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第21話「優しいバジリスクの腕の中で」
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部署ではお祝いムード一色でほのぼのしていて忘れそうだった。
終業後に部長からの呼び出しを受け、覚悟を決めていた。
「三島さん……いや香住さん。
企画課の方に異動してもらいたい。
これは別に君だけに限ったことではなく、
決まりだからね」
「……はい。わかりました」
「君は私や社長からのお見合い話もすべて蹴った
香住くんを射止めた。
このまま独身を貫くのかと心配していたんだよ。
個人的に君たちの結婚を疎ましく思う人はいないだろう。
香住課長は、部署の社員たちからの評判が高いしね」
部長の向ける笑みは優しいものだった。
「引継ぎがあるから異動は一か月先。
半端な時期になるから11月の最初の月曜日から君は
新しい場所で働くことになる」
頭を下げる。
部長室から出ると慧一さんが待っていた。
「……一応掛け合ってみたんだけど、
規則は破れないと言われたよ。
君一人に負担がいくのは申し訳ない」
「勤続10年の課長と、入社二年目の
社員だったら私の方が異動になるに決まってますよ」
一応周りに人がいないのを確かめたうえでの会話だった。
「……引っ越しは業者を呼んで一気に終わらせよう。
今はシーズンオフだから頼みやすいと思う」
「はい」
今朝見た慧一さんの元気がない気がしたのは、
私の異動のことを気にしていたからだった。
「今日は電車で先に帰ります。
お買い物をしてマンションに向かいますね」
「分かった。帰ったらちゃんと話そう」
会社を出て電車に乗る。
マンションの最寄り駅で降りて、
スーパーに寄った。
慧一さんに美味しいものを食べさせてあげたいし、
私も美味しいものを食べたい。
メニューを決め、購入したら結構な荷物になった。
週末に二人で買い物に行き慧一さんの部屋で作って食べるのが、
当たり前になっていたため一人での買い物は、少し違和感がある。
以前は当たり前にしていたことがいつの間にか、変化していた。
エコバッグに詰め込んだ食材を手に持ち電車に乗る。
夕食ができたころ合いで慧一さんが帰ってきた。
「お帰りなさい」
「優香……ただいま」
ほんのり香る彼の匂い。
車に乗った時に香水をつけたのだろう。
「ご飯、できてるから一緒に食べよう?」
「平日なのに一緒に過ごせるのうれしいよ。無理してない?」
「してないわ。早く引っ越したい」
「そうだね……。着替えは置いてるんだし
今日はこのまま泊まりなよ。
ここから一緒に出社しよう」
「はい! できれば部署が変わっても、
一緒に行きたいって思ってます」
「もちろんだよ」
スーツのジャケットを受け取り、洗面室に持っていく。
洗濯乾燥機に入れた。
慧一さんも手を洗い一緒にダイニングに向かった。
テーブルの上には、サラダとスープ、お肉料理が並んでいる。
「ごちそうだ」
「簡単なものですけど」
「食費は後で渡すね。夫婦だからきちんとしなきゃ」
「そんなのいいですって!」
「だめ」
おどけて笑う慧一さんに癒される。
きっと和ませようとしてくれているのだろう。
向かい合って座ったら、彼は神妙な顔で唇を開く。
「暗黙のルールだから理解していると思って、
何も言わないままで申し訳なかった」
「……私も気にしてなかったので」
「部署が離れちゃうのはさみしいよ。
でも考えようによってはいいかもしれないんだ。
優香と交際し始めた時から距離感が気になって仕方がなかった。
いちゃつきたくなる度ここは会社だと自分を戒めたくらい」
「少し危険だなと思ってました」
「でしょ」
「付き合っているからと特別扱いをしたつもりなかった。
もちろん結婚した後も皆と同じ。
会社では、あくまで上司と部下だから」
上に話をしてくれたくせに。
やはり部署が別になるのはよかったのだ。
「それはわかってます。
慧一さんはちゃんと区別しているのに、
私ばかりあなたを意識していたから危険だったのよ」
「……そんなに俺を意識してたの?」
「時々、視線が意味深に感じたわ」
「……おかしいな。普通にしてたつもりだったのに」
「やっぱり別の部署の方がいいですね……。
来月まで頑張ります」
「寿退社する社員もいるし、出産を機にやめる社員もいる。
どうしても無理になった時は優香が決めて。
君の今までの頑張りを知っているから新しい所でも、
やれるとは思っているんだけど……」
慧一さんは、率直に伝えてくれる。
「頑張ってみてからですね。
私は会社が大好きですし」
「そうだね……。
俺も優香とふたりきりの時間をもう少しって思ってる」
「はい」
手を合わせ食べ始める。
慧一さんのためにワインを開けてグラスに注いだ。
「これの存在に気づいてくれてよかった」
慧一さんがしまっていた赤ワインは、
私の生まれ年のものだった。
「私はこっちにします」
冷蔵庫から取り出したオレンジジュースをグラスに注ぎ、グラスを合わせる。
「乾杯……奥さん」
「はい。あなた」
どうしてだろう。
結婚してあなたと旦那様を呼ぶのがこんなにしっくりくるだなんて。
「私のあなた? あなたの私のどっちだろう」
「どっちでも」
「駄目だな……。今日はお預けなのが口惜しいよ」
「も、もう」
妖しい目つきになった慧一さんから視線を逸らす。
食事をし少し時間をおいてそれぞれ入浴した。
朝は慧一さんの腕の中で目覚めた。
彼の腕の中はあたたかくて、
いつまでもまどろんでいたいと欲張りに思った。
一か月は瞬く間に流れて行った。
菜都子やほかのメンバーと一緒に昼休憩を過ごし、
業務外の時間でも交流を持った。
お別れ会とか大げさなものはしない方向にしてほしいと、
お願いしたら、結婚祝いの方をしましょうと言ってくれた。
つくづく人間関係に恵まれた。
結婚祝いはたまに飲み会で使っていた居酒屋で行われることになった。
部長が話していた通り、慧一さんは誰からも慕われているため、
やっかむ声は起きない。
私を羨ましいという声もあり、結婚してやめるという選択肢は
取らないことに決めた。
結婚した途端、あっという間にやめたと言われたくなかった。
集まった面々に二人で軽く挨拶をする。
慧一さんは照れる様子もなく自然とふるまっているが、
私は気恥ずかしかった。
注目される場が好きではないというのもある。
お祝いしてくれる皆の気持ちを
考えると変な顔はできない。
今回は、上が祝賀の費用として部長が出してくれた。
信頼されている慧一さんのおかげだ。
「香住課長、結婚しても飲み会は開いてくださいね!」
「結婚しても変わらないよ。
年に二回は部署で開けたらって思う」
慧一さんは隣に座った男性社員からお酌をしてもらっていた。
私は少し離れた場所で菜都子やほかの女性社員と話している。
「優香、そろそろ一緒に暮らせるの?」
菜都子の横から声をかけてきた内藤さんに微笑む。
「明後日の日曜日に引っ越す予定よ。一人暮らしの移動より気楽かな。
私が荷物を運ぶだけだもの。
一か月の間に不要なものを整理してたから準備はできてるわ」
「そっか。ようやくやっと一緒に暮らせるのね」
「と言っても毎日一緒に帰ってたし週末も
一緒だったけどね」
「でも別居婚よりいいよ!
夫婦は一緒にいないとね」
内藤さんは二十代後半で、既婚者だから
新婚の悩みも話せるのかなと思う。
「会社では三島で通すかな。
結婚指輪をしてるから大丈夫よね」
「同じ会社だし部署が変わるだけじゃ気になるわよね」
「部署が変わるこそかな。来週から新しい所で頑張るわ」
料理を食べ進めていくと、突然カラオケ大会が始まった。
一人一曲歌唱できると幹事から説明があった。
「三島さん、三年目の浮気を一緒に歌わない?」
会社のメンバーがいる時は、名字で呼ばれる。
帰りは平然と名前で呼ぶのだから不思議なものだ。
菜都子は慧一さん……香住課長の選曲に口元を押さえている。
とんでもない悪ノリをする人だ。
私はこぶしを震わせて誘いに乗った。
「許してはあげませんからね」
ボソッと歌う前に一言伝え香住課長を睨みつける。
周りは笑い声で満ちていた。
前歌った時より気持ちがこもっていると自分でも感じる。
慧一さんは楽しそうで手に負えない。
私はこの部署を今日で離れるから、
ある意味送別会の気分でもいる。
腰を抱いて堂々といちゃついてもこの部署の人達の前だから
許されているのだと理解しているからたちが悪い。
時々視線を送られたら、目をそらさず見つめ返す。
意趣返しだ。
盛大な拍手を贈られたが、どっと疲れ切っていた。
マイペースな旦那様の足を踏んでやりたいくらいだ。
「むっとしてる君もかわいいよ」
肩を抱いて耳元でささやく。
身体を離す時に一度腰を引き寄せた。
この人は来週の月曜日からどんな顔で出社して、
上司として皆と接するのだろう。
部署が離れるのは、やはりよかったとしみじみ思う。
「……みんなに謝って回りたい」
「見てて楽しいわよ」
菜都子は達観した視線をお持ちだった。
結婚祝いの会は楽しい雰囲気のまま午後九時半でお開きになった。
帰りの車の助手席で私は、これ見よがしのため息を吐いてしまう。
「私の反応を楽しんでるでしょ?」
「滅相もない」
くすっと笑う慧一さんはギアを入れ運転をし始める。
「来週からは部署が離れるから、
最後にいちゃつく姿を皆に見せといたんだよ」
「……もう何でもいいわ」
「明日は引っ越しの手伝いで俺もアパートに向かう」
慧一さんは話を切り替えた。
「ありがとう」
アパートまで送ってもらい車を降りる。
翌日は午前10時から慧一さんが来てくれた。
搬出の手伝いをしてくれた彼に手を振り、
引っ越し業者さんと一緒に車に乗る。
後ろから慧一さんの車が追い駆けてきた。
「お邪魔します」
「違うよ」
「あ、ただいま」
「おかえり。これからはずっと一緒だね」
マンションに着き荷物を運び終えた後で、
ようやく二人きりになった。
業者の方々にはお茶を出して丁重にお礼を伝えた。
「優香のお部屋に昨日白いレースのカーテンをつけといたよ。
あとかわいいルームライトも置いたから」
「ええ……そんなことしてくれてたの?」
「昨日、最後の仕上げをした。
荷物を解いて部屋を整えればオーケーだね」
「そうね」
てきぱきと作業し午後13時にランチを食べた。
慧一さんが用意してくれたご飯は、今日も最高に美味しい。
「クリームパスタ、大好き」
「ブロッコリーとエビもいいでしょ」
「お昼から豪華ね」
他愛ない会話をして日々を重ねていくのだろう。
そんな予感がした。
携帯電話の着信に気づいた慧一さんが、苦笑する。
「朔くんだ」
「何の用かしら?」
慧一さんは兄からの着信に出た。
もちろん聞こえるようにハンズフリーに設定してくれた。
「引っ越し終わったんだろ。お疲れさん」
「夫婦で一息ついていたところに、水を差すなんて君も気が利かないな」
「これからよろしく。お義兄さん……じゃなかった義弟か」
「手始めに慧ちゃんって呼べばいいよ」
「呼ばんわ」
二人のやり取りは聞いていて和む。
「落ち着いたら遊びに来なよ。住所はメッセージアプリに
画像付きで送っとくよ」
「親切じゃねえか。
優香に会えないの忘れて前の所に行かずに済むわ」
「お兄ちゃん……恋が上手くいったんじゃないの?」
「まあな。慧一さんのようにスローペースじゃないし俺は、
決める時は決める」
「朔くん、恋人さんができたのに日曜日に
連絡くれるなんて振られても知らないよ」
「振られんし」
「お兄ちゃんの愛する女性ってどんな人なの?」
「そこそこ強い」
慧一さんと顔を見合わせて笑った。
気が抜けて引っ越しの疲れを忘れそうだった。
瞬く間にクリスマスになった。
慧一さんと迎える初めてのクリスマスは、
夫婦として初めてのクリスマスでもある。
「怒涛の一年だった気がするわ」
「ミラクルとハッピーが盛りだくさんの
一年だったよね。
二人が数か月の交際を経て結婚に至って、
とっても素敵なクリスマスを迎えることができたんだ」
指輪を見せ合う。
テーブルの上には、有名百貨店のクリスマスケーキ、
デパ地下のオードブル、お手製のサラダが並んでいる。
キャンドルの明かりを頼りに薄明りのみだ。
「自分たちで忙しくしちゃったかも」
「これからゆっくりしよう。
俺たちは始まったばかりだよ」
グラスを合わせる。
シャンパンは、少し大人びていて
憧れの飲み物だった。
慧一さんと味わえるのがうれしい。
グラスの底にはサクランボが沈めてあっておしゃれだ。
「優香、楽しそう」
「楽しいわ。シャンメリーじゃなくて
シャンパンを飲むのは初めてなの」
「優香の初めてが俺となんて最高だ」
「慧一さんは私の初めてをほとんど知ってるわ」
「また嬉しいことを言ってくれちゃって」
「べ、別に! ローストチキン食べましょ!」
からかう時の顔に妙な色香を感じた。
ローストチキンを切り分けて小皿に盛る。
冷蔵庫の中にあったサラダも添えた。
「ケーキまで食べられるかしら」
「明日食べよう。仕事後の甘味として」
フォークとナイフを使いチキンを食べる。
ナプキンで拭い再びグラスを傾ける。
「去年のクリスマスは一人で適当に
デパ地下グルメを買ってきて食べて味気なかったな。
今年は奥さんと一緒だから寂しさもない」
「そうね。私も一人で適当に過ごした気がする」
「クリスマスソングでも流そうか。
赤鼻のトナカイと、サンタが街にやってくるのどっちがいい?」
「サンタが街にやってくる」
アーティストの曲ではなく子供のころから馴染みがある曲から
選ばせてくれた。
タブレットで動画サイトを表示させると軽快なメロディーが流れ始めた。
「クリスマスのラブソングって悲しい曲も多いじゃん。
この二曲ならそんなの関係ないし」
こく、と頷く。
「きよしこの夜も聞きたい」
「英語バージョンと日本語バージョンどっちにする?」
究極の選択を迫られた。
「日本語バージョンにします!」
「聴き慣れてるしね」
クリスマスソングを何曲か流しながら過ごしたイブの夜は過ぎていく。
「美味しかったわ」
「やっぱり誰と食べるかって大事だね」
微笑む慧一さんの瞳は欲にけぶっていた。
「……お風呂、久しぶりに一緒に入る?」
「はい」
素直に頷く。
今日は土曜日。
なんの憂いもないはず。
「お風呂では駄目よ」
私は雰囲気を壊すような釘を刺した。
「お風呂ではしないよ。優香ったら」
頬を指で突っつかれる。
「お風呂でのぼせて何もわからなくなるのが嫌なの」
慧一さんの全部をあますところなく感じていたい。
「かわいい」
横抱きにされ、洗面室に連れて行かれる。
お互いに背中を向けて衣服を脱ぎお風呂の扉を開けた。
バスタオルは厳重に巻いている。
「そんなに警戒しなくても」
「身体を洗う邪魔をしそうだもの」
「手伝ってあげるってば」
「約束は破(やぶ)らないで」
入浴するだけでいちいちじゃれる。
こういういちゃつきも愛する人となら悪くない。
「……離れるのは許さない」
浴槽(バスタブ)に浸かり距離を撮ろうとしたが腕を掴まれ、
慧一さんに後ろから抱擁された。
「つれない態度でごめんなさい」
「この後は素直になるんでしょう」
吐息が耳朶に触れる。
軽く触れ合わせる唇にも情熱を感じた。
終業後に部長からの呼び出しを受け、覚悟を決めていた。
「三島さん……いや香住さん。
企画課の方に異動してもらいたい。
これは別に君だけに限ったことではなく、
決まりだからね」
「……はい。わかりました」
「君は私や社長からのお見合い話もすべて蹴った
香住くんを射止めた。
このまま独身を貫くのかと心配していたんだよ。
個人的に君たちの結婚を疎ましく思う人はいないだろう。
香住課長は、部署の社員たちからの評判が高いしね」
部長の向ける笑みは優しいものだった。
「引継ぎがあるから異動は一か月先。
半端な時期になるから11月の最初の月曜日から君は
新しい場所で働くことになる」
頭を下げる。
部長室から出ると慧一さんが待っていた。
「……一応掛け合ってみたんだけど、
規則は破れないと言われたよ。
君一人に負担がいくのは申し訳ない」
「勤続10年の課長と、入社二年目の
社員だったら私の方が異動になるに決まってますよ」
一応周りに人がいないのを確かめたうえでの会話だった。
「……引っ越しは業者を呼んで一気に終わらせよう。
今はシーズンオフだから頼みやすいと思う」
「はい」
今朝見た慧一さんの元気がない気がしたのは、
私の異動のことを気にしていたからだった。
「今日は電車で先に帰ります。
お買い物をしてマンションに向かいますね」
「分かった。帰ったらちゃんと話そう」
会社を出て電車に乗る。
マンションの最寄り駅で降りて、
スーパーに寄った。
慧一さんに美味しいものを食べさせてあげたいし、
私も美味しいものを食べたい。
メニューを決め、購入したら結構な荷物になった。
週末に二人で買い物に行き慧一さんの部屋で作って食べるのが、
当たり前になっていたため一人での買い物は、少し違和感がある。
以前は当たり前にしていたことがいつの間にか、変化していた。
エコバッグに詰め込んだ食材を手に持ち電車に乗る。
夕食ができたころ合いで慧一さんが帰ってきた。
「お帰りなさい」
「優香……ただいま」
ほんのり香る彼の匂い。
車に乗った時に香水をつけたのだろう。
「ご飯、できてるから一緒に食べよう?」
「平日なのに一緒に過ごせるのうれしいよ。無理してない?」
「してないわ。早く引っ越したい」
「そうだね……。着替えは置いてるんだし
今日はこのまま泊まりなよ。
ここから一緒に出社しよう」
「はい! できれば部署が変わっても、
一緒に行きたいって思ってます」
「もちろんだよ」
スーツのジャケットを受け取り、洗面室に持っていく。
洗濯乾燥機に入れた。
慧一さんも手を洗い一緒にダイニングに向かった。
テーブルの上には、サラダとスープ、お肉料理が並んでいる。
「ごちそうだ」
「簡単なものですけど」
「食費は後で渡すね。夫婦だからきちんとしなきゃ」
「そんなのいいですって!」
「だめ」
おどけて笑う慧一さんに癒される。
きっと和ませようとしてくれているのだろう。
向かい合って座ったら、彼は神妙な顔で唇を開く。
「暗黙のルールだから理解していると思って、
何も言わないままで申し訳なかった」
「……私も気にしてなかったので」
「部署が離れちゃうのはさみしいよ。
でも考えようによってはいいかもしれないんだ。
優香と交際し始めた時から距離感が気になって仕方がなかった。
いちゃつきたくなる度ここは会社だと自分を戒めたくらい」
「少し危険だなと思ってました」
「でしょ」
「付き合っているからと特別扱いをしたつもりなかった。
もちろん結婚した後も皆と同じ。
会社では、あくまで上司と部下だから」
上に話をしてくれたくせに。
やはり部署が別になるのはよかったのだ。
「それはわかってます。
慧一さんはちゃんと区別しているのに、
私ばかりあなたを意識していたから危険だったのよ」
「……そんなに俺を意識してたの?」
「時々、視線が意味深に感じたわ」
「……おかしいな。普通にしてたつもりだったのに」
「やっぱり別の部署の方がいいですね……。
来月まで頑張ります」
「寿退社する社員もいるし、出産を機にやめる社員もいる。
どうしても無理になった時は優香が決めて。
君の今までの頑張りを知っているから新しい所でも、
やれるとは思っているんだけど……」
慧一さんは、率直に伝えてくれる。
「頑張ってみてからですね。
私は会社が大好きですし」
「そうだね……。
俺も優香とふたりきりの時間をもう少しって思ってる」
「はい」
手を合わせ食べ始める。
慧一さんのためにワインを開けてグラスに注いだ。
「これの存在に気づいてくれてよかった」
慧一さんがしまっていた赤ワインは、
私の生まれ年のものだった。
「私はこっちにします」
冷蔵庫から取り出したオレンジジュースをグラスに注ぎ、グラスを合わせる。
「乾杯……奥さん」
「はい。あなた」
どうしてだろう。
結婚してあなたと旦那様を呼ぶのがこんなにしっくりくるだなんて。
「私のあなた? あなたの私のどっちだろう」
「どっちでも」
「駄目だな……。今日はお預けなのが口惜しいよ」
「も、もう」
妖しい目つきになった慧一さんから視線を逸らす。
食事をし少し時間をおいてそれぞれ入浴した。
朝は慧一さんの腕の中で目覚めた。
彼の腕の中はあたたかくて、
いつまでもまどろんでいたいと欲張りに思った。
一か月は瞬く間に流れて行った。
菜都子やほかのメンバーと一緒に昼休憩を過ごし、
業務外の時間でも交流を持った。
お別れ会とか大げさなものはしない方向にしてほしいと、
お願いしたら、結婚祝いの方をしましょうと言ってくれた。
つくづく人間関係に恵まれた。
結婚祝いはたまに飲み会で使っていた居酒屋で行われることになった。
部長が話していた通り、慧一さんは誰からも慕われているため、
やっかむ声は起きない。
私を羨ましいという声もあり、結婚してやめるという選択肢は
取らないことに決めた。
結婚した途端、あっという間にやめたと言われたくなかった。
集まった面々に二人で軽く挨拶をする。
慧一さんは照れる様子もなく自然とふるまっているが、
私は気恥ずかしかった。
注目される場が好きではないというのもある。
お祝いしてくれる皆の気持ちを
考えると変な顔はできない。
今回は、上が祝賀の費用として部長が出してくれた。
信頼されている慧一さんのおかげだ。
「香住課長、結婚しても飲み会は開いてくださいね!」
「結婚しても変わらないよ。
年に二回は部署で開けたらって思う」
慧一さんは隣に座った男性社員からお酌をしてもらっていた。
私は少し離れた場所で菜都子やほかの女性社員と話している。
「優香、そろそろ一緒に暮らせるの?」
菜都子の横から声をかけてきた内藤さんに微笑む。
「明後日の日曜日に引っ越す予定よ。一人暮らしの移動より気楽かな。
私が荷物を運ぶだけだもの。
一か月の間に不要なものを整理してたから準備はできてるわ」
「そっか。ようやくやっと一緒に暮らせるのね」
「と言っても毎日一緒に帰ってたし週末も
一緒だったけどね」
「でも別居婚よりいいよ!
夫婦は一緒にいないとね」
内藤さんは二十代後半で、既婚者だから
新婚の悩みも話せるのかなと思う。
「会社では三島で通すかな。
結婚指輪をしてるから大丈夫よね」
「同じ会社だし部署が変わるだけじゃ気になるわよね」
「部署が変わるこそかな。来週から新しい所で頑張るわ」
料理を食べ進めていくと、突然カラオケ大会が始まった。
一人一曲歌唱できると幹事から説明があった。
「三島さん、三年目の浮気を一緒に歌わない?」
会社のメンバーがいる時は、名字で呼ばれる。
帰りは平然と名前で呼ぶのだから不思議なものだ。
菜都子は慧一さん……香住課長の選曲に口元を押さえている。
とんでもない悪ノリをする人だ。
私はこぶしを震わせて誘いに乗った。
「許してはあげませんからね」
ボソッと歌う前に一言伝え香住課長を睨みつける。
周りは笑い声で満ちていた。
前歌った時より気持ちがこもっていると自分でも感じる。
慧一さんは楽しそうで手に負えない。
私はこの部署を今日で離れるから、
ある意味送別会の気分でもいる。
腰を抱いて堂々といちゃついてもこの部署の人達の前だから
許されているのだと理解しているからたちが悪い。
時々視線を送られたら、目をそらさず見つめ返す。
意趣返しだ。
盛大な拍手を贈られたが、どっと疲れ切っていた。
マイペースな旦那様の足を踏んでやりたいくらいだ。
「むっとしてる君もかわいいよ」
肩を抱いて耳元でささやく。
身体を離す時に一度腰を引き寄せた。
この人は来週の月曜日からどんな顔で出社して、
上司として皆と接するのだろう。
部署が離れるのは、やはりよかったとしみじみ思う。
「……みんなに謝って回りたい」
「見てて楽しいわよ」
菜都子は達観した視線をお持ちだった。
結婚祝いの会は楽しい雰囲気のまま午後九時半でお開きになった。
帰りの車の助手席で私は、これ見よがしのため息を吐いてしまう。
「私の反応を楽しんでるでしょ?」
「滅相もない」
くすっと笑う慧一さんはギアを入れ運転をし始める。
「来週からは部署が離れるから、
最後にいちゃつく姿を皆に見せといたんだよ」
「……もう何でもいいわ」
「明日は引っ越しの手伝いで俺もアパートに向かう」
慧一さんは話を切り替えた。
「ありがとう」
アパートまで送ってもらい車を降りる。
翌日は午前10時から慧一さんが来てくれた。
搬出の手伝いをしてくれた彼に手を振り、
引っ越し業者さんと一緒に車に乗る。
後ろから慧一さんの車が追い駆けてきた。
「お邪魔します」
「違うよ」
「あ、ただいま」
「おかえり。これからはずっと一緒だね」
マンションに着き荷物を運び終えた後で、
ようやく二人きりになった。
業者の方々にはお茶を出して丁重にお礼を伝えた。
「優香のお部屋に昨日白いレースのカーテンをつけといたよ。
あとかわいいルームライトも置いたから」
「ええ……そんなことしてくれてたの?」
「昨日、最後の仕上げをした。
荷物を解いて部屋を整えればオーケーだね」
「そうね」
てきぱきと作業し午後13時にランチを食べた。
慧一さんが用意してくれたご飯は、今日も最高に美味しい。
「クリームパスタ、大好き」
「ブロッコリーとエビもいいでしょ」
「お昼から豪華ね」
他愛ない会話をして日々を重ねていくのだろう。
そんな予感がした。
携帯電話の着信に気づいた慧一さんが、苦笑する。
「朔くんだ」
「何の用かしら?」
慧一さんは兄からの着信に出た。
もちろん聞こえるようにハンズフリーに設定してくれた。
「引っ越し終わったんだろ。お疲れさん」
「夫婦で一息ついていたところに、水を差すなんて君も気が利かないな」
「これからよろしく。お義兄さん……じゃなかった義弟か」
「手始めに慧ちゃんって呼べばいいよ」
「呼ばんわ」
二人のやり取りは聞いていて和む。
「落ち着いたら遊びに来なよ。住所はメッセージアプリに
画像付きで送っとくよ」
「親切じゃねえか。
優香に会えないの忘れて前の所に行かずに済むわ」
「お兄ちゃん……恋が上手くいったんじゃないの?」
「まあな。慧一さんのようにスローペースじゃないし俺は、
決める時は決める」
「朔くん、恋人さんができたのに日曜日に
連絡くれるなんて振られても知らないよ」
「振られんし」
「お兄ちゃんの愛する女性ってどんな人なの?」
「そこそこ強い」
慧一さんと顔を見合わせて笑った。
気が抜けて引っ越しの疲れを忘れそうだった。
瞬く間にクリスマスになった。
慧一さんと迎える初めてのクリスマスは、
夫婦として初めてのクリスマスでもある。
「怒涛の一年だった気がするわ」
「ミラクルとハッピーが盛りだくさんの
一年だったよね。
二人が数か月の交際を経て結婚に至って、
とっても素敵なクリスマスを迎えることができたんだ」
指輪を見せ合う。
テーブルの上には、有名百貨店のクリスマスケーキ、
デパ地下のオードブル、お手製のサラダが並んでいる。
キャンドルの明かりを頼りに薄明りのみだ。
「自分たちで忙しくしちゃったかも」
「これからゆっくりしよう。
俺たちは始まったばかりだよ」
グラスを合わせる。
シャンパンは、少し大人びていて
憧れの飲み物だった。
慧一さんと味わえるのがうれしい。
グラスの底にはサクランボが沈めてあっておしゃれだ。
「優香、楽しそう」
「楽しいわ。シャンメリーじゃなくて
シャンパンを飲むのは初めてなの」
「優香の初めてが俺となんて最高だ」
「慧一さんは私の初めてをほとんど知ってるわ」
「また嬉しいことを言ってくれちゃって」
「べ、別に! ローストチキン食べましょ!」
からかう時の顔に妙な色香を感じた。
ローストチキンを切り分けて小皿に盛る。
冷蔵庫の中にあったサラダも添えた。
「ケーキまで食べられるかしら」
「明日食べよう。仕事後の甘味として」
フォークとナイフを使いチキンを食べる。
ナプキンで拭い再びグラスを傾ける。
「去年のクリスマスは一人で適当に
デパ地下グルメを買ってきて食べて味気なかったな。
今年は奥さんと一緒だから寂しさもない」
「そうね。私も一人で適当に過ごした気がする」
「クリスマスソングでも流そうか。
赤鼻のトナカイと、サンタが街にやってくるのどっちがいい?」
「サンタが街にやってくる」
アーティストの曲ではなく子供のころから馴染みがある曲から
選ばせてくれた。
タブレットで動画サイトを表示させると軽快なメロディーが流れ始めた。
「クリスマスのラブソングって悲しい曲も多いじゃん。
この二曲ならそんなの関係ないし」
こく、と頷く。
「きよしこの夜も聞きたい」
「英語バージョンと日本語バージョンどっちにする?」
究極の選択を迫られた。
「日本語バージョンにします!」
「聴き慣れてるしね」
クリスマスソングを何曲か流しながら過ごしたイブの夜は過ぎていく。
「美味しかったわ」
「やっぱり誰と食べるかって大事だね」
微笑む慧一さんの瞳は欲にけぶっていた。
「……お風呂、久しぶりに一緒に入る?」
「はい」
素直に頷く。
今日は土曜日。
なんの憂いもないはず。
「お風呂では駄目よ」
私は雰囲気を壊すような釘を刺した。
「お風呂ではしないよ。優香ったら」
頬を指で突っつかれる。
「お風呂でのぼせて何もわからなくなるのが嫌なの」
慧一さんの全部をあますところなく感じていたい。
「かわいい」
横抱きにされ、洗面室に連れて行かれる。
お互いに背中を向けて衣服を脱ぎお風呂の扉を開けた。
バスタオルは厳重に巻いている。
「そんなに警戒しなくても」
「身体を洗う邪魔をしそうだもの」
「手伝ってあげるってば」
「約束は破(やぶ)らないで」
入浴するだけでいちいちじゃれる。
こういういちゃつきも愛する人となら悪くない。
「……離れるのは許さない」
浴槽(バスタブ)に浸かり距離を撮ろうとしたが腕を掴まれ、
慧一さんに後ろから抱擁された。
「つれない態度でごめんなさい」
「この後は素直になるんでしょう」
吐息が耳朶に触れる。
軽く触れ合わせる唇にも情熱を感じた。
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