王宮の万能メイド、偏屈魔術師を餌付けする

葉山あおい

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番外編 逃げたメイドと万能メイド

第二話 汗と脂と鉄の臭い

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 翌朝。私はいつもより念入りに化粧をし、とっておきの香水を耳の裏に忍ばせた。

 鏡に映る自分に微笑みかける。栗色の髪は完璧なカールを描き、フリルのついたエプロンは純白に輝いている。

 今日から、私は生まれ変わるのだ。あの陰気なリネン室とも、口うるさい鉄の女ともおさらば。これから向かうのは、選ばれし騎士様たちが集う、煌びやかな南の塔。きっと、扉を開けた瞬間に爽やかな風が吹き抜け、整列した騎士様たちが「ようこそ、麗しの姫君」なんて迎えてくれるに違いない。私はそこで、得意の気配りと愛嬌を振りまき、瞬く間にマドンナになるのだ。

「……ふふっ。待っててね、私の王子様」

 弾む足取りで回廊を渡り、南の塔の重厚なオークの扉の前に立つ。

 ここが、天国への入り口。私は胸いっぱいに期待を吸い込み、両手でノブを回し、勢いよく扉を開け放った。

「失礼いたしま――」

 挨拶は、最後まで続かなかった。途中で喉が引き攣り、言葉の代わりに、「ごふっ」という情けない咳が漏れたからだ。

 ……臭い。あまりにも、臭い。

 バラ色の香気など微塵もない。そこに渦巻いていたのは、暴力的なまでの悪臭の塊だった。

 鼻孔を突き刺す強烈な獣臭。鉄が錆びたような血生臭さ。何日も洗っていない布が醸し出す酸っぱい発酵臭。そして、男たちの熱気が凝縮されたむせ返るような脂の匂い。それらが換気の悪い空間で渾然一体となり、目に見えないヘドロとなって空気を澱ませていた。

「……う、そ……」

 ハンカチで鼻を押さえ、恐る恐る視線を泳がせる。そこに広がっていたのは、王宮のきらびやかさとは無縁の、薄暗い魔窟だった。

「あー、クソッ! 筋肉痛が引かねぇ!」

「おい、水! 水くれ!」

「誰か俺のブーツ間違って履いてねえか!?」

 銀色の鎧? そんなものはどこにもない。そこにいたのは、訓練を終えたばかりの、むさ苦しい男たちの群れだった。上半身裸でタオルを首に巻いた大男が、汗を飛び散らせながら歩いている。床には泥まみれのブーツが脱ぎ捨てられ、テーブルの上には飲みかけの酒瓶と、骨つき肉の残骸が散乱している。

 壁には手入れ中の剣が無造作に立てかけられ、そこから滴る油が床に黒い染みを作っていた。

 不潔。野蛮。混沌。私の知っている「騎士様」のイメージが、ガラガラと音を立てて崩れ去っていく。

「あ? なんだお前」

 入り口で立ち尽くす私に気づいた一人が、怪訝そうな顔で声をかけてきた。無精髭を生やし、胸毛が汗で張り付いている熊のような男だ。王子様には程遠い。どちらかと言えば山賊に近い。

「あ、あの……本日より配属になりました、リリィと申しまして……」

「ああ、新しいメイドか! 助かった、ちょうど手が足りなかったんだ」

 男はニカリと笑った。歓迎された、と安堵したのも束の間、彼は顎で部屋の隅をしゃくった。

「そこの洗濯カゴ、もう溢れそうなんだわ。とりあえず全部洗って、干しといてくれ。あと、床の泥掃除と、昼飯の準備な。今日のメニューは肉だ、肉!」

 優雅なエスコートも、甘い言葉もなかった。

 彼らが求めていたのは「麗しの姫君」ではなく、散らかした汚物を片付けてくれる「都合のいい家政婦」だったのだ。

「……え、あの、私は……」

「ん? どうした、ボサッとしてると日が暮れるぞ」

 男は私の困惑など意に介さず、近くにあった布切れを掴んだ。それは、彼が今まで身につけていたであろう、汗と泥でぐっしょりと濡れたアンダーシャツだった。

「ほらよ!」

 彼が放り投げたシャツが、放物線を描いて私の方へ飛んでくる。避けようとしたが、間に合わなかった。

 ベチャッ。

 生暖かい、湿った感触が私の顔面に張り付いた。鼻腔の奥まで侵入してくる、強烈な男臭さと汗の酸味。頬に伝わるヌルリとした不快な液体。

「――――ッ!!!」

 私は悲鳴を飲み込み、顔からその汚らわしい布を引き剥がした。視界が涙で滲む。

 無理無理無理無理。絶対に無理。

 シーツの皺? そんなこと、ここでは誰も気にしない。ここでは、泥がついているのが当たり前。汗臭いのが正義。床に落ちた食べ物を拾って食べるような野蛮な世界。

 私が求めていたのは、こんな……こんな家畜小屋のような場所じゃない!

「お、おい? 大丈夫か?」

 私がワナワナと震えているのを見て、男が首を傾げる。その無神経さが、さらに私の神経を逆撫でした。

「……さいてい」

 小さな呟きは、男たちの怒号と笑い声にかき消された。

 私は足元の洗濯カゴを見た。山盛りの、薄汚れた衣服の山。これから毎日、私はこの悪臭の中で、彼らのパンツや靴下を洗い続けることになるのか。

 一日たりとも、耐えられる気がしなかった。私の商家の娘としてのプライドも、一人の乙女としての尊厳も、ここではただの泥にまみれた紙屑同然だ。

「……っ、失礼します!!」

 私はシャツを床に叩きつけると、踵を返した。

 背後で「おい!」「どこ行くんだ!」という声が聞こえたが、振り返らなかった。

 王宮の廊下を走り、階段を駆け上がる。息が切れる。足がもつれる。それでも、一刻も早くこの悪臭から逃れたかった。

 とっておきの香水の香りなんて、とっくに汗と脂の臭いにかき消されていた。

 私が逃げ込んだ「天国」は、間違いなく「地獄」だったのだ。
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