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Episode2:『秘密』のメモ
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機内が減光され,静寂が通路を包み込む。
ビジネスクラスの乗客たちの多くが,フルフラットにしたシートで深い眠りに落ちていた。
けれど,3Aのシートに座る「彼」だけは違った。私はギャレーのカーテンの隙間から,そっと彼を観察していた。
彼は英語字幕しかない映画に悪戦苦闘し,やがて睡魔に負けて首を不自然に曲げたまま眠りについてしまった。
「……ふふ,相変わらずね」
十年前の彼と,重なる。
私は思わず,ブランケットを掛け直してあげようかと一歩踏み出し,プロとしての自制心で踏みとどまった。
しばらくして目を覚ました彼は,首を痛そうにさすりながら,ガイドブックを捲り始めた。
パサッ,パサッという紙の音。目的地も定まらず,所在なげに指を滑らせる彼。
(……どこに行けばいいか,迷っているのかしら)
私は少しだけ,彼を助けてあげたいと思った。
それが高校の「先輩」としての情なのか,一人の客室乗務員としてのホスピタリティなのか,自分でも判然としないまま,私は彼の背後に歩み寄った。
「明日は,観光ですか」
囁くような小声。
彼は弾かれたように顔を上げた。
「……あ,ええ。でもどこに行ったらいいか,わからなくて」
困り果てたような,情けないけれど放っておけない顔。
私は彼のガイドブックのページを覗き込み,ふと目に留まった写真を指差した。
「ここなんか,いいと思いますよ。ノートルダム大聖堂。パリに来たなら,一度は見ておくべき場所です」
チラリと見上げた彼の瞳が,私の顔を眩しそうに見つめる。
その直球の視線に,私は胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。
十年前の夏。
プールサイド。
彼はいつも,私に対して隠しきれない好意を抱いていた。
練習中にふと目が合えば慌てて潜り,私がアドバイスをすれば耳まで真っ赤にする。
部員全員が気づいていたかもしれない彼の「片想い」。
私はそれを知りながら,あえて気づかないふりをし続けていた。
彼にとっての「完璧で手の届かない先輩」であり続けることが,私のプライベートなプライドだったから。
彼が無垢な憧れを向けてくるたび,私は少しだけ彼を突き放し,少しだけ優しくして,その反応を愉しんでいた。
けれど今,目の前にいる彼は,かつての少年の面影を残しながらも,一人の男として私に問いかけてくる。
「あの…,一緒に行きませんか」
一瞬,息が止まった。胸の奥がトクンと跳ねる。
「……え?」
「あ,いや,すみません。つい……」
慌てて取り消そうとする彼を見て,私はわざといたずらっぽく笑おうとしたけれど,口から出たのはマニュアル通りの言葉だった。
「私どもは,お客さまとプライベートではお会いできない規則なんです」
ごめんなさい,と心の中で呟く。
彼の顔から一気に血の気が引き,肩を落とす。
そんなに落ち込まなくてもいいのに。
規則は規則。
でも,それ以上に,私は怖かったのかもしれない。
十年前,彼の片想いに気づかないふりをして逃げた私が,今さら「一人の女性」として彼と向き合うことに。
その後,彼は目に見えて落ち込んでしまった。
水一杯を頼むことさえ遠慮して,自分でギャレーまで足を運ぶ。
私の姿を探しながらも,目が合いそうになると慌てて俯く彼。
「……そんなに気にしなくてもいいのに」
申し訳なさと,それ以上に,彼をこのまま終わらせたくないという衝動が,私の中で膨らんでいった。
十年前,私は彼の想いを受け止めることができなかった。
でも,このパリの空の上で,もう一度彼が私を見つけてくれたのなら。
最後の機内食。
私はトレイを準備しながら,迷い続けていた。
ポケットの中に忍ばせた,小さなメモ用紙。
そこに,私のプライベートな番号と,イニシャルを書き込む。
『明日の朝,大聖堂の前』
彼に食事を出す際,私は周囲の目を気にしながら,器の下にそのメモを滑り込ませた。
彼がそれに気づき,慌ててメモを隠し,顔を真っ赤にして私を見上げる。
私はあえて視線を合わせず,軽く会釈をして立ち去った。
航平君。
あなたはまだ,私が誰か気づいていないかもしれないけれど。
かつてあなたの片想いに気づかないふりをした「先輩」の,これが最後で最初のアプローチよ。
パリの夜明けとともに,私たちの「続き」を始めましょう。
窓の外には,朝焼けが見え始めていた。
ビジネスクラスの乗客たちの多くが,フルフラットにしたシートで深い眠りに落ちていた。
けれど,3Aのシートに座る「彼」だけは違った。私はギャレーのカーテンの隙間から,そっと彼を観察していた。
彼は英語字幕しかない映画に悪戦苦闘し,やがて睡魔に負けて首を不自然に曲げたまま眠りについてしまった。
「……ふふ,相変わらずね」
十年前の彼と,重なる。
私は思わず,ブランケットを掛け直してあげようかと一歩踏み出し,プロとしての自制心で踏みとどまった。
しばらくして目を覚ました彼は,首を痛そうにさすりながら,ガイドブックを捲り始めた。
パサッ,パサッという紙の音。目的地も定まらず,所在なげに指を滑らせる彼。
(……どこに行けばいいか,迷っているのかしら)
私は少しだけ,彼を助けてあげたいと思った。
それが高校の「先輩」としての情なのか,一人の客室乗務員としてのホスピタリティなのか,自分でも判然としないまま,私は彼の背後に歩み寄った。
「明日は,観光ですか」
囁くような小声。
彼は弾かれたように顔を上げた。
「……あ,ええ。でもどこに行ったらいいか,わからなくて」
困り果てたような,情けないけれど放っておけない顔。
私は彼のガイドブックのページを覗き込み,ふと目に留まった写真を指差した。
「ここなんか,いいと思いますよ。ノートルダム大聖堂。パリに来たなら,一度は見ておくべき場所です」
チラリと見上げた彼の瞳が,私の顔を眩しそうに見つめる。
その直球の視線に,私は胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。
十年前の夏。
プールサイド。
彼はいつも,私に対して隠しきれない好意を抱いていた。
練習中にふと目が合えば慌てて潜り,私がアドバイスをすれば耳まで真っ赤にする。
部員全員が気づいていたかもしれない彼の「片想い」。
私はそれを知りながら,あえて気づかないふりをし続けていた。
彼にとっての「完璧で手の届かない先輩」であり続けることが,私のプライベートなプライドだったから。
彼が無垢な憧れを向けてくるたび,私は少しだけ彼を突き放し,少しだけ優しくして,その反応を愉しんでいた。
けれど今,目の前にいる彼は,かつての少年の面影を残しながらも,一人の男として私に問いかけてくる。
「あの…,一緒に行きませんか」
一瞬,息が止まった。胸の奥がトクンと跳ねる。
「……え?」
「あ,いや,すみません。つい……」
慌てて取り消そうとする彼を見て,私はわざといたずらっぽく笑おうとしたけれど,口から出たのはマニュアル通りの言葉だった。
「私どもは,お客さまとプライベートではお会いできない規則なんです」
ごめんなさい,と心の中で呟く。
彼の顔から一気に血の気が引き,肩を落とす。
そんなに落ち込まなくてもいいのに。
規則は規則。
でも,それ以上に,私は怖かったのかもしれない。
十年前,彼の片想いに気づかないふりをして逃げた私が,今さら「一人の女性」として彼と向き合うことに。
その後,彼は目に見えて落ち込んでしまった。
水一杯を頼むことさえ遠慮して,自分でギャレーまで足を運ぶ。
私の姿を探しながらも,目が合いそうになると慌てて俯く彼。
「……そんなに気にしなくてもいいのに」
申し訳なさと,それ以上に,彼をこのまま終わらせたくないという衝動が,私の中で膨らんでいった。
十年前,私は彼の想いを受け止めることができなかった。
でも,このパリの空の上で,もう一度彼が私を見つけてくれたのなら。
最後の機内食。
私はトレイを準備しながら,迷い続けていた。
ポケットの中に忍ばせた,小さなメモ用紙。
そこに,私のプライベートな番号と,イニシャルを書き込む。
『明日の朝,大聖堂の前』
彼に食事を出す際,私は周囲の目を気にしながら,器の下にそのメモを滑り込ませた。
彼がそれに気づき,慌ててメモを隠し,顔を真っ赤にして私を見上げる。
私はあえて視線を合わせず,軽く会釈をして立ち去った。
航平君。
あなたはまだ,私が誰か気づいていないかもしれないけれど。
かつてあなたの片想いに気づかないふりをした「先輩」の,これが最後で最初のアプローチよ。
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窓の外には,朝焼けが見え始めていた。
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