温かい夕食を囲んでいることだろう。
「精々、お幸せになさいな。……私の自慢の子どもたち」
氷の侯爵夫人の瞳には、月光よりも優しい、母としての温かな光が宿っていた。
400
あなたにおすすめの小説
王宮地味女官、只者じゃねぇ
宵森みなと
恋愛
地味で目立たず、ただ真面目に働く王宮の女官・エミリア。
しかし彼女の正体は――剣術・魔法・語学すべてに長けた首席卒業の才女にして、実はとんでもない美貌と魔性を秘めた、“自覚なしギャップ系”最強女官だった!?
王女付き女官に任命されたその日から、運命が少しずつ動き出す。
訛りだらけのマーレン語で王女に爆笑を起こし、夜会では仮面を外した瞬間、貴族たちを騒然とさせ――
さらには北方マーレン国から訪れた黒髪の第二王子をも、一瞬で虜にしてしまう。
「おら、案内させてもらいますけんの」
その一言が、国を揺らすとは、誰が想像しただろうか。
王女リリアは言う。「エミリアがいなければ、私は生きていけぬ」
副長カイルは焦る。「このまま、他国に連れて行かれてたまるか」
ジークは葛藤する。「自分だけを見てほしいのに、届かない」
そしてレオンハルト王子は心を決める。「妻に望むなら、彼女以外はいない」
けれど――当の本人は今日も地味眼鏡で事務作業中。
王族たちの心を翻弄するのは、無自覚最強の“訛り女官”。
訛って笑いを取り、仮面で魅了し、剣で守る――
これは、彼女の“本当の顔”が王宮を変えていく、壮麗な恋と成長の物語。
★この物語は、「枯れ専モブ令嬢」の5年前のお話です。クラリスが活躍する前で、少し若いイザークとライナルトがちょっと出ます。
想定外の異世界トリップ。希望先とは違いますが…
宵森みなと
恋愛
異世界へと導かれた美咲は、運命に翻弄されながらも、力強く自分の道を歩き始める。
いつか、異世界にと想像していた世界とはジャンル違いで、美咲にとっては苦手なファンタジー系。
しかも、女性が少なく、結婚相手は5人以上と恋愛初心者にはハードな世界。
だが、偶然のようでいて、どこか必然のような出会いから、ともに過ごす日々のなかで芽生える絆と、ゆっくりと積み重ねられていく感情。
不器用に愛し、愛する人に理解されず、傷ついた時、女神の神殿で見つけた、もう一つの居場所。
差し出された優しさと、新たな想いに触れながら、
彼女は“自分のための人生”を選び初める。
これは、一人の女性が異世界で出逢い、傷つき、そして強くなって“本当の愛”を重ねていく物語です。
枯れ専モブ令嬢のはずが…どうしてこうなった!
宵森みなと
恋愛
気づけば異世界。しかもモブ美少女な伯爵令嬢に転生していたわたくし。
静かに余生——いえ、学園生活を送る予定でしたのに、魔法暴発事件で隠していた全属性持ちがバレてしまい、なぜか王子に目をつけられ、魔法師団から訓練指導、さらには騎士団長にも出会ってしまうという急展開。
……団長様方、どうしてそんなに推せるお顔をしていらっしゃるのですか?
枯れ専なわたくしの理性がもちません——と思いつつ、学園生活を謳歌しつつ魔法の訓練や騎士団での治療の手助けと
忙しい日々。残念ながらお子様には興味がありませんとヒロイン(自称)の取り巻きへの塩対応に、怒らせると意外に強烈パンチの言葉を話すモブ令嬢(自称)
これは、恋と使命のはざまで悩む“ちんまり美少女令嬢”が、騎士団と王都を巻き込みながら心を育てていく、
――枯れ専ヒロインのほんわか異世界成長ラブファンタジーです。
虐げられていた次期公爵の四歳児の契約母になります!~幼子を幸せにしたいのに、未来の旦那様である王太子が私を溺愛してきます~
八重
恋愛
伯爵令嬢フローラは、公爵令息ディーターの婚約者。
しかし、そんな日々の裏で心を痛めていることが一つあった。
それはディーターの異母弟、四歳のルイトが兄に虐げられていること。
幼い彼を救いたいと思った彼女は、「ある計画」の準備を進めることにする。
それは、ルイトを救い出すための唯一の方法──。
そんな時、フローラはディーターから突然婚約破棄される。
婚約破棄宣言を受けた彼女は「今しかない」と計画を実行した。
彼女の計画、それは自らが代理母となること。
だが、この代理母には国との間で結ばれた「ある契約」が存在して……。
こうして始まったフローラの代理母としての生活。
しかし、ルイトの無邪気な笑顔と可愛さが、フローラの苦労を温かい喜びに変えていく。
さらに、見目麗しいながら策士として有名な第一王子ヴィルが、フローラに興味を持ち始めて……。
ほのぼの心温まる、子育て溺愛ストーリーです。
※ヒロインが序盤くじけがちな部分ありますが、それをバネに強くなります
※「小説家になろう」が先行公開です(第二章開始しました)
【完結】モブのメイドが腹黒公爵様に捕まりました
ベル
恋愛
皆さまお久しぶりです。メイドAです。
名前をつけられもしなかった私が主人公になるなんて誰が思ったでしょうか。
ええ。私は今非常に困惑しております。
私はザーグ公爵家に仕えるメイド。そして奥様のソフィア様のもと、楽しく時に生温かい微笑みを浮かべながら日々仕事に励んでおり、平和な生活を送らせていただいておりました。
...あの腹黒が現れるまでは。
『無口な旦那様は妻が可愛くて仕方ない』のサイドストーリーです。
個人的に好きだった二人を今回は主役にしてみました。
王宮に薬を届けに行ったなら
佐倉ミズキ
恋愛
王宮で薬師をしているラナは、上司の言いつけに従い王子殿下のカザヤに薬を届けに行った。
カザヤは生まれつき体が弱く、臥せっていることが多い。
この日もいつも通り、カザヤに薬を届けに行ったラナだが仕事終わりに届け忘れがあったことに気が付いた。
慌ててカザヤの部屋へ行くと、そこで目にしたものは……。
弱々しく臥せっているカザヤがベッドから起き上がり、元気に動き回っていたのだ。
「俺の秘密を知ったのだから部屋から出すわけにはいかない」
驚くラナに、カザヤは不敵な笑みを浮かべた。
「今日、国王が崩御する。だからお前を部屋から出すわけにはいかない」
※ベリーズカフェにも掲載中です。そちらではラナの設定が変わっています。(貴族→庶民)それにより、内容も少し変更しておりますのであわせてお楽しみください。
魔法師団長の家政婦辞めたら溺愛されました【完結】
iru
恋愛
第19回 恋愛小説大賞エントリーしています。ぜひ1票お願いします。
小説家になろうですでに完結済みの作品です。よければお気に入りブックマークなどお願いします。
両親と旅をしている途中、魔物に襲われているところを、魔法師団に助けられたティナ。
両親は亡くなってしまったが、両親が命をかけて守ってくれた自分の命を無駄にせず強く生きていこうと決めた。
しかし、肉親も家もないティナが途方に暮れていると、魔物から助けてくれ、怪我の入院まで面倒を見てくれた魔法師団の団長レオニスから彼の家政婦として住み込みで働かないと誘われた。
魔物から助けられた時から、ひどく憧れていたレオニスの誘いを、ティナはありがたく受ける事にした。
自分はただの家政婦だと強く言い聞かせて、日に日に膨らむ恋心を抑え込むティナだった。
一方、レオニスもティナにどんどん惹かれていっていた。
初めはなくなった妹のようで放っては置けないと家政婦として雇ったが、その健気な様子に強く惹かれていった。
恋人になりたいが、年上で雇い主。
もしティナも同じ気持ちでないなら仕事まで奪ってしまうのではないか。
そんな思いで一歩踏み出せないレオニスだった。
そんな中ある噂から、ティナはレオニスの家政婦を辞めて家を出る決意をする。
レオニスは思いを伝えてティナを引き止めることができるのか?
両片思いのすれ違いのお話です。
婚約破棄された令嬢は氷の公爵に拾われ、気づけば溺愛されていました~見下してきたあなた、後悔してももう遅いわ~
exdonuts
恋愛
婚約者である王太子に理不尽な罪をなすりつけられ、婚約破棄された公爵令嬢レティシア。
家族にも見放され、絶望の淵にいた彼女の手を取ったのは「氷の公爵」と呼ばれる冷徹な青年・アランだった。
愛を知らずに生きてきた彼の優しさが、傷ついたレティシアの心を少しずつ溶かしていく。
一方、過去の悪行が暴かれ始めた王太子とその取り巻きたち。
ざまぁが爽快、愛が深く、運命が巡る。
涙と笑顔の“溺愛ざまぁ”ロマンス。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる