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Episode1:思いがけない再会
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客室の空気は,不自然なほどに乾燥している。
私の喉の奥をかすめるのは,高性能なフィルターを通された無機質な酸素と,わずかに混じる機内食のコーヒーの残り香。
そして,私自身の肌から揮発していく残り香だけだ。
私は「完璧な聖女」であることを自らに課してきた。
一糸乱れぬシニヨン,シワ一つない紺碧の制服,そして何があっても崩れないマニュアル通りの微笑。
この翼は,私の誇りであり,同時に外界から私を守るための強固な「武装」でもあった。
ジェットエンジンの排気音が,機体に微かな振動を与え続けている。
私はギャレーで一度だけ深く呼吸をし,冷たい鏡に映る自分を見つめた。
よし,大丈夫。私は完璧。
そう言い聞かせて,私はビジネスクラスの通路へと足を踏み出した。
====================
ビジネスクラスの乗客リストにその名を見つけた瞬間,私の世界の均衡は音を立てて崩れ去った。
INOUE KOUHEI。
3Aの座席に座る男性。
彼を目にした瞬間,私の記憶の底から強烈な「塩素の匂い」が立ち上った。
井上航平。十年前,私が通っていた高校の水泳部で「後輩」だった少年。
かつての,おどおどとしていた面影は,今や洗練された大人の風格に上書きされている。
スーツを完璧に着こなし,窓の外を眺める横顔。
私は,彼がINOUE KOUHEIという名のあどけなかった後輩であると確信している。
対して,彼はどうだろうか。
目の前で機内サービスを提供する「斉藤」という名札をつけた私が,かつての先輩であることに気づいている様子はない。
私はわざと,完璧なプロとしての微笑みを張り付かせた。
「失礼いたします。お飲み物はいかがでしょうか,イノウエ様」
彼は私を見上げた。その瞳に,かつての憧憬や動揺の色はない。
まるで初対面の相手に対するような,洗練された,けれど無機質な視線だ。
「ああ,ありがとうございます。オレンジジュースをいただけますか」
「かしこまりました」
高校時代の,あの放課後のプールサイドにいた少年は,今の彼の中には存在しないかのようだった。
彼は当時,私に隠しきれない片想いをしていた。
練習中も,私を視線で追ってはその熱に耐えかねたように目を逸らす。
私はその初々しい恋心に気づきながら,あえて気づかないふりを通し,「完璧な先輩」として君臨し続けた。
その彼は機内でオレンジジュースを頼み,子供のように後悔した顔を見せ,不慣れな機内エンターテインメントに翻弄されていた。
かつて私の前で見せていたあの「無防備さ」を再び垣間見た。
今の洗練された彼の内側にまだ息づいている喜び。
それを確かめると,私は言いようのない懐かしさと好感に似た感情に満たされた。
私はギャレーで,彼が書いている入国管理カードを「完璧な目配り」で盗み見た。
宿泊先。
滞在期間。
彼がパリのどこで眠り,どこを歩くのか。
その情報はすべて私の手の中に収まった。
私の喉の奥をかすめるのは,高性能なフィルターを通された無機質な酸素と,わずかに混じる機内食のコーヒーの残り香。
そして,私自身の肌から揮発していく残り香だけだ。
私は「完璧な聖女」であることを自らに課してきた。
一糸乱れぬシニヨン,シワ一つない紺碧の制服,そして何があっても崩れないマニュアル通りの微笑。
この翼は,私の誇りであり,同時に外界から私を守るための強固な「武装」でもあった。
ジェットエンジンの排気音が,機体に微かな振動を与え続けている。
私はギャレーで一度だけ深く呼吸をし,冷たい鏡に映る自分を見つめた。
よし,大丈夫。私は完璧。
そう言い聞かせて,私はビジネスクラスの通路へと足を踏み出した。
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ビジネスクラスの乗客リストにその名を見つけた瞬間,私の世界の均衡は音を立てて崩れ去った。
INOUE KOUHEI。
3Aの座席に座る男性。
彼を目にした瞬間,私の記憶の底から強烈な「塩素の匂い」が立ち上った。
井上航平。十年前,私が通っていた高校の水泳部で「後輩」だった少年。
かつての,おどおどとしていた面影は,今や洗練された大人の風格に上書きされている。
スーツを完璧に着こなし,窓の外を眺める横顔。
私は,彼がINOUE KOUHEIという名のあどけなかった後輩であると確信している。
対して,彼はどうだろうか。
目の前で機内サービスを提供する「斉藤」という名札をつけた私が,かつての先輩であることに気づいている様子はない。
私はわざと,完璧なプロとしての微笑みを張り付かせた。
「失礼いたします。お飲み物はいかがでしょうか,イノウエ様」
彼は私を見上げた。その瞳に,かつての憧憬や動揺の色はない。
まるで初対面の相手に対するような,洗練された,けれど無機質な視線だ。
「ああ,ありがとうございます。オレンジジュースをいただけますか」
「かしこまりました」
高校時代の,あの放課後のプールサイドにいた少年は,今の彼の中には存在しないかのようだった。
彼は当時,私に隠しきれない片想いをしていた。
練習中も,私を視線で追ってはその熱に耐えかねたように目を逸らす。
私はその初々しい恋心に気づきながら,あえて気づかないふりを通し,「完璧な先輩」として君臨し続けた。
その彼は機内でオレンジジュースを頼み,子供のように後悔した顔を見せ,不慣れな機内エンターテインメントに翻弄されていた。
かつて私の前で見せていたあの「無防備さ」を再び垣間見た。
今の洗練された彼の内側にまだ息づいている喜び。
それを確かめると,私は言いようのない懐かしさと好感に似た感情に満たされた。
私はギャレーで,彼が書いている入国管理カードを「完璧な目配り」で盗み見た。
宿泊先。
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彼がパリのどこで眠り,どこを歩くのか。
その情報はすべて私の手の中に収まった。
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