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2 新しい週が始まる
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当たり前に、新しい一週間が始まる。
結局、金曜日の夜を満喫した真白は、二十三時まで店で楽しく過ごして、雅たちと別れて駅で荷物を回収してインターネットカフェのシャワーとトイレのついた個室に泊まった。
本当はカプセルホテルに泊まりたかったのだが、残念ながら空きを見つけることが出来なかったのだ。
金曜の夜に宿泊するのは、真白にとっては楽しみの一つである。
いつもとは違う状況になったが、鍵付きの個室での時間はなかなかに快適なものだった。
土曜日はゆっくりと起き、チェックアウトして買い物を済ませて家に帰り、日曜日は一歩も外に出ない。
それが、次の一週間を始める上で、真白の大切なルーティンになっている。
会社の自分の席に座りながら、真白は休みの間のことを反すうしていた。
十分な休息を取ったはずなのに、月曜の午後には疲れを感じている。
年々、発散は上手くいっているはずなのに、疲れは取れにくく、溜まりやすくなった。
何か、新しい休日の過ごし方を見つけるべきか。
始業時間になり、パソコンの電源を入れて、社内メールをまずは確認し、自分のタスクも確認する。
そうして自分なりの速度で仕事をさばいていると、横から人の気配を感じた。
まだ仕事を開始して数分だぞという気持ちで振り向くと、営業の松原が書類を手に立っていた。
「雪平さん、このブランドの一昨年くらいからの分でいいんで、商品と売れていた物の資料を作っておいてくれませんか」
「分かりました……期日はいつですか?」
「明日の昼くらいまで。早ければ早いほど良いかな」
量で言えば大したことはないのだろうが、真白の仕事は資料作成だけではない。
他にも舞い込む作業をこなしながら、調べてまとめるという作業をしなければならないのだ。
本来なら、もう少し長めの期間がほしいところだが、文句を言うことはできない。
「⋯⋯できる限り早めに用意します」
「助かります」
不満は呑み込んで、渡された書類に視線を落とした。
真白が働くのは、高月デパートの本部の事業戦略部門の事務だ。営業職でも、店頭のスタッフでもないのだから、ただ自分の職務をまっとうすればいい。
相手が立ち去るまで書類から目を離さず、足音が遠ざかっていくと真白は無意識に詰めていた息を吐き出した。
簡単に言ってくれる。
もちろん、主要なブランドの情報は、アナログとデジタルのどちらにも保存されているが、資料を作るとなるとファイルを探してきたほうが良さそうだと思い、、チャットを利用して主任に資料保管室に行くために離席することを伝えて立ち上がった。
松原から受け取った書類を手に、一階上の資料室へと階段を使って上っていく。
高月百貨店本部は六階建ての造りをしていて、真白の所属する事業戦略部門は四階で、五階に資料保管室、会議室、給湯室がある。
会議の大半は午後が多く、始業して間もないこともあり、人の姿はない。
資料保管室に入るために自分の社員証をかざして鍵を開け、少し軋む扉を開けて中に入った。
室内はまさに書類がたくさんあるといった感じに独特の匂いがする。
ただ、書類の保存状態を保つために湿度と温度が一定に保たれているからか、廊下よりも心地よく座り仕事よりも居心地がいい。
配列はアルファベット順にされており、真白は該当の棚まで進んでいった。
今までデパートでは取り扱っていないブランドだが、若い層を取り込みたいからと検討しているようだ。
あまりブランドに興味のない真白でさえ知っている名前に、契約が決まれば話題になりそうだと二年分の資料を手に取った。
デジタルと違って、こうした重さがなかなか足腰に堪える。
分厚いファイルを手に、部屋を出て閉まっていく扉が自動ロックが掛かるまで見守ってから部署に戻ろうと階段を下り、これをまた戻しに行くのかとげんなりしている真白の耳に、話し声が聞こえてきた。
二階と四階には、喫煙所と自動販売機のある休憩所があり、各フロアから休憩にやってくるのは珍しくない。
この時間にその辺りを利用するのは、外回りに行く前の営業の人間ばかりだ。
声の聞こえ方から、喫煙所の中ではなく、休憩所で話しているのだろう。
プライバシー的に内容を聞くわけにはいかないと、急いで部屋に入ろうとしたが──。
「まじ、今日は雪平がいて良かったわ」
自分の名前が聞こえてきて、思わず足が止まってしまった。
自分の名前が出たとして、無視すればいい。
だが、声の響きがなんとも嫌な気がして動けなくなったというのが正しいのかもしれない。
「いやー、まじ愛想はないし、根暗だから仕事を頼むなら美夏ちゃんのほうがテンション上がるけどさ。仕事だけは早くて正確じゃないっすか」
「分かる! 笑顔一つないから話しかけづらいから、嫌なんだよな。まあ、どんな仕事量でも断らないから助かるけど。他の子たちは、可愛いけど仕事量が多いと嫌がるからな」
ゲラゲラと笑う声に、明らかな馬鹿にしたような響きを感じて、胸の奥がずしりと重くなる。
いつだってそうだ。
真面目に仕事をこなしているのに、人見知りで笑顔が苦手なせいで、無愛想だの愛想がないだの別の面で評価を下げられる。
自分の出来る限りで頑張ろうと裏方で頑張っているのに、それだけでは足りないのだろうか。
悔しいやら悲しいやら、よく分からない感情を抱えながら自分の席に戻り、資料を広げた。
こうした気持ちの時には、とにかくパソコンと向き合うことしかできない。
自分の急ぎの仕事を片付け、無心で資料を作成する。
時間の経過すら感じず、空腹すら感じなかったが、睨み続けたパソコンの画面にチャットが表示されて、ようやく真白はキーボードを打つ手を止めた。
チャットは主任からのもので、昼休憩を取るように促すものだった。
「昼休憩⋯⋯」
そう言葉を口にしたところで、お腹が鳴った。
壁の時計を見れば、もうすぐ十三時になるところだ。
厳密に昼休憩に行く時間は決まっていないが、手が空いた人から昼休憩に入る。
周りを見回せば、ほとんどの席が空席で、自分だけが仕事をしていたようだ。
さすがにこれ以上は遅くなれないと思った真白はデスクから鞄を取り出し立ち上がると、主任に昼休憩に行くことを伝えて食堂に急いだ。
食堂は十五時までは開いているが、食材の都合で売り切れが発生することもある。
特に、お手頃価格の今日のランチは、食堂が開く時間から一時間の間に高確率で売り切れてしまう。
案の定、食券売り場の横にあるホワイトボードには、売り切れのお知らせが書かれていた。
(はあー、忘れてた)
今日は、焼き魚定食だと先週こっそり食堂のおばちゃんから聞いていたのに、うっかり忘れてしまっていた。
本来事前にメニューは分からないのだが、なんでかおばちゃんたちに気に入られている真白は、好きなメニューの時は事前に教えてもらえたし、ちょっぴり多めに盛ってもらえたりした。
仕方がなく、カレーを選んで食券を買って列に並んだ。
「おや、真白ちゃん。遅かったじゃないか。定食は売り切れちゃったよ」
「残念です。少し仕事に集中しすぎてしまって、失念してました。なので、カレーでお願いします」
「はいよ」
食券を渡し、トレーを取ってスプーンと水のカップを乗せて受け取り口でカレーを受け取った。
「これはおまけだよ。内緒だからね」
そう言って、おばちゃんは茶碗蒸しをトレーに乗せてくれた。
「定食の数より多く作っちまったんだよ。もったいないから食べておくれ」
「ありがとうございます。喜んでいただきます」
「疲れた顔してるね。ゆっくり食べていきな」
少しだけ上向いた心で外の景色が見える窓辺の一人向けスペースに座り、太陽の光を感じながら真白はカレーを食べはじめた。
スパイスが効いたカレーというよりは、実家で食べるカレーといった感じの味に、刺々しくなっていた心も穏やかになっていく。
一緒についているサラダも食べ、カレーも最後の一口を食べ終え、茶碗蒸しに手を伸ばしたところで、スマートフォンの画面に通知が表示された。
『次はいつ帰ってこれますか?』
母親からの、実家で祖母の介護を手伝ってほしい時のメッセージだ。
真白は、そのメッセージを見なかったことにして、茶碗蒸しに手を伸ばした。
せっかく持ち直した心も、また下がってくる。
楽しみにしていた茶碗蒸しの味も、分からなくなっていた。
けれど、真白は社会人でいい大人だ。
自分の気持ちを感情のままに表現することはできない。
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
鳩尾の辺りが、痙攣しているような嫌な感じを押し止めながら、精一杯普通の声を出す。
「はいよ。また明日ね」
軽いやり取りを乗り切り、平常心を顔に貼り付けてお手洗いに立ち寄った。
いつもなら混んでいるお手洗いも、時間が違えば静かなものだ。
個室に入った真白は、長袖のシャツの袖をまくり上げると、ぎゅっと爪を立てた。
肌に食い込む爪に力を入れて引っ掻けば、皮膚が破れて血が滲む。
その僅かながらの痛みを感じて、真白は息を吐き出した。
「ふぅー」
頭にかかっていた靄が、晴れていくようにクリアになっていく。
これは、高校の頃からの真白の悪いクセだった。
嫌なことがあったり、怒りを覚えると、自分をコントロールするために痛みに走るのだ。
そうでもしないと、誰かを傷つけそうで怖かった。
だから、そんな積み重ねで左の腕の皮膚は傷跡で、ぼこぼこしていて綺麗とは言い難い。
夏でも長袖を着ていて、時に暑くないかと問われるが、半袖を着て腕を晒す訳にはいかなかった。
傷跡を見て不快に思われるのも、理由を聞かれるのも面倒くさい。
他の発散方法も試したが、自傷に近いこの行為を超える発散方法は見つからなかった。
ここまでいく前なら、夜遊びで十分発散できるのだが。
「はぁ⋯⋯戻らなくちゃ」
何度か深呼吸を繰り返してから、真白は自分のデスクへと戻った。
☆
終業時間になり、周りが席を立っていく中──。
真白は、未だにパソコンと向き合っていた。
午前中は順調に進んでいた資料作成は、午後になって入った別の仕事のせいで後回しにせざるを得なかった。
早ければ早いほど良いという言葉が、真白を苦しめる。
今日中に終わらせて、明日の朝には渡せるようにしておかないと。
最後にグラフを添えて、分かりにくいところはないか確認してから、印刷のボタンを押した。
出来上がったデータも保存して、顔を上げれば毎度のことながら自分の列以外の電気は消えていた。
主任には事前に残業することを伝えてあるから問題ない。
印刷している音が止み、出来上がった書類を取りに立ち上がれば、パソコン作業で凝っていた体が痛んだ。
こんな毎日のせいで、目の下のクマも首のコリもなくならないし、目も乾いていて眼精疲労が溜まっているのを感じる。
書類を手に取り、不備はないか確認して右上をホチキスで留めて松原のデスクに付箋を貼って置いた。
これで帰れると、鞄を手に部屋の電気を消して会社を出た。
週のはじめからこんなに働きたくなかったと真白は思った。
もっと、自分の時間を取れるような仕事に変えるべきか。
だが、給料はいいのだ。
自虐的に思いながら歩いていると、人通りのなくなった路地裏から何かが聞こえてきた。
「はっ⋯⋯や、⋯⋯やだぁ」
か細いが明らかに女性の声だった。
こんな遅い時間に、薄暗い路地裏からする声に、嫌な予感が頭に浮かぶ。
誰かに助けを求めようにも、優良企業が多いからか人通りはない。
人通りの多い場所に助けを求めに行っては、最悪な事態になるかもしれない。警察に通報したとしても、今なにが起こっているかも分からない状態では、警察も来てはくれないだろう。
真白は腹を決めて、路地裏に向かった。
「やぁっ、それ以上は⋯⋯うぅっ⋯⋯」
あまり刺激しないように、そっと声のする方を窺った。
声はさっきよりも近く鮮明に聞こえる。
そっと窺えば、二人分の人影が見えた。
とんでもない事件でも起こっているのかと思っていたのだが、二つの影はくっついて揺れていた。
「あっ、あっ⋯⋯」
「静かにしなよ。恥ずかしくないの? こんな外で感じまくってさ」
壁に両手をつけてお尻を突き出した女性の腰を掴んでいる男は、ほとんど服をはだけることなく、まるで作業の一つかのように腰を動かしている。
女性は正反対にシャツの前をはだけさせ、豊満な胸をブラから溢れさせて男が打ちつける腰の衝撃で揺らしていた。快感に震えながら、息を荒げて掴めもしない壁に爪を立てながら、すすり泣きにも似た喘ぎ声を上げている。
まさか、ビジネス街のすぐ裏道で、セックスしている人間がいるだなんて思わなかった。
あまりにも気まずい気分になってしまい、一歩後ろに下がると、ジャリッと音がしてしまった。
思わず、はっとして血の気が引く。
嫌な汗をかいていると、冷静な男の方が顔をこっちに向けた。
女性の方は、それどころではないのか気がついていない。
「ほら、誰かに見られたら⋯⋯どうするのさっ!」
真白と目を合わせながら男は、面白がる表情で、わざと彼女の弱いところを強く刺激したのか、くぐもった嬌声が上がった。
幸い、自分の服を咥えていたおかげで、人が駆けつけそうな悲鳴にはならなかった。
ばくばくと暴れる心臓に、早く立ち去るべきだ。
だが、体を震わせ、壁に寄りかかるように膝から崩れ落ちた女性から目が離せなかった。
上気した頬。荒い息遣い。しっとりと張り付く髪。
今の衝撃的な快感の前では、周りのことなどどうでもいいといった感じの様子が、真白には幸せそうに見えた。
これまで、彼氏とは別にセフレがいるなんて話す友人も中にはいたが、理解ができなかったが、こうした発散が目的なのかもしれない。
そんな風に思い始めれば、少しだけ興味が湧いてくる。
冷静に分析をし始めた真白の意識は、ジジッという音で引き戻された。
女性から視線をそちらに移せば、男がひらひらと手を振ってきた。
表情こそ変わらなかっただろうが、頬に熱が集まってくる。
真白は、くるりと背を向けると、走り出した。
(最悪だ)
正面から男の顔を見て気がついてしまった。
女性を完全に骨抜きにしていたあの男は──二日前にバーで噂になっていたキョウヤだ。
結局、金曜日の夜を満喫した真白は、二十三時まで店で楽しく過ごして、雅たちと別れて駅で荷物を回収してインターネットカフェのシャワーとトイレのついた個室に泊まった。
本当はカプセルホテルに泊まりたかったのだが、残念ながら空きを見つけることが出来なかったのだ。
金曜の夜に宿泊するのは、真白にとっては楽しみの一つである。
いつもとは違う状況になったが、鍵付きの個室での時間はなかなかに快適なものだった。
土曜日はゆっくりと起き、チェックアウトして買い物を済ませて家に帰り、日曜日は一歩も外に出ない。
それが、次の一週間を始める上で、真白の大切なルーティンになっている。
会社の自分の席に座りながら、真白は休みの間のことを反すうしていた。
十分な休息を取ったはずなのに、月曜の午後には疲れを感じている。
年々、発散は上手くいっているはずなのに、疲れは取れにくく、溜まりやすくなった。
何か、新しい休日の過ごし方を見つけるべきか。
始業時間になり、パソコンの電源を入れて、社内メールをまずは確認し、自分のタスクも確認する。
そうして自分なりの速度で仕事をさばいていると、横から人の気配を感じた。
まだ仕事を開始して数分だぞという気持ちで振り向くと、営業の松原が書類を手に立っていた。
「雪平さん、このブランドの一昨年くらいからの分でいいんで、商品と売れていた物の資料を作っておいてくれませんか」
「分かりました……期日はいつですか?」
「明日の昼くらいまで。早ければ早いほど良いかな」
量で言えば大したことはないのだろうが、真白の仕事は資料作成だけではない。
他にも舞い込む作業をこなしながら、調べてまとめるという作業をしなければならないのだ。
本来なら、もう少し長めの期間がほしいところだが、文句を言うことはできない。
「⋯⋯できる限り早めに用意します」
「助かります」
不満は呑み込んで、渡された書類に視線を落とした。
真白が働くのは、高月デパートの本部の事業戦略部門の事務だ。営業職でも、店頭のスタッフでもないのだから、ただ自分の職務をまっとうすればいい。
相手が立ち去るまで書類から目を離さず、足音が遠ざかっていくと真白は無意識に詰めていた息を吐き出した。
簡単に言ってくれる。
もちろん、主要なブランドの情報は、アナログとデジタルのどちらにも保存されているが、資料を作るとなるとファイルを探してきたほうが良さそうだと思い、、チャットを利用して主任に資料保管室に行くために離席することを伝えて立ち上がった。
松原から受け取った書類を手に、一階上の資料室へと階段を使って上っていく。
高月百貨店本部は六階建ての造りをしていて、真白の所属する事業戦略部門は四階で、五階に資料保管室、会議室、給湯室がある。
会議の大半は午後が多く、始業して間もないこともあり、人の姿はない。
資料保管室に入るために自分の社員証をかざして鍵を開け、少し軋む扉を開けて中に入った。
室内はまさに書類がたくさんあるといった感じに独特の匂いがする。
ただ、書類の保存状態を保つために湿度と温度が一定に保たれているからか、廊下よりも心地よく座り仕事よりも居心地がいい。
配列はアルファベット順にされており、真白は該当の棚まで進んでいった。
今までデパートでは取り扱っていないブランドだが、若い層を取り込みたいからと検討しているようだ。
あまりブランドに興味のない真白でさえ知っている名前に、契約が決まれば話題になりそうだと二年分の資料を手に取った。
デジタルと違って、こうした重さがなかなか足腰に堪える。
分厚いファイルを手に、部屋を出て閉まっていく扉が自動ロックが掛かるまで見守ってから部署に戻ろうと階段を下り、これをまた戻しに行くのかとげんなりしている真白の耳に、話し声が聞こえてきた。
二階と四階には、喫煙所と自動販売機のある休憩所があり、各フロアから休憩にやってくるのは珍しくない。
この時間にその辺りを利用するのは、外回りに行く前の営業の人間ばかりだ。
声の聞こえ方から、喫煙所の中ではなく、休憩所で話しているのだろう。
プライバシー的に内容を聞くわけにはいかないと、急いで部屋に入ろうとしたが──。
「まじ、今日は雪平がいて良かったわ」
自分の名前が聞こえてきて、思わず足が止まってしまった。
自分の名前が出たとして、無視すればいい。
だが、声の響きがなんとも嫌な気がして動けなくなったというのが正しいのかもしれない。
「いやー、まじ愛想はないし、根暗だから仕事を頼むなら美夏ちゃんのほうがテンション上がるけどさ。仕事だけは早くて正確じゃないっすか」
「分かる! 笑顔一つないから話しかけづらいから、嫌なんだよな。まあ、どんな仕事量でも断らないから助かるけど。他の子たちは、可愛いけど仕事量が多いと嫌がるからな」
ゲラゲラと笑う声に、明らかな馬鹿にしたような響きを感じて、胸の奥がずしりと重くなる。
いつだってそうだ。
真面目に仕事をこなしているのに、人見知りで笑顔が苦手なせいで、無愛想だの愛想がないだの別の面で評価を下げられる。
自分の出来る限りで頑張ろうと裏方で頑張っているのに、それだけでは足りないのだろうか。
悔しいやら悲しいやら、よく分からない感情を抱えながら自分の席に戻り、資料を広げた。
こうした気持ちの時には、とにかくパソコンと向き合うことしかできない。
自分の急ぎの仕事を片付け、無心で資料を作成する。
時間の経過すら感じず、空腹すら感じなかったが、睨み続けたパソコンの画面にチャットが表示されて、ようやく真白はキーボードを打つ手を止めた。
チャットは主任からのもので、昼休憩を取るように促すものだった。
「昼休憩⋯⋯」
そう言葉を口にしたところで、お腹が鳴った。
壁の時計を見れば、もうすぐ十三時になるところだ。
厳密に昼休憩に行く時間は決まっていないが、手が空いた人から昼休憩に入る。
周りを見回せば、ほとんどの席が空席で、自分だけが仕事をしていたようだ。
さすがにこれ以上は遅くなれないと思った真白はデスクから鞄を取り出し立ち上がると、主任に昼休憩に行くことを伝えて食堂に急いだ。
食堂は十五時までは開いているが、食材の都合で売り切れが発生することもある。
特に、お手頃価格の今日のランチは、食堂が開く時間から一時間の間に高確率で売り切れてしまう。
案の定、食券売り場の横にあるホワイトボードには、売り切れのお知らせが書かれていた。
(はあー、忘れてた)
今日は、焼き魚定食だと先週こっそり食堂のおばちゃんから聞いていたのに、うっかり忘れてしまっていた。
本来事前にメニューは分からないのだが、なんでかおばちゃんたちに気に入られている真白は、好きなメニューの時は事前に教えてもらえたし、ちょっぴり多めに盛ってもらえたりした。
仕方がなく、カレーを選んで食券を買って列に並んだ。
「おや、真白ちゃん。遅かったじゃないか。定食は売り切れちゃったよ」
「残念です。少し仕事に集中しすぎてしまって、失念してました。なので、カレーでお願いします」
「はいよ」
食券を渡し、トレーを取ってスプーンと水のカップを乗せて受け取り口でカレーを受け取った。
「これはおまけだよ。内緒だからね」
そう言って、おばちゃんは茶碗蒸しをトレーに乗せてくれた。
「定食の数より多く作っちまったんだよ。もったいないから食べておくれ」
「ありがとうございます。喜んでいただきます」
「疲れた顔してるね。ゆっくり食べていきな」
少しだけ上向いた心で外の景色が見える窓辺の一人向けスペースに座り、太陽の光を感じながら真白はカレーを食べはじめた。
スパイスが効いたカレーというよりは、実家で食べるカレーといった感じの味に、刺々しくなっていた心も穏やかになっていく。
一緒についているサラダも食べ、カレーも最後の一口を食べ終え、茶碗蒸しに手を伸ばしたところで、スマートフォンの画面に通知が表示された。
『次はいつ帰ってこれますか?』
母親からの、実家で祖母の介護を手伝ってほしい時のメッセージだ。
真白は、そのメッセージを見なかったことにして、茶碗蒸しに手を伸ばした。
せっかく持ち直した心も、また下がってくる。
楽しみにしていた茶碗蒸しの味も、分からなくなっていた。
けれど、真白は社会人でいい大人だ。
自分の気持ちを感情のままに表現することはできない。
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
鳩尾の辺りが、痙攣しているような嫌な感じを押し止めながら、精一杯普通の声を出す。
「はいよ。また明日ね」
軽いやり取りを乗り切り、平常心を顔に貼り付けてお手洗いに立ち寄った。
いつもなら混んでいるお手洗いも、時間が違えば静かなものだ。
個室に入った真白は、長袖のシャツの袖をまくり上げると、ぎゅっと爪を立てた。
肌に食い込む爪に力を入れて引っ掻けば、皮膚が破れて血が滲む。
その僅かながらの痛みを感じて、真白は息を吐き出した。
「ふぅー」
頭にかかっていた靄が、晴れていくようにクリアになっていく。
これは、高校の頃からの真白の悪いクセだった。
嫌なことがあったり、怒りを覚えると、自分をコントロールするために痛みに走るのだ。
そうでもしないと、誰かを傷つけそうで怖かった。
だから、そんな積み重ねで左の腕の皮膚は傷跡で、ぼこぼこしていて綺麗とは言い難い。
夏でも長袖を着ていて、時に暑くないかと問われるが、半袖を着て腕を晒す訳にはいかなかった。
傷跡を見て不快に思われるのも、理由を聞かれるのも面倒くさい。
他の発散方法も試したが、自傷に近いこの行為を超える発散方法は見つからなかった。
ここまでいく前なら、夜遊びで十分発散できるのだが。
「はぁ⋯⋯戻らなくちゃ」
何度か深呼吸を繰り返してから、真白は自分のデスクへと戻った。
☆
終業時間になり、周りが席を立っていく中──。
真白は、未だにパソコンと向き合っていた。
午前中は順調に進んでいた資料作成は、午後になって入った別の仕事のせいで後回しにせざるを得なかった。
早ければ早いほど良いという言葉が、真白を苦しめる。
今日中に終わらせて、明日の朝には渡せるようにしておかないと。
最後にグラフを添えて、分かりにくいところはないか確認してから、印刷のボタンを押した。
出来上がったデータも保存して、顔を上げれば毎度のことながら自分の列以外の電気は消えていた。
主任には事前に残業することを伝えてあるから問題ない。
印刷している音が止み、出来上がった書類を取りに立ち上がれば、パソコン作業で凝っていた体が痛んだ。
こんな毎日のせいで、目の下のクマも首のコリもなくならないし、目も乾いていて眼精疲労が溜まっているのを感じる。
書類を手に取り、不備はないか確認して右上をホチキスで留めて松原のデスクに付箋を貼って置いた。
これで帰れると、鞄を手に部屋の電気を消して会社を出た。
週のはじめからこんなに働きたくなかったと真白は思った。
もっと、自分の時間を取れるような仕事に変えるべきか。
だが、給料はいいのだ。
自虐的に思いながら歩いていると、人通りのなくなった路地裏から何かが聞こえてきた。
「はっ⋯⋯や、⋯⋯やだぁ」
か細いが明らかに女性の声だった。
こんな遅い時間に、薄暗い路地裏からする声に、嫌な予感が頭に浮かぶ。
誰かに助けを求めようにも、優良企業が多いからか人通りはない。
人通りの多い場所に助けを求めに行っては、最悪な事態になるかもしれない。警察に通報したとしても、今なにが起こっているかも分からない状態では、警察も来てはくれないだろう。
真白は腹を決めて、路地裏に向かった。
「やぁっ、それ以上は⋯⋯うぅっ⋯⋯」
あまり刺激しないように、そっと声のする方を窺った。
声はさっきよりも近く鮮明に聞こえる。
そっと窺えば、二人分の人影が見えた。
とんでもない事件でも起こっているのかと思っていたのだが、二つの影はくっついて揺れていた。
「あっ、あっ⋯⋯」
「静かにしなよ。恥ずかしくないの? こんな外で感じまくってさ」
壁に両手をつけてお尻を突き出した女性の腰を掴んでいる男は、ほとんど服をはだけることなく、まるで作業の一つかのように腰を動かしている。
女性は正反対にシャツの前をはだけさせ、豊満な胸をブラから溢れさせて男が打ちつける腰の衝撃で揺らしていた。快感に震えながら、息を荒げて掴めもしない壁に爪を立てながら、すすり泣きにも似た喘ぎ声を上げている。
まさか、ビジネス街のすぐ裏道で、セックスしている人間がいるだなんて思わなかった。
あまりにも気まずい気分になってしまい、一歩後ろに下がると、ジャリッと音がしてしまった。
思わず、はっとして血の気が引く。
嫌な汗をかいていると、冷静な男の方が顔をこっちに向けた。
女性の方は、それどころではないのか気がついていない。
「ほら、誰かに見られたら⋯⋯どうするのさっ!」
真白と目を合わせながら男は、面白がる表情で、わざと彼女の弱いところを強く刺激したのか、くぐもった嬌声が上がった。
幸い、自分の服を咥えていたおかげで、人が駆けつけそうな悲鳴にはならなかった。
ばくばくと暴れる心臓に、早く立ち去るべきだ。
だが、体を震わせ、壁に寄りかかるように膝から崩れ落ちた女性から目が離せなかった。
上気した頬。荒い息遣い。しっとりと張り付く髪。
今の衝撃的な快感の前では、周りのことなどどうでもいいといった感じの様子が、真白には幸せそうに見えた。
これまで、彼氏とは別にセフレがいるなんて話す友人も中にはいたが、理解ができなかったが、こうした発散が目的なのかもしれない。
そんな風に思い始めれば、少しだけ興味が湧いてくる。
冷静に分析をし始めた真白の意識は、ジジッという音で引き戻された。
女性から視線をそちらに移せば、男がひらひらと手を振ってきた。
表情こそ変わらなかっただろうが、頬に熱が集まってくる。
真白は、くるりと背を向けると、走り出した。
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