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番外編 逃げたメイドと万能メイド
第一話 憧れの園への切符
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王宮のリネン室は、いつだって雪原のように白く、そして墓場のように静かだ。
積み上げられたシーツの山。糊の効いた清潔な匂い。それは本来なら心を落ち着かせるもののはずなのに、今の私にとっては、首を絞めるロープの臭いにしか感じられなかった。
「……やり直してください」
頭上から降ってきた声は、感情という不純物を一切取り除いた、氷の粒のようだった。
私はビクリと肩を震わせ、作業台に視線を落とした。目の前には、私が十分な時間をかけて、完璧に畳んだはずのベッドシーツがある。商家の娘として育ち、帳簿の数字ひとつ間違えることを許されなかった私だ。几帳面さには自信があった。
けれど、私の目の前に立つ『鉄の女』こと、エレナ・フォスター先輩は、まるで顕微鏡のような目でシーツの一点を凝視していた。
「リリィさん、ここの折り目、シワが寄っています」
「……え?」
「折り目にシワが寄っていると、広げた時に王家の紋章が歪んでしまいます。王族が身を沈める寝台に、歪みがあってはいけません」
エレナ先輩の白く細い指先が、その極小のシワを指摘する。
確かにシワは寄っている。でも、たった数センチだ。少なくとも十センチには届いていない。こんなこと、誰が気に留めるというのか。寝てしまえばシーツなんてぐしゃぐしゃになるのに。
「……でも先輩、これ以上時間をかけると、この後の食器磨きに影響が出てしまうのでは?」
「時間は作るものです。仕事を適当にやる言い訳にはなりません」
適当……。
エレナ先輩は無表情のまま、私が畳んだシーツを無慈悲に広げ、崩してしまった。ファサッ、と乾いた音がする。それは私のプライドがへし折られる音でもあった。
「シーツの折り目にシワが寄っています。やり直してください」
また言った。
(……おかしい。こんなの、絶対におかしい)
私は拳を握りしめ、シーツの生地に爪を立てた。
王宮に入れば、華やかな生活が待っていると思っていた。私は実家の商会でも評判の看板娘だったし、計算も早いし、客あしらいだって得意だ。王宮でもすぐに頭角を現して、素敵な貴族様に見初められて――そんなシンデレラストーリーを夢見ていた。
なのに、現実はどうだ。来る日も来る日も、シーツのシワと格闘し、銀食器の曇りを血眼になって探し、窓枠の埃を綿棒で拭う日々。
エレナ先輩の指導は、指導の域を超えている。これはただのいじめだ。私のことが気に入らないから、重箱の隅をつつくような真似をして、私を追い詰めようとしているのだ。
気付けば、私は叫んでいた。
「もう……無理です! こんな細かいこと、誰が気にするんですか! 少しくらいずれてたって、誰も気づきません!」
「気付きます。王族の方々は、最高のものに触れて育ってきました。違和感は不快感となり、それはやがて王宮への不信感に繋がります。……泣いている暇があるなら手を動かしてください。涙でシーツは綺麗になりません」
自分の中の何かがプツリと切れる音がした。もういい。こんな機械みたいな女の下で、自分の才能を腐らせてたまるものか。
「っ……! もういい!!」
私は捨て台詞を吐いて、リネン室を飛び出した。向かう先は、王宮のメイドを取り仕切る管理者の部屋だ。
「失礼します!」
ノックもそこそこに、私は重厚な扉を押し開けた。
執務室には、紅茶の香りが漂っていた。窓辺のデスクに座る初老の女性――メイド長マーサ様が、私を見つめる。
その鋭い眼光に一瞬怯みそうになったが、今の私は怒りで武装していた。
「どうしました? そんなに慌てて」
「もう我慢できません!」
私はデスクの前まで大股で歩み寄り、バン! とマホガニーの机に両手をついた。不敬だということはわかっている。でも、この熱情を吐き出さなければ、私は私でなくなってしまう気がした。
「配置換えをお願いします! 私を、エレナ先輩の担当から外してください!」
「……ほう。理由は?」
マーサ様は動じない。優雅にティーカップを持ち上げ、湯気の向こうから私を観察している。
「あの人のやり方は異常です! 毎日毎日同じことを指摘して、他の誰も気しないような些細なことを何度もやらせる! まるで生産性がありません! 私は商家の出です。効率よく仕事を回すことにかけては、誰にも負けない自信があります。それなのに……っ」
言葉が次から次へと溢れ出してくる。私の優秀さを、あの女が潰しているのだと。
「私は、もっと大きな仕事がしたいんです! 私の手腕を活かせる場所があるはずです!」
一息にまくし立てると、マーサ様がカップをソーサーに戻した。カチャン、と硬質な音が響き、私の言葉を遮る。
「つまり、エレナの指導方針には従えない、と?」
「従えません! あんなの、ただのいじめです!」
私は大きく息を吸い込み、一番言いたかった言葉を叫んだ。
「わ、私は一人のほうが実力を発揮するタイプなんです! エレナさんに見られていると萎縮してしまって、何も上手く行きません!」
言い切った。言ってやった。
部屋に沈黙が落ちる。心臓がうるさいほどに鳴っている。
マーサ様は静かに私を見つめ続けていた。怒られるだろうか。それとも、クビだろうか。数秒の静寂の後、マーサ様の口元が、わずかに歪んだ。
「……そう。一人がいいのね」
それは、予想外に穏やかな声だった。
私は拍子抜けして、「は、はい!」と裏返った声で答える。
「確かに、あなたの言う通りかもしれないわね。相性というものは誰にでもある」
「そ、そうですよね!?」
「それに、あなたのその……元気の良さは、確かに他に活かせそうだわ」
マーサ様は引き出しから一枚の書類を取り出した。羊皮紙の上でサラサラと羽ペンを走らせる。
「なら、南の塔はどうかしら」
「南の……塔、ですか?」
私はその言葉を反芻した。王宮の南区画。そこは確か――。
「宮廷騎士団の屯所よ。あそこは男所帯でね、細やかな気配りができるメイドが不足していて困っていたの。ニ十四時間の交代制だから、基本的には一人仕事になるわ」
ドクン、と胸が高鳴った。
騎士団。その響きと共に、私の脳内に鮮やかな光景が広がった。銀色に輝く鎧。風になびくマント。鍛え上げられた肉体と、気高い精神を持つ騎士様たち。
王国の精鋭が集うその場所は、まさに私が夢見ていた「出会い」の宝庫ではないか。
「い、いいんですか!? 行きます! やらせてください!」
食い気味に返事をした。
シーツのシワを突っつかれるだけの灰色の日々とはおさらばだ。私が南の塔に行けば、きっと紅一点のお姫様扱いだ。「君のような気が利く子が来てくれて助かった」と、ハンサムな騎士団長に感謝される未来がありありと浮かぶ。
「あそこは個人の裁量が大きいわ。エレナのように手取り足取り教える者はいない。……つまり、あなたの言う『実力を発揮できる』環境よ」
「望むところです! 私、きっとお役に立ってみせます!」
私は書類を受け取り、深々と頭を下げた。
笑いが止まらなかった。私は勝利したのだ。あの陰湿なエレナ先輩から逃れ、理想の職場を手に入れた。
マーサ様は、そんな私をどこか冷ややかな、それでいて哀れむような目で見つめていたけれど、浮かれていた私はそれに気づく由もなかった。
「……早速、明日から頼むわね」
「はい! 失礼いたします!」
私はスキップでもしそうな足取りで、メイド長室を後にした。
南の塔への異動令状を胸に抱きしめる。それは私にとって、天国へのパスポートのように思えた。
積み上げられたシーツの山。糊の効いた清潔な匂い。それは本来なら心を落ち着かせるもののはずなのに、今の私にとっては、首を絞めるロープの臭いにしか感じられなかった。
「……やり直してください」
頭上から降ってきた声は、感情という不純物を一切取り除いた、氷の粒のようだった。
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けれど、私の目の前に立つ『鉄の女』こと、エレナ・フォスター先輩は、まるで顕微鏡のような目でシーツの一点を凝視していた。
「リリィさん、ここの折り目、シワが寄っています」
「……え?」
「折り目にシワが寄っていると、広げた時に王家の紋章が歪んでしまいます。王族が身を沈める寝台に、歪みがあってはいけません」
エレナ先輩の白く細い指先が、その極小のシワを指摘する。
確かにシワは寄っている。でも、たった数センチだ。少なくとも十センチには届いていない。こんなこと、誰が気に留めるというのか。寝てしまえばシーツなんてぐしゃぐしゃになるのに。
「……でも先輩、これ以上時間をかけると、この後の食器磨きに影響が出てしまうのでは?」
「時間は作るものです。仕事を適当にやる言い訳にはなりません」
適当……。
エレナ先輩は無表情のまま、私が畳んだシーツを無慈悲に広げ、崩してしまった。ファサッ、と乾いた音がする。それは私のプライドがへし折られる音でもあった。
「シーツの折り目にシワが寄っています。やり直してください」
また言った。
(……おかしい。こんなの、絶対におかしい)
私は拳を握りしめ、シーツの生地に爪を立てた。
王宮に入れば、華やかな生活が待っていると思っていた。私は実家の商会でも評判の看板娘だったし、計算も早いし、客あしらいだって得意だ。王宮でもすぐに頭角を現して、素敵な貴族様に見初められて――そんなシンデレラストーリーを夢見ていた。
なのに、現実はどうだ。来る日も来る日も、シーツのシワと格闘し、銀食器の曇りを血眼になって探し、窓枠の埃を綿棒で拭う日々。
エレナ先輩の指導は、指導の域を超えている。これはただのいじめだ。私のことが気に入らないから、重箱の隅をつつくような真似をして、私を追い詰めようとしているのだ。
気付けば、私は叫んでいた。
「もう……無理です! こんな細かいこと、誰が気にするんですか! 少しくらいずれてたって、誰も気づきません!」
「気付きます。王族の方々は、最高のものに触れて育ってきました。違和感は不快感となり、それはやがて王宮への不信感に繋がります。……泣いている暇があるなら手を動かしてください。涙でシーツは綺麗になりません」
自分の中の何かがプツリと切れる音がした。もういい。こんな機械みたいな女の下で、自分の才能を腐らせてたまるものか。
「っ……! もういい!!」
私は捨て台詞を吐いて、リネン室を飛び出した。向かう先は、王宮のメイドを取り仕切る管理者の部屋だ。
「失礼します!」
ノックもそこそこに、私は重厚な扉を押し開けた。
執務室には、紅茶の香りが漂っていた。窓辺のデスクに座る初老の女性――メイド長マーサ様が、私を見つめる。
その鋭い眼光に一瞬怯みそうになったが、今の私は怒りで武装していた。
「どうしました? そんなに慌てて」
「もう我慢できません!」
私はデスクの前まで大股で歩み寄り、バン! とマホガニーの机に両手をついた。不敬だということはわかっている。でも、この熱情を吐き出さなければ、私は私でなくなってしまう気がした。
「配置換えをお願いします! 私を、エレナ先輩の担当から外してください!」
「……ほう。理由は?」
マーサ様は動じない。優雅にティーカップを持ち上げ、湯気の向こうから私を観察している。
「あの人のやり方は異常です! 毎日毎日同じことを指摘して、他の誰も気しないような些細なことを何度もやらせる! まるで生産性がありません! 私は商家の出です。効率よく仕事を回すことにかけては、誰にも負けない自信があります。それなのに……っ」
言葉が次から次へと溢れ出してくる。私の優秀さを、あの女が潰しているのだと。
「私は、もっと大きな仕事がしたいんです! 私の手腕を活かせる場所があるはずです!」
一息にまくし立てると、マーサ様がカップをソーサーに戻した。カチャン、と硬質な音が響き、私の言葉を遮る。
「つまり、エレナの指導方針には従えない、と?」
「従えません! あんなの、ただのいじめです!」
私は大きく息を吸い込み、一番言いたかった言葉を叫んだ。
「わ、私は一人のほうが実力を発揮するタイプなんです! エレナさんに見られていると萎縮してしまって、何も上手く行きません!」
言い切った。言ってやった。
部屋に沈黙が落ちる。心臓がうるさいほどに鳴っている。
マーサ様は静かに私を見つめ続けていた。怒られるだろうか。それとも、クビだろうか。数秒の静寂の後、マーサ様の口元が、わずかに歪んだ。
「……そう。一人がいいのね」
それは、予想外に穏やかな声だった。
私は拍子抜けして、「は、はい!」と裏返った声で答える。
「確かに、あなたの言う通りかもしれないわね。相性というものは誰にでもある」
「そ、そうですよね!?」
「それに、あなたのその……元気の良さは、確かに他に活かせそうだわ」
マーサ様は引き出しから一枚の書類を取り出した。羊皮紙の上でサラサラと羽ペンを走らせる。
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「南の……塔、ですか?」
私はその言葉を反芻した。王宮の南区画。そこは確か――。
「宮廷騎士団の屯所よ。あそこは男所帯でね、細やかな気配りができるメイドが不足していて困っていたの。ニ十四時間の交代制だから、基本的には一人仕事になるわ」
ドクン、と胸が高鳴った。
騎士団。その響きと共に、私の脳内に鮮やかな光景が広がった。銀色に輝く鎧。風になびくマント。鍛え上げられた肉体と、気高い精神を持つ騎士様たち。
王国の精鋭が集うその場所は、まさに私が夢見ていた「出会い」の宝庫ではないか。
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シーツのシワを突っつかれるだけの灰色の日々とはおさらばだ。私が南の塔に行けば、きっと紅一点のお姫様扱いだ。「君のような気が利く子が来てくれて助かった」と、ハンサムな騎士団長に感謝される未来がありありと浮かぶ。
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「望むところです! 私、きっとお役に立ってみせます!」
私は書類を受け取り、深々と頭を下げた。
笑いが止まらなかった。私は勝利したのだ。あの陰湿なエレナ先輩から逃れ、理想の職場を手に入れた。
マーサ様は、そんな私をどこか冷ややかな、それでいて哀れむような目で見つめていたけれど、浮かれていた私はそれに気づく由もなかった。
「……早速、明日から頼むわね」
「はい! 失礼いたします!」
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