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婚約者を捨てるのなら相応の罰は覚悟してくださいね?
後編
これまで優秀な騎士を幾人も輩出してきた名誉ある侯爵家の長男としてこの世に生を受けた俺、ウルグレン=ラフォードには、不本意ながら昔からお飾りの婚約者がいた。
かねてから親同士親交のある子爵家の長女で、名はレイラ=ハーミットという。
もちろん望んで相手を決めた恋愛結婚ではなくいわゆる政略結婚というやつで、双方の家でやれ領地がどうだ、税がどうなのと、要するにお互いにとってなんらかの利益を得るために、俺たちは利用されているというわけだ。
といっても、そのこと自体とやかく言うつもりはない。
父の父の代から連綿と受け継がれてきた習わしで、決して父上が悪いわけではなく、むしろ彼もまた同じく我が身を犠牲にしてきたのだから。
そのおかげで不自由なく成長することができたのだから、俺がわがままを言うのはそれこそ贅沢が過ぎるというもの。
相手の家の義父母にも取り立てて不満はない。
しかし、だ。
唯一彼らの一人娘、つまり俺の婚約者だけは話が別だ。
見てくれはそこまで悪いわけではない。
むしろ整っている方だろう。
だが、どうにもあいつは陰気臭いのだ。
また俺とは対象的に内向的な性格で、早い話がパートナーとして相性が悪かった。
しかしこちらはともかく、向こうが俺に好意を持っていることは出会ってすぐに分かった。
うぬぼれだとか、そういうわけではない。
だってそうだろう、お互いの家を訪問する度にいつも影からこっそりと俺の様子を伺い、視線が合うと顔を赤らめて照れ笑いを浮かべていれば、嫌でも気がつく。
仕方なく俺の方から声をかけてやれば、エサを与えたコイのように喜んで応じてくるのだから、分かりやすいことこの上なかった。
だからといって俺が彼女に対し恋愛感情を持つことは、ついぞなかったが。
やがて双方ともに学園に通う年齢になった頃、レイラは嫉妬深い一面を見せるようになった。
俺が女子生徒と差し障りのない雑談をしていると、どこからともなく現場を覗いているのだ。
そうして後からあの娘とはどんなことを話していたのかと聞かれ、それが気に障る内容だったら火がついたように泣いて俺は苛立ちを募らせた。
次第にそれら一連の行為がエスカレートすると今度は直接干渉してくるようになった。
自分の婚約者なのだから俺に手を出すなと相手に詰め寄り、あるいは詰った。
また、俺に対しても浮気はやめてほしいと束縛してくるようになり、いくらそんなつもりはないと説明してもまるで意味がなかった。
どこに行こうとも後ろをついて回り、鬱陶しいことこの上なく。
人から好意を持たれることに息苦しさを覚えたのは、これが初めてのことだった。
こういうのをはてなんと言ったか、以前レイラにせがまれて鑑賞した劇では確かストーカー、と呼ばれているのだったか。
とにかく、そんな彼女のせいで俺の精神は徐々に疲弊していった。
だからある日、とうとう我慢の限界を迎えた俺は勢いに任せてレイラにこう激高したのだ。
いくら婚約者だからといってこれ以上俺に付きまとうつもりならこちらにも考えがある! と。
すると、言外に白い結婚をちらつかせたこともあってかようやくレイラも大人しくなった。
俺に嫌われまいとして従順な態度を見せるようになったのだろう。
こうして俺は束の間の自由を手に入れた。
そんな折、セレスティアと出会った。
父上の新規事業開拓の一環で、その分野に顔が利くロサド男爵家と提携を結んだことがそもそものきっかけだった。
どちらから先に言い出したわけではないが子供同士たまたま同年代だったこともあり、俺たちもまた自然な流れで交流を開始した。
最初は特別な感情もなく、ただの女友達としか思っていなかったが、気を遣わずに済むその関係に居心地の良さを感じるようになっていった。
彼女は明るくて付き合いやすく、朗らかに笑うこともあってこれまで自分の婚約者に感じることのなかった女性としての魅力があった。
だからこそ頭の片隅でよくないことだとは理解しつつ、せめて正式にレイラと籍を入れるまでは密会していて問題ないと甘く考えていた。
当然、そんな都合のいい関係が長く続くことはなく、気がつけば俺はセレスティアに異性として惹かれていた。
ふとした瞬間に彼女のことが気になり、その度に一人やきもきする日々。
俺以外の男と会話していることに、少なからず嫉妬を覚えたりもした。
皮肉なことに婚約者以外の女性に好意を抱いたことで、ようやく俺を束縛していた過去のレイラの気持ちが理解できるようになっていたのだ。
そして、だからといってレイラに婚約者としての愛情が向かないことに自己嫌悪を重ねた。
しかしどうしてもレイラを好きになることは、できなかった。
ただ、理由は分かっている。自分で選んだ相手ではないから。
俺は、他でもない自らの意思でセレスティアを好きになった。
そのことに罪悪感はあれど後悔はない。
なにせ俺のこの初恋もまた、誰に伝えることもなく悲恋に終わるのだから。
セレスティアといかに楽しいひと時を過ごそうとも、いつの日か必ずそれは幕引きを迎える。
けれどそれはもう少し先の話――と思っていた矢先、泣きはらしたセレスティアから突然相談をされたのだ。
これまでずっと自分は嫌がらせを受けていた、今までは我慢してきたがそれももう耐えられそうにない、と。
聞けば、彼女は学園でどこかの誰かから執拗な虐め被害にあっているとのこと。
物を隠され、悪口を吹聴され、あげくには身の危険すら感じるほどの行為にさらされていると涙ながらに訴えられたのだ。
その証拠として見せられた教科書の姿に背筋が凍った。
表紙をなにか鋭利な刃物のようなもので何度も切り裂かれ、かろうじて原型を留めている稿にはとても筆舌に尽くし難い猥褻な言葉と、憎しみのこもった罵詈雑言で埋め尽くされていたのだ。
全体的に丸みを帯びた特徴的な筆記のおかげで一目でこれがレイラの仕業だと分かった。
大人しくしていたのは単なるフリで、実は裏でセレスティアのことを妬み、ずっと攻撃していたのだろう。
その間、正体も分からない相手からの嫌がらせに一人で耐えていた彼女の恐怖と心細さを考えると、とても平静ではいられなかった。
確かに今回の件については、誤解を招くような行動をとっていた俺にも否がある。
だからこそ不平不満があるのであれば、それは彼女ではなく俺自身にぶつけるべきだったのだ。
明らかにこれは常軌を逸しており、決して看過できない報復の仕方であった。
このままでは駄目だ。セレスティアにもしものことが起こるかもしれない。
ゆえに、ある決意を固める。
今回の件でレイラにはほとほと愛想が尽きた。俺はこのことを理由に、あいつに離縁を申し出ることにした。
とはいえやはり慰謝料は支払うことになるが、それできっぱりとあいつとの関係を精算する。
父上には申し訳ないが、こればかりはさすがに譲れない。
なにより、セレスティアが数ある人間の中から俺を相談相手に選んでくれたことが嬉しかった。
男として頼られているのだと実感する。
幸い、近く学園でダンスパーティーがある。
そこで衆人環視の中、婚約破棄を宣言しよう。
――と喜楽に考えていたはず、なのに。
「なんだレイラ、まだ俺に用があるの――がっ⁉」
不意に背中を襲った激痛に、身をよじった。
なにか異物の感触があり、そこがジュクジュクと激しい熱をもっている。
痛みで混乱する頭で遅まきながら刃物で背中を刺されたのだと理解する。
後ろを振り返ると、ナイフを手にしたレイラが酷薄な笑みを浮かべて佇んでいた。
その手の凶器は鮮血に塗れており、あれで俺の背中を一突きされたことは疑いようがない。
「お、お前、自分が今なにをしているのか、わ、分かっているのか……⁉ ぐぅっ……!」
胃のあたりからせり上がってくる血と粘ついたつばで上手く口が回らない。
ひとまず、いまだこの状況を飲み込めていないセレスティアを後ろ手に庇う形でナイフから距離を取る。
レイラは一人不気味に微笑んでおり、果たして内心なにを考えているのかまるで分からない。
「……ひ、ひっ! く、くるなレイラ、こっちにくるな!」
将来立派な騎士になるべく、鍛錬を重ねてきた肉体と精神にはかなり自信があった。
あらごとにも慣れ、もし目の前に凶器を持った暴漢がいても冷静に対処できるはずだと愚かにも高をくくっていた。
しかし実際はどうだ?
ナイフを携えているとはいえ、たかが同年代の異性に遅れを取っているではないか。
だが狂気を孕んだ形相のレイラにはそうさせるだけの凄みがあった。
いや、凄みとも違う。
これは恐怖だ。
絶対的な捕食者を前にして逃れようのない獲物が抱くそれと同じ。
……思えば初めてあった時からそうだった。
白状しよう。
レイラを好きになれなかった本当の理由、それは時折覗かせる彼女の俺に対する偏執狂的な感情が子供心に恐ろしかったからだ。
もしかするとそれを人は愛情と呼ぶのかもしれない。けれど俺にはどうにもそう思えなかった。
レイラのは、一方的な押し付け。
そんなものは到底愛情とは呼べない。
だからずっと別れたかった。
なにもかも手遅れになる前に。
「あ、謝る、謝るから許してくれレイラ、お、俺が悪かった、だから殺さないでくれごぶぅっ⁉」
とうとうこらえきれずに思い切り喀血する。
このままでは駄目だ死ぬ、死んでしまう。
それより先に殺されてしまう。誰に? そんなのは分かりきっている。鬼だ。悪魔だ。怪人だ。化物だ。悪霊だ。怪物だ。
――レイラだ。
「くるな……っ、くるなぁ……っ!」
どこでなにを間違えた?
なあ誰か、誰でもいいから教えてくれ。
人は間違いを正して成長する生き物だ。
なら俺の間違いを指摘してくれ頼むよ。すぐに直すからさ。自分じゃまったく気づけないから。お願いだ、お願いする、お願いします……。
「くるっ」
ズブリと体の内側に侵入してくる不快感の塊。
これまで感じたことのないそれは、さながら命を刈り取る死神の鎌が如く蹂躙する。
俺の臓腑をぐちゃぐちゃと掻き回し、致命的なダメージを与えていった。
全身から急速に力が抜けていくのを感じる。
もはや自分が助からないことは自明の理だ。
「あっ……がっ……!」
白濁していく視界の先に、なにか見える。
いわゆる走馬灯というやつか、これまでの日々が脳裏をよぎった。とはいってもほとんどが最近の記憶で、そのどれにもセレスティアが登場し、俺に微笑みかけてくれていた。
気が優しく、清楚で、いじましい、まさに天使のような彼女のおかげで、今際の際を迎えている俺の心は不思議と恐怖と焦燥から解放され、実に穏やかな気持ちでいっぱいだった。
徐々に体が傾いでいく。
次面に倒れ伏した瞬間、今度こそ俺は息絶えることだろう。
恨みはない。
この結末はすべて俺の自業自得なのだから。
ただ一つだけ気がかりなことがあるとすれば、それはセレスティアのこと。
「きゃああぁあぁあっ!」
目の前の惨劇に甲高い悲鳴を上げている彼女を一人残して逝くことは、どうにも心配だった。
警備隊には一刻も早くレイラの魔の手から彼女を助けてやってほしい。
それが俺がこの世で最後に祈った、切なる願いなのだった。
(了)
かねてから親同士親交のある子爵家の長女で、名はレイラ=ハーミットという。
もちろん望んで相手を決めた恋愛結婚ではなくいわゆる政略結婚というやつで、双方の家でやれ領地がどうだ、税がどうなのと、要するにお互いにとってなんらかの利益を得るために、俺たちは利用されているというわけだ。
といっても、そのこと自体とやかく言うつもりはない。
父の父の代から連綿と受け継がれてきた習わしで、決して父上が悪いわけではなく、むしろ彼もまた同じく我が身を犠牲にしてきたのだから。
そのおかげで不自由なく成長することができたのだから、俺がわがままを言うのはそれこそ贅沢が過ぎるというもの。
相手の家の義父母にも取り立てて不満はない。
しかし、だ。
唯一彼らの一人娘、つまり俺の婚約者だけは話が別だ。
見てくれはそこまで悪いわけではない。
むしろ整っている方だろう。
だが、どうにもあいつは陰気臭いのだ。
また俺とは対象的に内向的な性格で、早い話がパートナーとして相性が悪かった。
しかしこちらはともかく、向こうが俺に好意を持っていることは出会ってすぐに分かった。
うぬぼれだとか、そういうわけではない。
だってそうだろう、お互いの家を訪問する度にいつも影からこっそりと俺の様子を伺い、視線が合うと顔を赤らめて照れ笑いを浮かべていれば、嫌でも気がつく。
仕方なく俺の方から声をかけてやれば、エサを与えたコイのように喜んで応じてくるのだから、分かりやすいことこの上なかった。
だからといって俺が彼女に対し恋愛感情を持つことは、ついぞなかったが。
やがて双方ともに学園に通う年齢になった頃、レイラは嫉妬深い一面を見せるようになった。
俺が女子生徒と差し障りのない雑談をしていると、どこからともなく現場を覗いているのだ。
そうして後からあの娘とはどんなことを話していたのかと聞かれ、それが気に障る内容だったら火がついたように泣いて俺は苛立ちを募らせた。
次第にそれら一連の行為がエスカレートすると今度は直接干渉してくるようになった。
自分の婚約者なのだから俺に手を出すなと相手に詰め寄り、あるいは詰った。
また、俺に対しても浮気はやめてほしいと束縛してくるようになり、いくらそんなつもりはないと説明してもまるで意味がなかった。
どこに行こうとも後ろをついて回り、鬱陶しいことこの上なく。
人から好意を持たれることに息苦しさを覚えたのは、これが初めてのことだった。
こういうのをはてなんと言ったか、以前レイラにせがまれて鑑賞した劇では確かストーカー、と呼ばれているのだったか。
とにかく、そんな彼女のせいで俺の精神は徐々に疲弊していった。
だからある日、とうとう我慢の限界を迎えた俺は勢いに任せてレイラにこう激高したのだ。
いくら婚約者だからといってこれ以上俺に付きまとうつもりならこちらにも考えがある! と。
すると、言外に白い結婚をちらつかせたこともあってかようやくレイラも大人しくなった。
俺に嫌われまいとして従順な態度を見せるようになったのだろう。
こうして俺は束の間の自由を手に入れた。
そんな折、セレスティアと出会った。
父上の新規事業開拓の一環で、その分野に顔が利くロサド男爵家と提携を結んだことがそもそものきっかけだった。
どちらから先に言い出したわけではないが子供同士たまたま同年代だったこともあり、俺たちもまた自然な流れで交流を開始した。
最初は特別な感情もなく、ただの女友達としか思っていなかったが、気を遣わずに済むその関係に居心地の良さを感じるようになっていった。
彼女は明るくて付き合いやすく、朗らかに笑うこともあってこれまで自分の婚約者に感じることのなかった女性としての魅力があった。
だからこそ頭の片隅でよくないことだとは理解しつつ、せめて正式にレイラと籍を入れるまでは密会していて問題ないと甘く考えていた。
当然、そんな都合のいい関係が長く続くことはなく、気がつけば俺はセレスティアに異性として惹かれていた。
ふとした瞬間に彼女のことが気になり、その度に一人やきもきする日々。
俺以外の男と会話していることに、少なからず嫉妬を覚えたりもした。
皮肉なことに婚約者以外の女性に好意を抱いたことで、ようやく俺を束縛していた過去のレイラの気持ちが理解できるようになっていたのだ。
そして、だからといってレイラに婚約者としての愛情が向かないことに自己嫌悪を重ねた。
しかしどうしてもレイラを好きになることは、できなかった。
ただ、理由は分かっている。自分で選んだ相手ではないから。
俺は、他でもない自らの意思でセレスティアを好きになった。
そのことに罪悪感はあれど後悔はない。
なにせ俺のこの初恋もまた、誰に伝えることもなく悲恋に終わるのだから。
セレスティアといかに楽しいひと時を過ごそうとも、いつの日か必ずそれは幕引きを迎える。
けれどそれはもう少し先の話――と思っていた矢先、泣きはらしたセレスティアから突然相談をされたのだ。
これまでずっと自分は嫌がらせを受けていた、今までは我慢してきたがそれももう耐えられそうにない、と。
聞けば、彼女は学園でどこかの誰かから執拗な虐め被害にあっているとのこと。
物を隠され、悪口を吹聴され、あげくには身の危険すら感じるほどの行為にさらされていると涙ながらに訴えられたのだ。
その証拠として見せられた教科書の姿に背筋が凍った。
表紙をなにか鋭利な刃物のようなもので何度も切り裂かれ、かろうじて原型を留めている稿にはとても筆舌に尽くし難い猥褻な言葉と、憎しみのこもった罵詈雑言で埋め尽くされていたのだ。
全体的に丸みを帯びた特徴的な筆記のおかげで一目でこれがレイラの仕業だと分かった。
大人しくしていたのは単なるフリで、実は裏でセレスティアのことを妬み、ずっと攻撃していたのだろう。
その間、正体も分からない相手からの嫌がらせに一人で耐えていた彼女の恐怖と心細さを考えると、とても平静ではいられなかった。
確かに今回の件については、誤解を招くような行動をとっていた俺にも否がある。
だからこそ不平不満があるのであれば、それは彼女ではなく俺自身にぶつけるべきだったのだ。
明らかにこれは常軌を逸しており、決して看過できない報復の仕方であった。
このままでは駄目だ。セレスティアにもしものことが起こるかもしれない。
ゆえに、ある決意を固める。
今回の件でレイラにはほとほと愛想が尽きた。俺はこのことを理由に、あいつに離縁を申し出ることにした。
とはいえやはり慰謝料は支払うことになるが、それできっぱりとあいつとの関係を精算する。
父上には申し訳ないが、こればかりはさすがに譲れない。
なにより、セレスティアが数ある人間の中から俺を相談相手に選んでくれたことが嬉しかった。
男として頼られているのだと実感する。
幸い、近く学園でダンスパーティーがある。
そこで衆人環視の中、婚約破棄を宣言しよう。
――と喜楽に考えていたはず、なのに。
「なんだレイラ、まだ俺に用があるの――がっ⁉」
不意に背中を襲った激痛に、身をよじった。
なにか異物の感触があり、そこがジュクジュクと激しい熱をもっている。
痛みで混乱する頭で遅まきながら刃物で背中を刺されたのだと理解する。
後ろを振り返ると、ナイフを手にしたレイラが酷薄な笑みを浮かべて佇んでいた。
その手の凶器は鮮血に塗れており、あれで俺の背中を一突きされたことは疑いようがない。
「お、お前、自分が今なにをしているのか、わ、分かっているのか……⁉ ぐぅっ……!」
胃のあたりからせり上がってくる血と粘ついたつばで上手く口が回らない。
ひとまず、いまだこの状況を飲み込めていないセレスティアを後ろ手に庇う形でナイフから距離を取る。
レイラは一人不気味に微笑んでおり、果たして内心なにを考えているのかまるで分からない。
「……ひ、ひっ! く、くるなレイラ、こっちにくるな!」
将来立派な騎士になるべく、鍛錬を重ねてきた肉体と精神にはかなり自信があった。
あらごとにも慣れ、もし目の前に凶器を持った暴漢がいても冷静に対処できるはずだと愚かにも高をくくっていた。
しかし実際はどうだ?
ナイフを携えているとはいえ、たかが同年代の異性に遅れを取っているではないか。
だが狂気を孕んだ形相のレイラにはそうさせるだけの凄みがあった。
いや、凄みとも違う。
これは恐怖だ。
絶対的な捕食者を前にして逃れようのない獲物が抱くそれと同じ。
……思えば初めてあった時からそうだった。
白状しよう。
レイラを好きになれなかった本当の理由、それは時折覗かせる彼女の俺に対する偏執狂的な感情が子供心に恐ろしかったからだ。
もしかするとそれを人は愛情と呼ぶのかもしれない。けれど俺にはどうにもそう思えなかった。
レイラのは、一方的な押し付け。
そんなものは到底愛情とは呼べない。
だからずっと別れたかった。
なにもかも手遅れになる前に。
「あ、謝る、謝るから許してくれレイラ、お、俺が悪かった、だから殺さないでくれごぶぅっ⁉」
とうとうこらえきれずに思い切り喀血する。
このままでは駄目だ死ぬ、死んでしまう。
それより先に殺されてしまう。誰に? そんなのは分かりきっている。鬼だ。悪魔だ。怪人だ。化物だ。悪霊だ。怪物だ。
――レイラだ。
「くるな……っ、くるなぁ……っ!」
どこでなにを間違えた?
なあ誰か、誰でもいいから教えてくれ。
人は間違いを正して成長する生き物だ。
なら俺の間違いを指摘してくれ頼むよ。すぐに直すからさ。自分じゃまったく気づけないから。お願いだ、お願いする、お願いします……。
「くるっ」
ズブリと体の内側に侵入してくる不快感の塊。
これまで感じたことのないそれは、さながら命を刈り取る死神の鎌が如く蹂躙する。
俺の臓腑をぐちゃぐちゃと掻き回し、致命的なダメージを与えていった。
全身から急速に力が抜けていくのを感じる。
もはや自分が助からないことは自明の理だ。
「あっ……がっ……!」
白濁していく視界の先に、なにか見える。
いわゆる走馬灯というやつか、これまでの日々が脳裏をよぎった。とはいってもほとんどが最近の記憶で、そのどれにもセレスティアが登場し、俺に微笑みかけてくれていた。
気が優しく、清楚で、いじましい、まさに天使のような彼女のおかげで、今際の際を迎えている俺の心は不思議と恐怖と焦燥から解放され、実に穏やかな気持ちでいっぱいだった。
徐々に体が傾いでいく。
次面に倒れ伏した瞬間、今度こそ俺は息絶えることだろう。
恨みはない。
この結末はすべて俺の自業自得なのだから。
ただ一つだけ気がかりなことがあるとすれば、それはセレスティアのこと。
「きゃああぁあぁあっ!」
目の前の惨劇に甲高い悲鳴を上げている彼女を一人残して逝くことは、どうにも心配だった。
警備隊には一刻も早くレイラの魔の手から彼女を助けてやってほしい。
それが俺がこの世で最後に祈った、切なる願いなのだった。
(了)
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