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第一章
まるで手負いの獣
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さきほどから背中と大腿が痛くてたまらない。
ザバァと湯桶に汲んだ湯を流す音。
やめて。そんなに湯をかけては痛い。背中と大腿が痛くてたまらない。
「………うっ」
喉から苦痛のうめき声が漏れ、その自分の声が聞こえてルカは目を開いた。
とたん目に飛び込んだのは、キラキラ光る金色の髪。なぜか目は閉じている。紺色の軍服は一旦意識を取り戻したときに見たものと同じだ。林で意識を失う直前に見たキラキラ光る髪といい、ずっと同じ男に拘束されているようだ。
「あら、気がついたの?」
女性の声にルカはそちらに顔を向けた。髪をひっつめて一つにまとめ、腕まくりをして湯桶を持っている。
今ひとつ状況がわからない。
きょとんとした顔で自分を横抱きに抱える軍服の男の顔と、女性の顔とを交互に見る。
胸元に手をやると、平らな胸に手が触れた。驚いて自分の体を見ると真っ裸だ。
女性の後ろに白衣を着た年配の男がいる。
あれは、月に一度ルカを診察する医師と同じ格好だ。裸の自分と医師の姿に、ルカは青ざめた。
「……診察はいやだ。……怖い」
やはり自分は王宮騎士団に捕まったのだ。一生懸命逃げたのに。あんなにがんばったのに。
捕まって、意識をなくしている間に王宮に連れ戻され、夜伽の準備の湯浴みをさせられ、その上診察までされるのだ。
「放せっ! いやだ! 放して!」
ルカは暴れた。軍服の男の胸を両腕で思いきり押す。男が驚いたように目を開いた。腕から逃れられたと思ったが、軍服の男はルカを抱く腕に力を込めてくる。
胸をぴったりと軍服に押し付け、ルカを縦抱きにすると肩と腰に腕をまわして拘束する。かなり大柄な男だ。膝立ちした男とルカは同じ高さだ。胸にルカがすっぽりとおさまる。
「やめて……。放して…。……っく」
痛みと朦朧とする意識に自然と涙が浮かぶ。自分を拘束する男を見上げれば、碧眼の澄んだ瞳と目が合った。
「暴れるな。傷口が開くぞ」
まるで気遣うような言葉が男の口から出た。
「そうですわ。動いたら危ないですわよ」
傍らにいた女性もルカを宥めるような言葉をかけてきたが、そんなものは知らない。
「放せっ……。いやだ」
足をバタバタさせ、手を無茶苦茶に振り回した。自分を抱きかかえる男の顔を、爪を立てて引っ掻いた。
「きゃっ! ユリウス様大丈夫ですか?!」
女性の口から悲鳴に近い声が上がる。頬の傷を確かめようとしたのだろう。女性がこちらに手を伸ばしてくる。迫ってくる手が、今にもルカをつかみそうで反射的に目を瞑った。
「大丈夫だ。騒ぐな。手当もいらない。かすり傷だ。大きな声を出せばこいつが余計に怖がる」
こいつ? こいつってわたしのことか。
恐る恐る目を開けば、男の頬にくっきりとついた爪の跡。血が滲み出している。
希少種の奴隷のくせに騎士に傷を負わせて、ただではすまない。逃げたくて無我夢中でやったこととはいえ、浅はかだった。また短鞭で打たれるかもしれない。
「……ごめんなさい。……ごめんなさい」
ルカは震えながら謝った。短鞭は嫌だ。診察も怖い。
許してもらえるだろうか。たぶん許してはもらえない。何回打たれれば許してもらえるだろうか。何回耐えれば終わるだろうか。
懇願するようにユリウスと呼ばれた男を見上げる。ユリウスは暴れるのをやめたルカに、抱く腕の力を緩めた。
「これくらい大丈夫だ。悪かった。謝らんでいい。お前こそ目を覚ましたら裸で驚いたろう? あまりに汚れていたので洗ってやろうとしただけだ。それに何を怖がっているのか知らんが、診察といっても傷の手当をするだけだ。それでも怖いのか?」
「傷の手当…….?」
ああ、そうか。傷の手当てをして王の御前に連れて行かれるのか。
「終わったら夜伽に連れてかれるの?」
ルカの言葉に女性が息を呑んで口を抑えた。白衣の男も眉をしかめる。
「いや。夜伽なんかしなくていい。何か勘違いしていないか? ここをどこだと思っている」
「ここは、王宮でしょ? だって捕まった」
「王宮から逃げてきたのか?」
ユリウスが息をのむ。
なにがそんなに不思議なのだろう。
「王都からここまで馬で早駆けしても三日はかかる。その距離を歩いてきたのか? 裸足で。信じられんな」
「じゃあ、ここは王宮じゃないの?」
「ここは北のモント領だ」
「北……」
ならばルカは正しく北へ向かえていたのか。
「バッケル国の?」
「聖バッケル国の領土内かという意味ならそうだ」
絶望的な吐息がルカの口から漏れた。
もしかしたらもう隣国に入っているといい。そんな希望的観測は見事に打ち破られる。
捕まった。国を出る前に捕まってしまった。この人たちが誰なのか。そんなことは知らない。でも王に逆らえる人なんてこの国にはいない。ルカを洗おうとするのも、傷の手当ても、ルカを王宮に返すためにやっているのだろう。
「……王宮には帰りたくない。帰りたくないよ。帰るのはいやだ」
ルカは両手でユリウスの胸を叩いた。
「湯浴みも傷の手当もいらない。放して」
傷が痛んだがそんなことに構ってはいられない。目の前の軍服のボタンを引き千切り、ユリウスの腕に歯を立てて噛みついた。
「まるで手負いの獣のようだな。ほら大人しくしろ。誰もおまえを王宮に返すとは言ってない。こら噛むな。落ち着け」
ルカが噛み付いても暴れてもユリウスは怒らない。
むしろ暴れても落ちないよう、しっかりとルカを抱きかかえている。しかも背中と大腿の傷に触れないように。
そういえば自分は裸だったと今更ながら思い出す。ユリウスの頑健な腕が、肩と腰に直接触れている。
わけもなくまた怖くなり、ルカは暴れるのをやめた。というより、もう手足を動かす力も残っていなかった。
「全く。無駄な体力を消耗するだけだぞ。リサ、もういいか? これ以上の湯浴みは体に負担がかかるだけだ」
「はい。ようございます。もうほとんど洗い終わっておりましたので」
リサと呼ばれたひっつめ髪の女性が答えると、ユリウスがそっとその場にルカを下ろした。が、タイルに足裏の傷が当たり、ルカは膝から崩れた。それを慌ててユリウスが支える。ルカの両脇に手を差し入れて持ち上げた。
「悪い。足の裏の怪我を忘れていた。もう暴れるなよ? リサ、早く拭いてやってくれ」
ユリウスはルカの体をなるべく見ないようにと顔を背け、目を閉じた。
リサは大きなタオルでそっとルカを包み込んだ。頭をがしがしと拭かれ、ルカはむぅっと口と目を閉じた。
「大丈夫ですよ。拭いているだけです。傷口だけちょっと我慢してね」
リサはことさら傷口には慎重に触れた。
「さぁ。もういいですよ」
リサはルカの全身をタオルで包み、「目を開けてもいいですわよ」とユリウスに言う。
ユリウスは目を開けるとルカを籐椅子に浅く腰掛けさせた。
「少し待っててくれ。着替えてくる」
ユリウスはそう言って浴場を出ていったと思ったら、またすぐに戻ってきた。今度は軍服ではなく、白いシャツにトラウザーズだ。
「次は傷の手当てだな」
ユリウスはタオルにくるまったままのルカを持ち上げると片腕にのせ、「つかまっていろ」と両腕を首にまわさせる。
器用に傷口に触れないようルカを抱きかかえたユリウスの太い首に、ルカは言われた通りに抱きついた。
ユリウスが動くたび、金糸のような髪がさらさらと頬にあたる。まるで頬を撫でられているような心地よさだ。ユリウスが歩くたび、程よい揺れも加わって、とっくに体力の限界を超えていたルカは、完全にユリウスに体を預け、昏倒したようにまぶたを閉じた。
ザバァと湯桶に汲んだ湯を流す音。
やめて。そんなに湯をかけては痛い。背中と大腿が痛くてたまらない。
「………うっ」
喉から苦痛のうめき声が漏れ、その自分の声が聞こえてルカは目を開いた。
とたん目に飛び込んだのは、キラキラ光る金色の髪。なぜか目は閉じている。紺色の軍服は一旦意識を取り戻したときに見たものと同じだ。林で意識を失う直前に見たキラキラ光る髪といい、ずっと同じ男に拘束されているようだ。
「あら、気がついたの?」
女性の声にルカはそちらに顔を向けた。髪をひっつめて一つにまとめ、腕まくりをして湯桶を持っている。
今ひとつ状況がわからない。
きょとんとした顔で自分を横抱きに抱える軍服の男の顔と、女性の顔とを交互に見る。
胸元に手をやると、平らな胸に手が触れた。驚いて自分の体を見ると真っ裸だ。
女性の後ろに白衣を着た年配の男がいる。
あれは、月に一度ルカを診察する医師と同じ格好だ。裸の自分と医師の姿に、ルカは青ざめた。
「……診察はいやだ。……怖い」
やはり自分は王宮騎士団に捕まったのだ。一生懸命逃げたのに。あんなにがんばったのに。
捕まって、意識をなくしている間に王宮に連れ戻され、夜伽の準備の湯浴みをさせられ、その上診察までされるのだ。
「放せっ! いやだ! 放して!」
ルカは暴れた。軍服の男の胸を両腕で思いきり押す。男が驚いたように目を開いた。腕から逃れられたと思ったが、軍服の男はルカを抱く腕に力を込めてくる。
胸をぴったりと軍服に押し付け、ルカを縦抱きにすると肩と腰に腕をまわして拘束する。かなり大柄な男だ。膝立ちした男とルカは同じ高さだ。胸にルカがすっぽりとおさまる。
「やめて……。放して…。……っく」
痛みと朦朧とする意識に自然と涙が浮かぶ。自分を拘束する男を見上げれば、碧眼の澄んだ瞳と目が合った。
「暴れるな。傷口が開くぞ」
まるで気遣うような言葉が男の口から出た。
「そうですわ。動いたら危ないですわよ」
傍らにいた女性もルカを宥めるような言葉をかけてきたが、そんなものは知らない。
「放せっ……。いやだ」
足をバタバタさせ、手を無茶苦茶に振り回した。自分を抱きかかえる男の顔を、爪を立てて引っ掻いた。
「きゃっ! ユリウス様大丈夫ですか?!」
女性の口から悲鳴に近い声が上がる。頬の傷を確かめようとしたのだろう。女性がこちらに手を伸ばしてくる。迫ってくる手が、今にもルカをつかみそうで反射的に目を瞑った。
「大丈夫だ。騒ぐな。手当もいらない。かすり傷だ。大きな声を出せばこいつが余計に怖がる」
こいつ? こいつってわたしのことか。
恐る恐る目を開けば、男の頬にくっきりとついた爪の跡。血が滲み出している。
希少種の奴隷のくせに騎士に傷を負わせて、ただではすまない。逃げたくて無我夢中でやったこととはいえ、浅はかだった。また短鞭で打たれるかもしれない。
「……ごめんなさい。……ごめんなさい」
ルカは震えながら謝った。短鞭は嫌だ。診察も怖い。
許してもらえるだろうか。たぶん許してはもらえない。何回打たれれば許してもらえるだろうか。何回耐えれば終わるだろうか。
懇願するようにユリウスと呼ばれた男を見上げる。ユリウスは暴れるのをやめたルカに、抱く腕の力を緩めた。
「これくらい大丈夫だ。悪かった。謝らんでいい。お前こそ目を覚ましたら裸で驚いたろう? あまりに汚れていたので洗ってやろうとしただけだ。それに何を怖がっているのか知らんが、診察といっても傷の手当をするだけだ。それでも怖いのか?」
「傷の手当…….?」
ああ、そうか。傷の手当てをして王の御前に連れて行かれるのか。
「終わったら夜伽に連れてかれるの?」
ルカの言葉に女性が息を呑んで口を抑えた。白衣の男も眉をしかめる。
「いや。夜伽なんかしなくていい。何か勘違いしていないか? ここをどこだと思っている」
「ここは、王宮でしょ? だって捕まった」
「王宮から逃げてきたのか?」
ユリウスが息をのむ。
なにがそんなに不思議なのだろう。
「王都からここまで馬で早駆けしても三日はかかる。その距離を歩いてきたのか? 裸足で。信じられんな」
「じゃあ、ここは王宮じゃないの?」
「ここは北のモント領だ」
「北……」
ならばルカは正しく北へ向かえていたのか。
「バッケル国の?」
「聖バッケル国の領土内かという意味ならそうだ」
絶望的な吐息がルカの口から漏れた。
もしかしたらもう隣国に入っているといい。そんな希望的観測は見事に打ち破られる。
捕まった。国を出る前に捕まってしまった。この人たちが誰なのか。そんなことは知らない。でも王に逆らえる人なんてこの国にはいない。ルカを洗おうとするのも、傷の手当ても、ルカを王宮に返すためにやっているのだろう。
「……王宮には帰りたくない。帰りたくないよ。帰るのはいやだ」
ルカは両手でユリウスの胸を叩いた。
「湯浴みも傷の手当もいらない。放して」
傷が痛んだがそんなことに構ってはいられない。目の前の軍服のボタンを引き千切り、ユリウスの腕に歯を立てて噛みついた。
「まるで手負いの獣のようだな。ほら大人しくしろ。誰もおまえを王宮に返すとは言ってない。こら噛むな。落ち着け」
ルカが噛み付いても暴れてもユリウスは怒らない。
むしろ暴れても落ちないよう、しっかりとルカを抱きかかえている。しかも背中と大腿の傷に触れないように。
そういえば自分は裸だったと今更ながら思い出す。ユリウスの頑健な腕が、肩と腰に直接触れている。
わけもなくまた怖くなり、ルカは暴れるのをやめた。というより、もう手足を動かす力も残っていなかった。
「全く。無駄な体力を消耗するだけだぞ。リサ、もういいか? これ以上の湯浴みは体に負担がかかるだけだ」
「はい。ようございます。もうほとんど洗い終わっておりましたので」
リサと呼ばれたひっつめ髪の女性が答えると、ユリウスがそっとその場にルカを下ろした。が、タイルに足裏の傷が当たり、ルカは膝から崩れた。それを慌ててユリウスが支える。ルカの両脇に手を差し入れて持ち上げた。
「悪い。足の裏の怪我を忘れていた。もう暴れるなよ? リサ、早く拭いてやってくれ」
ユリウスはルカの体をなるべく見ないようにと顔を背け、目を閉じた。
リサは大きなタオルでそっとルカを包み込んだ。頭をがしがしと拭かれ、ルカはむぅっと口と目を閉じた。
「大丈夫ですよ。拭いているだけです。傷口だけちょっと我慢してね」
リサはことさら傷口には慎重に触れた。
「さぁ。もういいですよ」
リサはルカの全身をタオルで包み、「目を開けてもいいですわよ」とユリウスに言う。
ユリウスは目を開けるとルカを籐椅子に浅く腰掛けさせた。
「少し待っててくれ。着替えてくる」
ユリウスはそう言って浴場を出ていったと思ったら、またすぐに戻ってきた。今度は軍服ではなく、白いシャツにトラウザーズだ。
「次は傷の手当てだな」
ユリウスはタオルにくるまったままのルカを持ち上げると片腕にのせ、「つかまっていろ」と両腕を首にまわさせる。
器用に傷口に触れないようルカを抱きかかえたユリウスの太い首に、ルカは言われた通りに抱きついた。
ユリウスが動くたび、金糸のような髪がさらさらと頬にあたる。まるで頬を撫でられているような心地よさだ。ユリウスが歩くたび、程よい揺れも加わって、とっくに体力の限界を超えていたルカは、完全にユリウスに体を預け、昏倒したようにまぶたを閉じた。
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