ハルと、ふたり暮らし。

永文

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第2話:ルールと境界線

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「それ、勝手に使わないでくれますか」

 その一言は、朝からちょっと浮かれていた私の心を、容赦なく叩き落とした。
 キッチンの片隅に置いてあったマグカップ。
 かわいいクマの絵が描かれていたから、てっきり私の母が置いていったものだと思った。
 なんとなく気分でコーヒーをそのカップに入れて、ひと口飲んだとき——
 後ろに立っていた悠が、ぽつりとそう言ったのだ。
 
「……あ、ごめん。これ、悠くんのだったんだ?」

「うん。自分のって決めてた」

「そっか、知らなかった。勝手に使ってごめんね」

「……いいよ」

 そう言って、悠はまた無表情で食卓につく。
 けど、明らかにちょっと距離ができた感じがする。
 私、地雷踏んだ?
 
________________________________________

 朝食を終えて、悠が学校へ行ったあと、私はひとりでリビングの片付けをしながら思った。

「……ルール、あるんだな、この子の中に」

 共同生活って、こういう暗黙のマイルールがぶつかる瞬間がある。
 たとえば冷蔵庫の中。
 よく見れば、下の段にあるペットボトルにはマスキングテープで「悠」って書かれてたし、
 冷凍庫には「食パン 俺用」ってメモが貼ってあった。
 几帳面というか、他人と住むことに慣れてるというか。

 ……いや、違う。
 これはむしろ“慣れてないからこそ”だ。

「自分のものは自分のもの」
「他人に触れられたくない」

 それは、心の中にも線を引いているということ。
 
 ふと、母から聞いた話を思い出す。
 ——悠くん、小さいころからずっと一人で過ごしてきたのよ。
 ——お父さん、仕事が忙しくて家を空けがちだったし、
 ——たぶん、ちゃんと“家族”って感じたこと、ないんじゃないかな。
 
 それを思い出した瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。

________________________________________

 夕方、就活の面接帰りにスーパーに寄って、今日は悠の好きそうなメニューを考えた。
 昨日、カレーにじゃがいもとにんじんと肉をリクエストされたから、今夜はシチューにアレンジしようと決めた。

 家に戻ると、先に帰っていた悠がソファで本を読んでいた。
 私の足音に気づくと、すっと背筋を伸ばして、挨拶する。

「……おかえりなさい」

「ただいま。早かったね、今日は」

「うん。部活、なかったから」

「そっか。おつかれさま」

 会話はぎこちないけど、昨日よりはほんの少しだけ自然。
 
「今日ね、スーパー行ってきたんだけど、悠くん、他にも食べたいものある?」

「……オムライス」

 即答だった。

「オムライス、好きなの?」

「うん。……昔、お母さんが、たまに作ってくれた」

「そうなんだ」

 話が途切れかけたそのとき。
 悠がふと視線を落として、ぽつりと呟いた。
 
「……その代わり、ケチャップは自分でかけたい」

「ん?」

「お皿の上に、名前とか書かれるの、苦手」
 
 ああ、なるほど。
 誰かに“子ども扱いされる”のが嫌なんだ。
 それはきっと、昔からずっとそうだったんだ。
 
「了解。悠くんは、自分で描く派ね」

「描かないけど……」

 くすっと笑ってしまった。
 悠も少しだけ表情を崩す。

 そんなやりとりをしながら、私は冷蔵庫の中をチェックして、晩ごはんの支度にとりかかる。
 
________________________________________

 食事のあと、食器を洗っていると、悠がぽつりと声をかけてきた。

「……あのさ」

「ん?」

「……マグカップ、ごめん」

「え?」

「朝、ちょっと言い方、きつかったかも」
 
 思わず手を止めて、振り返る。
 悠は俯きながら、手元で指を組んでいた。

「ううん、全然。気にしてないよ。私こそ、ちゃんと確認せずに使っちゃったし」

「でも……ありがとう。使わなかったら、そのまま忘れてたかも」

「……?」

「“自分のもの”って、誰かに知られるのって、ちょっと……怖いけど、うれしい」
 
 私はその言葉を、しばらく胸の中で転がしていた。
 悠にとって「所有」はきっと、孤独の証でもあったんだ。
 だから誰にも干渉されたくなかったし、でも本当は“誰かに見つけてほしかった”。
 ——そういう境界線を、私は今、またいでしまったのかもしれない。
 
「ねえ、悠くん」

「なに?」

「これから、ふたりでルール決めていかない? 共同生活ルール」

「……ルール?」

「うん。お互いの“ここは守ってほしい”とか、“これはやってくれると嬉しい”とか。
 決めておけば、気まずくなる前に防げるでしょ?」

「……うん、考えとく」
 
 それは、ほんの小さな提案だった。
 でも、悠が「自分の世界」に誰かを入れるための、一歩になった気がした。
 
 この家の中には、まだたくさんの“境界線”がある。
 でも、少しずつ、ふたりでそれを塗り替えていけるのかもしれない。
 たとえばそれが、「家族」ってことなら——
 今日から、私はその意味を学んでいくんだと思う。
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