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第九話 『坊ちゃま、走ってます』
しおりを挟む朝霧がまだ地表に残る、薄く冷たい空気の中。
石畳の上を、一定のリズムで足音が刻まれていた。
「……っは、っは……っ、くそ……」
走っているのは、一人の少年。
柔らかな白銀色の髪は後ろに跳ね上がり、寝起きのように乱れている。
だがその顔には、確かな決意があった。
クロは、屋敷の敷地内を周回するように走っていた。
粗い呼吸。痛む足。跳ねる心臓。
全身の筋肉が「休め」と悲鳴を上げてくる。
「……はあ、っは……ちょ、っと、舐めてた……な……」
自嘲気味に笑いながら、それでも足を止めなかった。
庭園を横切り、並木道を抜け、屋敷の裏庭へと続くルート。
それをただ、黙々と。
(前の身体なら、こんなの呼吸ひとつ乱さずにいけた。……けど、今は)
脇腹に刺すような痛みが走る。
思わず顔をしかめながら、歯を食いしばった。
(……マジか。息上がりすぎだろ、俺)
全盛期の自分との落差に、クロは思わず苦笑する。
「……笑わせんな。こんな程度で、へばってられっかよ」
気がつけば、いつの間にか屋敷の使用人たちがクロを見つめていた。
水や花を運ぶ手を止め、口元に手を当てて見つめる女性たち。
掃き掃除をしていた使用人がほうきを落としそうになる。
「……え、あれ……坊ちゃま、ですよね……?」
「うそ……走ってる……え、走ってる……?」
クロは気づいていたが、反応しなかった。
訓練の一環で視界を狭めていた。
“今は、自分の身体のみに集中する”と決めていたのだ。
「坊ちゃまーーっ!!」
遠くから響いた怒鳴り声。ミレイアだった。
「朝食の時間です! いったいどこに——えっ、ちょ、クロ様!?」
彼女は手にトレイを抱えたまま、目を丸くして立ち尽くす。
「……今、何周目ですか?」
「五周目。あと三は走る」
「………………は?」
クロは笑わない。真剣な顔で、前だけを見ていた。
「先に戻っててくれ。あとで風呂入って、ちゃんと食うから」
「い、いえ、それは……そういう問題では……!」
ミレイアは困惑しながらも、それ以上は言えなかった。
クロの目が、明らかに“何かを捉えている”目だったからだ。
その視線は、何かと戦う者の目だ。
本気で、何かを取り戻そうとしている者の目。
「……分かりました。朝食は、温かいままにしておきます」
「助かる」
そのやりとりを、近くで訓練を終えた兵士たちが見ていた。
「……ははっ、何やってんだか。坊ちゃまがトレーニングだってよ」
「マジで? あの“寝てばっかの三男坊”が?」
数人が笑い、肘で突き合う。
が、その中のひとりが、ふと呟く。
「でも……結構長く走ってねぇか?」
「ん?」
「ほら、見ろよ。もう一時間近く走ってんぞ。足、止めてねぇ」
「いやいや、続けりゃ偉いってもんでもねぇし。どうせ無駄に見栄張ってるだけだろ」
「……まあ、そうか」
嘲笑と興味。半信半疑の視線。
だがクロは、そのどれにも一切反応を見せず、走り続けていた。
ランニングが終わると、今度は庭の端にある木陰で腕立てを始めた。
静かに、黙々と。呼吸を意識し、身体を支える腕の震えを感じながら。
「……っぐ、は……っ、意外と……キツいな……っ」
体幹がぶれる。肘が甘くなる。汗が額を伝って落ちる。
だがそれでも、フォームを崩さないように意識する。
次はスクワット。
次は懸垂。
次はプランク。
使える道具などない。身体だけでできることを、限界まで。
(あの頃は、戦場が筋トレ代わりだったんだ。鍛えようとか考えたこともなかった)
(でも、今は違う。俺が動かさなきゃ、身体は動かない)
(この“肉”を、ちゃんとした“器”に仕上げなきゃ)
通りすがりの兵士たちがまたクロを見ていた。
その視線はもう、笑いではなく——不思議そうな“観察”に変わっていた。
「なあ……坊ちゃまって、あんなに根性あったっけ?」
「いや、知らねぇ。ってか、関わるなって言われてたしな。家の恥とか言われて」
「……でも、アレ、なんか……」
「……異様な雰囲気はあるな」
その囁き声も、クロの耳には入っていない。
入っていたとしても、気にしないだろう。
立ち上がった彼は、泥と汗で汚れた手を見下ろし、ふっと息を吐いた。
「……まだ全然、ダメだな」
脚が重い。腕が震える。肺が焼けるようだ。
けれど、その“限界”が——なぜか嬉しかった。
(限界があるってことは、超えられるってことだ)
(今はまだ雑魚でも、どうせ俺は……)
そこまで思って、口角だけで笑った。
「……ま、楽しみだな。どこまでやれるか」
クロは再び歩き出した。
どこか、足を引きずりながら。
だがその背中には、確かな意志があった。
誰にも見せびらかすわけでもなく、誰に認められるためでもなく——
ただ、自分が望むままに。
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