香月探偵事務所

山本記代 (元:青瀬 理央)

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第二章 波乱

case07. 束の間の休息

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「お、マオじゃん」

「おー」

 大学の講義室に入るなりマオにそう声を掛けてきたのは、マオの高校時代からの友人であり親友の寺田裕介てらだゆうすけだ。

声を掛けられたマオは、気だるげに片手を挙げながら応える。
裕介は背負っていたリュックサックを下ろしながらマオの隣に座った。

「なんだよ、その顔。まぁたバイト疲れか?」

 机に肘をつきながら裕介がマオに尋ねると、マオはゴン、と音を立てて自身の頭を机に叩きつけた。
驚いた裕介の声に周囲の視線が集まる。

「うおっ! さてはお得意の『猫被り』に限界がきたのか?」

「や、なんか……疲れた」

 言い終わると長い溜め息を吐いたマオに、揶揄うつもりで言った裕介だったが冗談に出来そうにない雰囲気に気付き、以前から言おうか迷っていた事を口にする。

「お前さ……」

「ん?」

「今のバイト、探偵助手だっけ?」

「おー」

「……それ、もう辞めた方が良いんじゃねぇの?」

「…………」

に行き始めてからお前スゲェしんどそうじゃん。今だってめちゃめちゃ疲れてるし。こんなん言うのアレだけど、向いてねぇんじゃね?」

 じっと話を聞いていたマオが、むくりと体を起こして裕介と向き合う。裕介は続ける。

「つうかアレだろ? 探偵って事は殺人事件とか、なんかそういう事件に首突っ込んで解決するっていう危ない仕事なんだろ?」

 黙っていたマオが漸く口を開いた。

「探偵の仕事は殺人事件を解決する事じゃねぇよ。そういうのは警察の管轄だからな。探偵の仕事で多いのは浮気調査とか……つってもまだ俺も一回しかした事ねぇんだけど」

「ふーん。でも、辛いのは辛いんだろ? じゃあやっぱり早いとこ辞めて他探した方が良いんじゃね? どんな感じなんだよ、その探偵事務所って?」

「あー、所長が自己中の代名詞かってくらいヤベェ。なんか……よく今まで一人で生活してたなって思うくらい家事は出来なくてよ」

「何でそんなとこなのに執着すんだよ? 今までのバイトは全部直ぐ辞めてたろ?」

「んー……でも、なんつーの? 放っとけねぇ……的な?」

「お前マジか」

――そういや、事務所の事を人に話すのは初めてだな。

 自然と饒舌になるマオ。
守樹の愚痴や舞子の姉、日奈子が自分の好みのタイプである事等、当たり障りがないよう、かいつまみながら裕介に話す。
裕介は相槌を打ちながらマオの話しに耳を傾ける。

 そして話し終わると、マオの心はスッキリと晴れやかなものに変わっていた。

 このところ、ベルダに振り回されながら浮気調査をしたりと、疲労が溜まっていたのは確かだったが、人に話す事でこうも気持ちが楽になるものかとマオは内心驚いていた。

 既に講義は始まっていたが、マオと裕介は話を続ける。

「でもやっぱ今の話聞く限りじゃ、尚更辞めた方が良い気がすんだけど……大丈夫か?」

 裕介はマオを心配そうに見ながらそう言う。
マオは困った様に笑って答えた。

「まあ……そうだよな……辞めようと思った事だってあるけど、でもやっぱあんな所長でも良いとこはあるしな……顔とか。何より給料が今までのバイトと比べて格段にいいし、そう簡単には辞めれねぇわ。少なくとも在学中はな」

 裕介は呆れた様に溜め息を吐きながら、背凭れに体を預ける。

「……なら別に何も言わねぇけどよ、やっぱイライラする時もあるだろ? そん時は愚痴ろうぜ」

「ん。悪いな」

「そういや、お前何で探偵事務所でバイトなんて始めたんだ? 何気に聞いた事無かったよな」

「言ってなかったか?」



 * * *



――半年前

「おん前、まぁーたバイト辞めたのかよ?」

 大学の中庭で呆れた声を上げるのは裕介だ。

 その言葉を聞くのはもう何度目だろうか、マオは昼食を口に運びながら「んー」と答えた。
立っていた裕介はフッと笑うと、マオの隣に腰を下ろした。

「マジ、何回目だよ。俺結構本気でお前の将来が心配だわ。……よか良いけどよ」

「いんだよ、俺には『猫被り』って特技があんだから」

「いや、それって関係無くね? 履歴書の特技に書くのかよ?」

「……どうにかなんだろ」

「あ、帰んの?」

「うん。お前は?」

「俺は午後からも講義だわ」

「ふーん。俺はもう直ぐタイムセールだから行くわ」

「おー、んじゃなー。あ、そうだ、食いかけのチョコやるよ」

「サンキュー」

 互いに片手を挙げて別れるとマオは最寄り駅に足を進めた。

 駅に着いて改札を抜け、ホームのベンチに腰を下ろす。
相変わらず人が少ない。

 マオは読みかけの小説でも読もうかと思い、リュックサックのジッパーを引っ張る。

 そして小説を掴んだ手を引こうとした時、グウウウウ……という地鳴りの様な怪物の唸り声を思わせる低い音が小さな駅のホームに不気味に響き、マオの手はピタリと止まる。

 謎の恐怖心を掻き立てる音のした方へ顔を向けると、腹部に手をやり、長い溜め息を吐きながら反対側のホームをじっとりと見つめている香月守樹の姿があった。

マオの視線に気付いた守樹は、ジロリと半開きのままの目をマオに向けたが、マオは気まずさから冷や汗を一筋流し、サッと視線を逸らす。

 そして恐る恐る振り返ると、守樹の視線は反対側のホームに戻っており、腹部に当てられていた手は降ろされている。
そして半開き状態だった目は凛としたものに変わっていた。

 真っ直ぐに凝らされた紫色の瞳は澄んでいて、吸い込まれそうな感覚に陥る。

――男か? かっわいい顔してんなぁ。

 などと思いながら取り出したのは、文庫本では無く先程別れ際に裕介に寄越されたチョコレートだった。

――チョコか……。

 再びリュックサックの中に戻そうとすると強い視線を感じて首を捻った。守樹がじっとチョコレートを見つめている。

「…………」

「…………」

 気まずい沈黙が初対面の二人の間に流れる。

――何でそんなに腹減ってんだ?

 疑問に思いながらも、マオはゆっくりとした動作でチョコレートを差し出す。

「……あの、食う?」

「林檎は持ってないのか?」

 初めて聞いた落ち着きのある中性的な声に構わずマオは未だかつて無い衝撃を受けた。

――『林檎は持ってないのか』ァァァァ? どんだけ図々しいんだコイツ! 説教してやろうか……。

「あのさあ、ぅ?」

「私は女だ、口を慎め」

「あ、の、な! 相手が俺だから良いものの変な奴だったりしたら――」

 噛み付きかけた時携帯電話の着信音が鳴り、持ち主の守樹はマオをそっちのけで通話アイコンをタップした。

「……我台か? ああ、いや、まだだ。今日中に裏が取れる筈だが……何? わかった、任せる」

 淡々とした口調で通話を終えると、一度マオをチラリと見た後守樹は踵を返す。
そしてホームから出ようとする守樹を何故か反射的にマオは追い掛ける。
改札を抜けた守樹に釣られてマオもその後に続き、守樹の手首を掴んだ。

「何だ? 刺そうとでも?」

 無意識に引き止めてしまった事にマオ自身が驚いている為、その質問には答えられない。

「や、そうじゃなくて……電車もう来るよ? これ逃したら三十分待たないと次のが来ないから……」

「乗らないが?」

「……そう」

 居た堪れなくなり目が泳ぐマオに対し、守樹は「手を放せ」と何でも無いように言う。

「ごめん」と小さく漏らして放すと、丁度電車が駅に到着したがどちらも一歩も動かない。

守樹はまだしも、何故マオまで立ち尽くしているのか不可解に思い小首を傾げる。

「電車が来た様だが?」

「そうみたいだね」

「妙な男だ。そういう性癖なのか?」

「初対面の男に性癖を尋ねるのは如何なものかと……」

「初対面の女の手を掴む男にそんな道徳を指摘されるとはな」

 なんとなくそのやり取りに笑えたマオは微笑した。

「じゃあ、俺行きます」

 発車した電車の風がマオの長い前髪をふわりと持ち上げ、振り返ろうとしたマオの隠れていた目を露わにする。
守樹はマオの言葉に何も応えない。

マオは段々遠くなる電車をポカンと眺め、無声映画さながらゆっくりと膝を地面に着いた。

「マジ……かよ……」

『タイムセールが』『今日の晩飯が』等と呟くマオを見下ろしていた守樹が口を開いた。

「着いて来るか? に優しい値段のカフェを紹介してやる。夕食はそこで済ませると良い」

「えっ、良いんですか……ていうか、何で俺が大学生だってわかったんです? ちょっと怖い」

「簡単な事だ。この駅は私立大学の最寄り駅で、お前は電車の到着時間、更にその後の到着時間を時刻表も見ずに口にした……日常的にこの駅を利用している証拠だ。

そしてさっきチョコレートを取り出す際に開いたリュックサックの中に数冊のノートが見えた。
それと十代後半又は二十代前半とも見れるその容姿を合わせると、恐らく大学生だろうと推測した」

「へぇ……」

――なんかよく分かんねぇけど怖ぇよコイツ。

「では冴えないルックスのよ、カフェに向かおうか」

「一言余計です。あと俺の名前はマオです、妻渕マオ」

「そうか。ではマオ、行くぞ」

――お前も名乗れや。

 程なくして到着したカフェ、パレットの印象は『静かで店長が可愛い』だ。
 人通りの少ない狭い路地に位置するこのビルは穴場だな、とマオは内心喜んだ。

高校生や大学生の溜まり場とするなら打って付けの店だ。
今度裕介でも連れて来ようかと考えたが、静かな空間を好むマオとしてはこの穴場を誰にも教えたくないと思い、パレットの事はそっと胸に秘めるのだった。

「守樹、誰かと一緒なんて珍しいじゃない。もしかして依頼者さん?」

 舞子がにこやかに尋ねると守樹は「いや」と首を振る。
それを聞いた舞子は物凄い衝撃を受けた様に一歩後ろに下がる。
危うく拭いていたティーカップを落とすところだった。

「え、な、それじゃ何? も、もしかして、お、お、お友達?」

「違う」

「……彼氏?」

「違う」

「じゃあ、だあれ?」

「マオだ」

「そう、マオ君」

「あ、妻渕マオです。電車逃がしてスーパーのタイムセールに間に合わなくて、偶然居合わせた……えっと、スナサン? に、ここを紹介して頂きました」

「あらあら、守樹ったらお名前お教えしてないの? 失礼な子。マオ君、ごめんね。この子は香月守樹、十九歳よ。私は幼馴染みの音原舞子、二十一歳。どうぞお好きなもの食べて行って」

「あ、俺も二十一なんです」

「わあ! そうなんだ! なんだか親近感が湧くわね。あ、これ今度の新メニューにしようと思ってるアセロラパイなの。苦手じゃなかったら味見してもらえるかしら? 自分じゃどうしても評価が甘くなっちゃって……」

「え、良いんですか?」

「勿論! 食べきれなかったら持って帰ってね。私が食べても良いんだけど、ちょっとこの所食べ過ぎだからセーブしなきゃ」

 悪戯っぽく舌を出して笑った舞子に一瞬、マオの心臓が跳ねた。

「ありがとうございます、頂きます」

 酸味が強いアセロラだが、口いっぱいに広がったのは程良い酸味と優しい甘さだった。
マオが「とても美味しいです、さっぱりしてて」と微笑むと、舞子も「良かった」と微笑み返した。

「舞子、林檎」

「はいはい」

 守樹のオーダーに、舞子は困った様に笑うと手早く支度を始めた。
それをカウンター越しに眺めながら守樹は口を開く。

「マオ」

「ハイ?」

「お前料理は得意か?」

「うーん、どうだろ? 人並みには多分出来ると思います」

「掃除と洗濯は?」

「一人暮らしだからある程度は出来ますけど、得意ではないですね。適当だから縮ませちゃったり……」

「接客は?」

「それなりに……って言っても、今までの接客系のバイトは全部直ぐに辞めちゃったんですけどね。お陰で今カツカツですよ、自業自得なんですけどね」

 眉を下げて笑うマオに放った守樹の一言は、マオがこれまで歩んできた人生の中で最も印象に残るものだった。

「じゃあ明日からこのカフェの二階に来い。お前の明日からのバイト先だ」

「あ、わかりました。……ハァ?」

「ちょっと守樹! 突然何言い出すの! まさかと思ってたけど、面接?」

「そのつもりだが?」

「ダメよ! 何勝手に話し進めてるの。どんな仕事かも説明しないで、ましてマオ君が勤めてくれるとも言ってないでしょ? 自分勝手な我儘ばかり言ってるとその内痛い目見るわよ?」

 まるで母親の様にそう言う舞子に、守樹は聞く耳持たずにフンと鼻を鳴らした。

――こんな事なら、やっぱ三十分待ってでも帰りゃ良かった……。

 マオは深い溜め息を吐いた。

「マオ、私の構える探偵事務所に来い。給料は弾むぞ」

「探偵! 守樹サンて探偵なの?」

「ああ。だが私一人だからな、人手が欲しいところだ」

「……あの、お給料ってどのくらい?」

「いくら必要なんだ?」

「あ、いえ、仕送りもあるので生活には困っていないんですけど。ヴァイオリンが趣味で……結構良いものだからちゃんとしたくて……手入れとかにお金が掛かって……あとは他の趣味とか食費なんですけど……」

「ほう……ヴァイオリンが趣味か。それは良い。では月給三十万でどうだ?」

「え、そんなに! どうしよう……少しだけ時間を頂く事は可能ですか?」

――月給って事は割に合わねぇ仕事か?

「わかった、明日中に連絡を寄越せ」

 そう言って守樹は名刺を片手でマオに手渡した。
何故か舞子が申し訳なさそうな表情を浮かべている。

「マオ君、なんだか無理ばかり言ってごめんね」

――確かに明日中は早過ぎるな。

 そう思ったマオだったが、その日の帰宅後ドイツ製のヴァイオリンを弾きながらやはり雇ってもらおうと決意し、翌日早朝から寝起きで機嫌の悪い守樹にその旨を伝えるのだった。

 マオが事務所の散らかり様を見て絶句するのはもう少し先の話しだ。



 * * *



 言い終わった時、窓側の席に座っていたマオがふと外を見ると、中庭のベンチに居る筈の無い人物が腰掛けているのが目に入った。

――……え、は? 嘘だろ? あ、幻覚?

 少し混乱しながら目を擦るマオ。
その手の速度はどんどん速くなり、力は強くなる。

そんなマオを見ていた裕介が「流石に擦り過ぎだろ」と焦りながら止めると、同じ様に外を覗く。

「何見てそんな動揺してんだよ? え、誰アレ? って、ちょ、マオ! ドコ行くんだよ! あ、スンマセン! ちょい便所っす!」

 講義室を慌てて飛び出したマオを、青筋を浮かべる教授に詫びながら裕介が追い掛けた。



 * * *



「守樹サン!」

 猛ダッシュで中庭へ駆け込んだマオが大声を上げた。

 ベンチで優雅に読書をしていた守樹が「やっと来たか」と顔を上げ、「遅い」と文句を垂れる。

「いやいやいや、どうしたの? 何で大学ここに? まさか守樹サン生徒?」

「そんな訳無いだろう、バカが」

「すみません」

「じゃあ何で?」そう聞こうとした時、マオは後ろから足音がしたのに気付いて振り返ると、其処には息を切らせた裕介が居た。

「裕介! 追い掛けて来たのか?」

「や、ウン。何か勢いで」

「マオ、事務所に行くぞ」

「今から!?」

 守樹の突然の申し出に驚くマオ。
裕介はちょいちょいと肘でマオをつついた。

「なあマオ、もしかしてが?」

「あ? ああ、そう。さっき言ってた所長」

「マジかよ! めちゃめちゃ可愛いじゃねぇか!」

 つい先程まで散々「辞めろ」だのと言っていた筈の裕介が目の色を変えた。

――めちゃめちゃ可愛い? 誰の事言ってんだ?

 そう思いながらマオは守樹に裕介を紹介する。

「守樹サン、こっちは友達の――」

って言うの? めちゃめちゃ可愛いね! 俺は寺田裕介。寺ちゃんって呼んでネ! あ、別に裕ちゃんでも良いよ!」

「おい、お前さっきの話し覚えてる?」

「悪いなマオ。俺、過去は振り返らない主義なんだ。ていうかお前、こんな可愛い子が所長ならもっと早く言えよなぁ! あ、守樹ちゃん、良かったら電話番号教えてくれる?」

――ホント女絡むとダメだなコイツ。

 目を輝かせる裕介に、守樹が鬱陶しそうに言う。

「生憎私は携帯電話を持っていない。だからこうして助手が通う大学に直接足を運んだんだ」

――嘘吐いてんじゃねぇよ。つうかそんな嘘、よっぽどの馬鹿しか騙されねぇだろ。

「あっ、そうなんだ、ざんねーん。でもさ、携帯持ってないって今時珍しいよね。買ったら絶対教えてね!」

「ああ」

――……よっぽどの馬鹿ってのは意外と身近に居るんだな。

 守樹はくるりと踵を返す。

「マオ、帰るぞ」

「え、それって本気のやつですか?」

「当たり前だろう、行くぞ」

「ハイ」

――……もしかしてベルダの事で何か進展があったのか? ここじゃ話せないから事務所に……ありえるな。



 * * *



 事務所に着くとドサッと守樹はソファに腰掛け、テーブルに置いてあるヴァイオリンを差した。
ドイツ製のクラウス・へフラー――愛称はルーシー――。これはマオの所有物だ。
幼少の頃からヴァイオリンを習っていたマオは、現在も趣味として続けている。

そして自宅に居るよりも事務所に居る事の方が多い為、守樹に許可を得て置いている。

「弾け」

「へ?」

「『弾け』と言ったんだ」

「は、はい」

 戸惑いながらも長年愛用しているクラウス・へフラーを手に取り、弓を引いて音の具合を確かめて演奏を始める。

 守樹は全身で音を感じる様に目を閉じていたが、やがてゆっくりと瞼を開けて先程まで読んでいた小説を開いて目を落とした。

 四十分程弾いていたマオが手を止めた。

「守樹サン、ベルダの事何か進展があったの?」

「いや?」

「じゃあ、どうしてわざわざ大学へ?」

「…………」

「……もしかして、ただヴァイオリンが聴きたかっただけ?」

「悪いか?」

「……いえ、お気に召して頂いている様で良かったです」

 口ではそう言いながら、おかげで講義を受け損ねたマオは心の中で悪態をつく。

――放っときゃ良かった。

「マオ、続きを」

「守樹サン、俺四十分も弾いたからちょっと休ませて」

「早くしろ」

「ハイ。……ていうか守樹サン、給料発生します?」

「する訳無いだろ」

――立派なブラックバイトだ。開き直り過ぎだろ。



 * * *



 暫くしてヴァイオリンの演奏を終えたマオ携帯電話を確認すると、一通のメッセージを受信していたことに気付く。裕介からだ。

《よ! 今からお前の探偵事務所に遊びに行って良いか?》

 マオは慣れた手つきで返信する。

《何でだよ、来んな》

《良いじゃん! 俺もすなちゃんに会いたい》

《遊び場じゃねぇんだよ》

ってか?》

《面白くねえよ。とりあえず来んな》

《たーのーむーよー!》

「……しつけぇ」

 思わず口に出してしまったマオは、ハッとして口元に手を当てる。
チラリと守樹を見ると目が合った。

「何だ?」

「寺田ですよ」

「ああ、か」

 普段の守樹から似つかわしくない呼び方に、マオは全身の毛が逆立つのを感じた。

――気色悪い。

「で? 寺ちゃんがどうした?」

「あー、何か守樹サンの事が気に入ってるみたいで、事務所に遊びに来たいって……勿論断ってるんですけど、中々しつこくて……」

パレットしたなら構わん、呼んでやれ」

「え?」

「事務所はれるなよ」

――……もしかして満更でもないのか?

 そう思いながらマオは再びメッセージ画面を開くのだった。



 * * *



 午後三時五十分、守樹とマオはパレットで裕介の到着を待っていた。

《もうすぐ着く》

「守樹サン、寺田が『もうすぐ着く』って」

「そうか」

 舞子が不思議そうに首を傾げる。

「珍しいわね、守樹が誰かと待ち合わせなんて……」

「まあな」

「ていうか守樹サン、良いの? 事務所放ったらかしだけど」

「ベルダの件が片付くまで臨時休業にしてある。お前も当分はボランティア助手だな」

「えっ! 何それ!?」

「冗談だ」

「冗談に聞こえる冗談を言ってよ」

――つうかお前冗談とか言うんだな。

 ほっと胸を撫で下ろしたマオだが、二度目の衝撃を受ける。

「臨時休業の方は事実だ」

「ええ! な、何で?」

「何度も言わせるな、ベルダの件が片付くまでだ。二つも三つも依頼が重なるとややこしいだろう。ただでさえ人手不足なのに捌き切れるわけがない」

「え、いや、うん、わかるけどさ……」

――それはお前の人格が……って、自分を客観視出来ないことほど怖ぇ事って無ぇな。

 その時、パレットの扉が開く音と同時に、「守樹ちゃーん! お待たせー!」という陽気な声が聞こえ、振り返ると案の定そこにはヘラヘラと鼻の下を伸ばして笑う裕介が居た。
足元には保育園服を纏った幼い女児。

結奈ゆな迎えに行ってたのか」

「そうなんだよ、姉ちゃんが忙しくてなー。結奈、挨拶は?」

 人見知りの結奈は叔父にあたる裕介の後ろに隠れ、おずおずと顔を覗かせながら守樹と舞子に手を振る。

「……こんにちわ、宮崎結奈みやざきゆなです、四歳です」

 マオが恥ずかしがる結奈を抱き上げながら、守樹と舞子に紹介する。

「この子はのお姉さんの娘なんです。舞子さん、こっちは俺の友達の寺田裕介です」

「初めまして寺田君、音原舞子です」

 柔らかく微笑んで挨拶をした舞子に、裕介の心臓が跳ねた。
そしてカウンター越しに舞子の両手を自身のそれで包み込む様に握る。

「舞子さん! 素敵な方ですね、俺の事は寺ちゃんって呼んで下さい! もしくは裕ちゃん、と!」

 目移りの激しい裕介を呆れた目でマオが見ていると、おもむろに守樹が立ち上がった。

「守樹サン?」

「帰るぞ」

「え?」



 守樹はそう言いながら舞子と裕介を横目で見る。
マオは全身に寒気を感じた。

「……守樹サン、もしかしてわざとパレットへ呼び出したの?」

「鬱陶しいのは御免だからな。は他に目移りしない限りかなり執拗いだろうからな」

――怖過ぎる。

「帰るぞ、マオ」

「あ、はい。……じゃあテラ、俺ら帰るから」

「おう! じゃあな! 俺はお茶してから帰るわ! 守樹ちゃん、またねー!」

 守樹は何も答えず、マオは呆れながらパレットを出ようとすると、くん、と守樹が後ろに引かれた。
見ると上目遣いに守樹の服の裾を引っ張る結奈が居た。

――うわぁ、コイツ子供似合わねぇ……。子供似合わねぇ女とかマジで居んだぁ……。

「お姉ちゃん、帰るの?」

「ああ、子供は嫌いだしな」

 その言葉に慌てたマオが咄嗟に守樹の口を塞ぐと、耳元で咎める様に小声を漏らす。

「ちょっ! なんて事言ってんの守樹サン!」

「事実だ」

「結奈が何かしたなら仕方ないけど、それはダメだよ!」

 鼻を啜る音が二人の鼓膜を揺らす。
守樹は相変わらず真顔で、マオはタラリと汗を流しながら結奈を見ると結奈は肩を震わせ、涙と鼻水を垂らしていた。
舞子と裕介も黙って様子を伺っている。

「ちょっ、ゆ、結奈? だ、大丈夫か? ほらもう守樹サン! 謝ってください!」

「これだから子供は嫌いだ。泣けば済むと思って――」

「守樹サン!」

「……悪かった」

 目を逸らしながら拗ねた様に唇を尖らせて謝る守樹に結奈は首を左右に振ると、顔を上げてふんわり笑った。
そんな結奈の様子に守樹は戸惑いの表情を浮かべる。

「あのね、がある時は泣いても良いから言いなさいってママが言ってたよ」

 その言葉に、守樹はキョトンとした顔で聞き返す。

「……は?」

「お姉ちゃん、何処か痛いんでしょ?」

「いや、痛くないが?」

「でもがしょぼしょぼ」

「……寝不足だ。帰るぞマオ」

 踵を返す守樹の後をマオが追う。

――お前の『寝不足』は絶対嘘だ。

 マオが扉を開け守樹が外に一歩踏み出した時、立ち竦む結奈を振り返ると守樹は少し嬉しそうに笑った。

「結奈、またいつでも来ると良い。歓迎する」

 そう言って守樹は結奈に向かって名刺を指でピンと跳ねさせた。
上手く手元に収まった名刺に目を落とした後、嬉しそうな表情で結奈は声を上げた。

「いいの? ありがとう! バイバイ!」

「いや、

 その後結奈が扉を見つめて満面の笑みを浮かべていた事など、既に店を出てしまっていた守樹とマオは知る由もなかった。

が出来て良かったわね、守樹」

 結奈の小さな後ろ姿を見つめて舞子はそう呟くのだった。
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