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第一週「カレーライス」

(4)結局、他人が作ったおにぎりが一番美味しい

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「よっしゃ、これでなんとか副長に殺されんで済むわ!」
「良かったですね。このようなことが今後一切無いよう、次から気を付けなさい」
「はぁい」

 今、睦郎は小躍りしそうな勢いで献立表を掲げて立っている。
 その様はさしずめ憧れの君から手紙を貰った女学生、というところだろうか。鼻歌でも歌い出しそうな勢いの睦郎に向かって忘れずしっかり釘を刺し、赤岡は白衣を翻しながらその場から去ろうとした。

「では、私はこれで失礼しますよ」
「ほんまありがとうなぁ」

 よほど嬉しかったのか、睦郎が満面の笑みで赤岡の方を振り返る。
 まるで子供のように無邪気で幼い笑顔だった。とてもじゃないが、四十路に近い男が見せるような表情ではないだろう。

「……」

 思わず、見入ってしまった。これは、睦郎という男が、赤岡という信頼している人間の前だけで見せる顔だ。
 睦郎は童顔なだけでなく、身長も低いためにこういう表情を見てしまったら余計に幼さが目につく。
 赤岡と出会った頃からほとんど何も変わっていない。本人はムキになって変わったと主張するだろうが、赤岡にとって彼は初めて出会った頃から何も変わっていないのだ。

 酸いも甘いも噛み分けて精悍さを兼ね備えた顔付きと、多少は落ち着いて周りをみれるようになった年相応に丸さを身に付けたことだけは認めてやろう。
 だが、どれほど外面や内面に変化があろうとも、根っこの部分で彼を構成しているものは何も変わらない。
 もっとも、それを読み取れる者は早々いないし、いてたまるものかと思うが。

「あ、ところでなんやけどな」
「まだ何か」
「いやん。怖い顔せんといてぇ。赤岡はん、なんや今日の昼は士官食堂で見かけんかったなぁ思てな」

 不意に思ってもいなかったことを問われ、今度は赤岡が“鳩が豆鉄砲を喰らったような”表情をする番だった。

「まさかー、やねんけど……赤岡はん、昼メシ食いっぱぐれたとか。そんなわけ無いよなぁ」
「……」

 沈黙。そのせいで、冗談のつもりでそれを口にした睦郎は盛大に固まる羽目となった。

「……あのー…………もしかして……」
「……」

 軍医長、答えず。しかも赤岡はそっと目を反らし、睦郎の視界から無言のままで離れようとするではないか。

「いやいやいや、ちょぉ待ち。赤岡はん、昼メシ食いっぱぐれたってホンマのことなんかい!」
「これは失礼。ここのところ立て込んでいて、少々ばかりか忙しかったのですよ。気が付いたら昼食の時間が終わっていました。以上です」
「───いや、以上ですちゃうわ!!」

 睦郎はぎょっと目を剥き、そのまま去っていきそうだった赤岡を大慌てで引き留めた。
 思えば昔から、赤岡は食事にさほど興味を持たぬ男であった。だが、まさかこの歳になってもその悪癖を引きずっていたとは思わなかったのだ。

「私とて、もう十代二十代の若手では無いのですからね。最近、あまり量を食べられないようになった上に、脂っぽいものを食べると胃に響いて気持ちが悪くなるのですよ」
「そ……そんなに……?」
「アナタもいずれ判ります。歳をとるとはそういうものですから……」
「悲しいこと言わんといてぇな! 嫌になるやろ歳とんのが!!」

 睦郎と赤岡は五つしか歳が離れていないのだが、それが逆に生々しさを強調する。恐怖に震え上がるのも無理はない。
 五年後には自分もそうなっているのだろうか。生まれたときから美味しいものが周りじゅうに溢れ返っていた睦郎にとって、それは何よりも恐ろしいことだった。

「まあ、正直に申し上げると、非は忙しさにかまけて時間を超過してしまった私の方にあります。アナタに対して時間に厳しくと言っていた手前、自分だけ守らないという選択肢はありませんよ」
「なんや。そういうことかいな。そういうときはなぁ、従兵に頼んで握り飯でも作ってもろたらええねんで」

 赤岡は乗員六百名以上いる重巡の軍医長。そして「古鷹」で医師の資格を持っているのは、彼しかいない。
 手足として動く配下の衛生兵たちの存在はあるが、それでも医療資格を持たない彼らにできることは少ない。軽い怪我の治療や月例検査(※月に一回ある健康診断)の準備くらいだろう。
 なので、月例検査前になると赤岡は非常に忙しくなる。六百名以上を一人で診なければいけないのだから、それ相応の準備に終われて目も回るくらいに忙しくなるのも無理はない。

 そんな赤岡に知恵をつけさせながら、睦郎は書類を机の上に置いた。机に肘をついて頬杖をしていた赤岡は横目でそれを見つつ、少しだけ考え込む。

(嗚呼、なるほど。そういうことか)
「赤岡はん?」
「いいえ、何も」

 そっと目を閉じて、赤岡はフッと吐息を漏らした。
 それほど広くない室内。少し手を伸ばせばすぐ壁に届く。
 近くの壁にそっともたれ掛かって、赤岡はふと思い付いた意地悪を口に出してみる。

「それでしたら睦、アナタに作って頂きたいのですが?」
「えっ」

 今度こそ、睦郎は声も出せないくらいに驚いた。従兵に頼めと言った矢先のこれである。思いもよらない要求に固まる睦郎を前にして、赤岡は主導権を握り返したとばかりに口の端を吊り上げていた。

「何か問題でも? 忙しいのなら別に構わないのですが」
「え、いや……別にええんやけど……なんでおれが?」

 別に握り飯くらいでわざわざ自分を指名せずとも良いだろう、と訝しげに首を傾げた睦郎に赤岡は一言。
 当然だがそれが睦郎にとってどれだけの爆弾になるか、確信した上で狙って放った。

「私の味の好みを完璧に理解しているのは、アナタくらいなのに?」
「──」

 何を言われたのか、すぐには理解できなかったらしい。
 睦郎はきょとんとなって首を傾げたまま固まっている。

「!?」

 赤岡の顔を認識して数秒。ダンッ、と盛大な音が響いた。
 驚愕のあまり跳ね上がって背中をぶつけてしまったようだ。軍艦は基本的に壁も床も鋼鉄でできているため、あれだけ大きな音を立ててぶつかれば痛かっただろうに。
 しかし睦郎はそれどころではなかった。言われた言葉の意図にようやく気付き、睦郎は目を白黒させながら声にならない悲鳴を上げる。

「聞こえませんでしたか。私の味の好みを完璧に把握できる人間など、アナタ以外にはいませんよ」
「!」

 聞き間違いだったのだろうか。いいや、違った。まぎれもなく本人の口から、とんでもない爆弾が投げ込まれていた。それをモロで聞いてしまった睦郎に、もう打つ手など無い。

(こ……こんの、ど阿呆ぉ……)

 まったく、とんでもない殺し文句だ。
 自分の味の好みを完璧に理解しているのはお前以外にいない?

 そんなの、そんなの聞かされたら、もう作るしか無いではないか。

「あ、うん。ま、まあ……あれやな。えー……あー……そや、献立のお礼ちゅうことでまけとくわな」
「はいはい」

 そそくさと退散していく睦郎の後ろ姿を見送って、赤岡はからかい混じりの得意気な表情を浮かべていた。








***









「もぉ……あんお人は……ホンマにもう……」

 軍服の上衣を脱ぎ捨てつつ、情けない自身への文句を漏らし続ける睦郎。
 ブチブチと何事かを言いつつもしっかり烹炊所に来ている辺り、しっかり負けを認めているのだろう。
 なんの勝負に負けたのか、それは睦郎本人にも判らない。だがこの奇妙な敗北感はしばらく引きずることになると確信していた。

(ホンマになんも変わって無いやんけ……)

 ああいうところは出会った頃から変わっていない。本当に、何一つとして。

「ホンマ……ホンマにあのど阿呆……」
「?」

 烹炊所の主である掌衣糧長が訝しげな顔をする中、睦郎はカフスボタンを外して袖をまくり、手をしっかり洗ってその場に立っていた。

「主計長、何かあったのでしょうかね」
「さあ……知らんよ」

 配下の烹炊員も頭の上にいくつも疑問符を飛ばしている。
 彼ら主計科の新しい長である睦郎のことは、正直に言うとまだ良く判っていないと答えるしかない。
 だがひとつ言えるとすれば、それは「軍医長である赤岡中佐と昔からの知己である」とだけ。
 そしてその赤岡が睦郎の私室に向かった後、なぜか耳を赤くした睦郎が烹炊所にやってきた。

 謎は解決するどころか深まるばかりである。

「……むう」

 残り物の飯を前に思案する。
 具材は既に決めてある。後は量を調整するだけ。

 握り飯といえども調理は調理だ。なにせこんなことをするなど十数年ぶり。失敗するかもしれない。
 それでも手は覚えてくれているだろう。睦郎はただ自分の腕を信じるのみ。

「うん……」

 しっかり洗って消毒をした掌の上で冷めた飯を広げる。
 軍艦の烹炊ほうすい所に搭載されているのは蒸気釜であるためか、普通の釜で炊いたものよりふっくらしている気がするのはなぜだろう。炊きたてであったら米の甘いかおりが食欲を刺激しただろうが、今はもう既に冷めているのでお預けだ。
 冷飯の味をどう引き立てるのかは、料理人の腕前次第。一粒一粒の甘味を引き立てるのに最適な厚さを見極める目を養うにも、時間がいるだろう。

 なお余談ではあるが、当時の米の品種に新潟が生んだ最高峰のブランド米であるコシヒカリは存在しない。あれは戦前から既に研究が進められていた品種であったが、日の目を見たのは戦後しばらく経ってからである。

 握り飯の具材にするものは決まっていた。先に削っておいたかつお節をそうっと乗せる。
 鰹の旨味を口の中で広げるために、薄く削り出しておいたものだ。出汁を取るときはもっと厚めでも良いが、直接食べる場合は向こう側が透けて見えるくらいの薄さ
が一番だ。
 これを飯で包む前に、醤油をぐるりとかけてやる。これで乾燥させてなお消えない魚臭さが醤油の香ばしいかおりで緩和されて、うまい具合にそれぞれの味を引き立ててくれる。

 ただし、醤油をあまり多めにかけるのはご法度だ。醤油に溶け込んだ鰹の旨味が飯の外に溢れてしまう。

 あとはこれを飯で包み込んで、ぎゅっと中に閉じ込めるだけ。
 かつお節が吸いきれなかった分の醤油を周りの飯が纏い、しかし具材はしっかり甘い米の中で守られる。
 きゅっと三角になるように結んで、それで完成だ。

「ああ、もう……ホンマにおれの阿保……」

 竹の皮の上にできた握り飯をいくつか置いたところで急に我に返ったらしい。睦郎は作業をしていた台の上に手をついて、眉をハの字にしながら力なく呟いた。

(敵わんような相手に対してなに勝ち目の無い勝負を仕掛けとんねん……)

 思い出すのは赤岡のニヒルな表情。あんな顔、昔は見せてさえくれなかったというのに。

「あのぅ、主計長?」
「んん?」
「どうかなされたのでありますか……?」

 側に控えていた主計兵が、突然固まった主計長に恐る恐るといった風に話しかけた。

「ああ、うん。大丈夫やで。ちょお昔のこと思い出し取っただけやさかい」
「は、はあ……」
「まあ、あれやな。昔惚れた別嬪のことを急に思い出しただけやぁ。そんな気にしなさんな」

 竹の皮の端を少しだけ裂く。これを結ぶ紐にするためだ。包んでしまえば、これで睦郎の仕事は終了。

 軍医長付きの従兵を呼び出してその小包を渡し、睦郎はまた来たとき同様そそくさと返っていった。



 後日、主計長が握った握り飯が絶品だという噂が「古鷹」内で駆け巡ったそうだが……真相は軍医長の腹の内である。








 昭和五年十二月十一日。
 「古鷹」の新しい主計長、鷹山睦郎主計少佐が着任して早一週間。
 部下の掌握に問題無し。上官との関係も円滑。
 ただ、軍医長との私的な会話が目立つとのこと。今後も経過観察をし続けること。以上。

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