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39 クラースさんの住居侵入

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 唯一無二の体験からテンションをブチ上げた俺は、思わず『抱いてください』と口走りそうになってしまった。今それを言えば多分クラースさんは激しく動揺してしまい、仲良く墜落することになっただろう。危なかった。魔が差しかけた。

 こんな朝っぱらから空中で心中するわけにはいかない。クラースさんを殺すなんてとんでもないし、俺にはまだやらなきゃならないことがある。ばあちゃんのことは忘れてない。途中、何度も記憶が風と共に遥か遠くへブッ飛びかけたが。

 赤い扉の、あの一角。上空から見たことはないが、この辺であの色の扉はここしかない。心なしか、周りの植木に元気がない。万が一のことも想像し、今や風にゆっくり乗っているだけになった長杖の上で深呼吸を繰り返した。

 タイルの上に降り立った、はずだった。嘘のようにぐにゃりと膝が曲がってゆき、あっという間に両手が地面を捉えていた。こ……腰が立たない。両膝が笑ってる。アホみたいに震えてやがる。

「ありゃー。ジルくん大丈夫? ほら、オレの肩に腕回して。リーセロットさんはオレが見ておくからさ、君は少し休みなよ」
「す、すみませ……しばらくは無理そうです……」 

「初めてだからしょうがないよ。みんなそうなるから。お前はセンスがある方だ、って学園の先生に色々仕込んでもらえたのは運が良かったと思うけどさー、程々に飛ぶってのがかえって苦手になっちゃって。なんかまだるっこしく感じちゃう。空に出るたび先生から教わったこのやり方が一番楽な気がしてさあ、ついつい飛ばし過ぎちゃうんだよー」
「すごいっスね……人間技とは思えない……俺、凄い人と一緒に住んでんだなってめっちゃ思いました。スゲェなほんと……」

『えー、ジルくん言い過ぎだよー』と、ちょっと俯き加減ではにかむ彼の横顔がとても眩しい。さっき見てきたばかりのはずの、勇ましくかっこいい男の人とは同一人物に思えない。

 その元に戻ったクラースさんは赤いドアに設置された、硝子兎の形をした燻し金のノッカーを掴みコンコンと数回叩いた。やはりとは思いたくないが、誰も出る気配がない。

「あ、やっぱり鍵かかってる。具合が悪くなってから外出はしてなさそうだね。これ、多分魔道具だ。体当たりしても壊れないやつ」
「じゃあここから突破は不可能ですか? どうしよう、窓からならいけるかな」

「いや、突破は出来る。ここを見て。これ旧式だから、螺子がついてるところは全部魔術関係ないんだよ」

 そう解説しながらクラースさんは片手杖を手に取った。螺子の部分にコツンと杖の先端を当て、『我、示す方を礎として左方に旋回せよ。乗算1ワイス6グラン。経常して旋回せよ』とか、『我、示す範囲より内包へ、儕輩せいはいは全て左方旋回を反復せよ。汝すべからく勤め終えるべし』と唱え、螺子という螺子を工具もなしにくるくる回して落としていった。 

「これで取れた。中身も裏面も全部外れて緩んでるはず。物理的には開くはずだけど……鍵穴かなあ、まだ引っかかってるみたいだね」
「それは俺がやりますよ。ちょっとどいててください」

「いやー……、その脚じゃあ踏ん張れないよ。ちょっとこの辺の柵にでも掴まってて、オレがこじ開けるから」

 クラースさんは片手杖をしまってから、すぐに細い工具のようなものを取り出した。革製の杖入れの中に一緒に入れていたようだ。それをどうするのかと見ていたら突然、ガツン!! という破壊音を響かせながらそれを鍵穴に突っ込んで、またさっきと同じような呪文を唱えた途端工具が勝手に、ガガガガガ!! とでかい切削音をがなり立て、凄い速度で奥へ向かって回転した。

 それを止めたあとにクラースさんは工具の取手を握りしめ、壁を蹴るように足をかけてガツンガツンと思いっきり前後へ揺すり始めた。その後ろ姿からは全く何の感情も伺えない。はたから見ると完全に強盗の姿である。

 いや強盗でもここまでするかな、という手口であっさりと扉を開け放ち、というより再起不能にして侵入には成功した。床には無惨に飛び散るさっきは鍵だったはずの金属部品。彼はそれらに目もくれず、至極冷静に入室した。

 様々な感情に早朝から襲われ続けた俺はといえば、気がついたら足腰がシャンと立っていた。ある意味ショック療法だ。



「クラースさん、ありがとう。色んな意味で。鍵壊してごめんなばあちゃん! 入るよ!」
「リーセロットさん! クラースとジルヴェスターです。朝早くからすみません、勝手に入らせてもらいます!」

 お互いに靴を部屋履きに履き替えながらそう叫び、俺は真っ先に寝室へ行った。勝手知ったる呪術師の家。先に夢で見てしまったそこへはすぐにたどり着くことができた。

 これもまた夢で見た光景である。いつ入れ替えたのかわからないポットの中身と横に置かれた使用済みのカップ。空になった魔術薬らしき薬瓶が一本、床に転がっている。少し間いた窓、揺れの止まったカーテン。人の形に膨らんだ白いベッド。

 すぐ駆けつけたのは良いのだが、上掛けを剥がすときはかなり勇気が要った。しかし見てみぬことには始まらない。おそるおそる端を掴んでめくってみた。バラバラに乱れた白髪。固く閉じた目。僅かに開いた口。乾燥した肌。そこだけ時が止められているようだった。

 間に合わなかった、と思った瞬間目の奥が熱くなり、顔の中心に向かってぎゅうぎゅうと引っ張られるような心地がした。やっぱりあれは過去の映像。間に合わなくても、せめて見送りたかった。部屋で一人で旅立たせるようなことは絶対にしたくなかった。

「………………い」

 俺が握った手が、夢でみた映像と同じ位置に置かれていた。あのあとすぐに逝ってしまったのだと思う。

 借りた本のある頁で、呪術の流れを演奏と歌で喩えてあったことを思い出す。人の気持ちは歌である。しかし聴く側にも意思があり、意識の持って行き所も様々な上に自由である。相手が聞こうと思わなければ、それはただの雑音になってしまう。

 そこに呪術という演奏が入ると随分事情が変わってくる。ある時は喜びを高めるように、またある時は海の底へと導くように。歌を乗せる船となる。この老女は、俺の師匠は最後の演奏を俺に聴かせてくれた。最後の命の音を聴かせて──



「眩しい。あんた何泣いてんだよ、うっとおしい」
「ばあちゃん……ありがとう……」

「は? 何がだよ。辛気臭い」
「んなこと言うなよ……情緒のない…………え?」

「こっちは気持ちよく寝てたのに。咳が全然止まんなくてさ、昨日は死ぬかと思ったよ。近所の人が差し入れてくれた薬でなんとか咳は止まったんだけどさあ、ゲホッ、あーまただよ、めんどくさい。あんたちょっとお使い行ってきてくんないか。腹が減った。財布はそこの引き出しに──」
「……おい…………おいおいおいおい!! 死んだんじゃねーのかよババア!! 生きてんじゃん!! 息してんじゃん!!」

「ゲホッ、上等だ。呪いの蝋人形にしてやろうか」
「あの……すみません……オレもてっきり、その、リーセロットさんが危ないんだと思って……鍵壊しちゃっ……すみません!! 弁償します!!」

 その場には、はあ? という顔をしている死ぬ死ぬ詐欺を働いたババアと、一気に襲ってきた疲労感に負けてベッドに突っ伏した俺と、ほぼ直角になった姿勢で頭を下げるクラースさん、という謎の空間が誕生した。

 心も身体も疲弊している俺の代わりに、遺言を聞いてからここまでブッ飛んできた経緯をクラースさんがかいつまんで話してくれた。それを聞いたばあちゃんは、盛大に咳込みながらゲラゲラと笑っていた。

 元気じゃねえか。このクソババア。いや良かったよ。良かったけどな。死ぬほど心配したんだぞ。父さんと同じことになるんじゃないかって俺はさあ。鍵代、というか扉代くらいチャラにしとけよクソババア。

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