世界最強の公爵様は娘が可愛くて仕方ない

猫乃真鶴

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南の国編

幕間 女神の小窓

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 予定通り、イリス=ラハスの街にある大教会へとやって来たアルベルト達一行は、司祭の案内で門を潜った。ここでの目的は、有名な巨大ステンドグラスの見物である。
 かつて、女神の名の元に多くの者へ救済の手を差し伸べた僧侶がいた。彼は丘の上へ一人で石を運びそれを積み、簡素な小屋を造った。助けた民には暖かな家を渡し、自らは石造りの小屋に住む。食べるものも着るものも、すべて民に渡してやって、そうして僅かな物だけで生きて儚くなった。彼の崇高な魂を女神へ届けようと、石造りの小屋を中心に建てられたのが、この大教会だ。
 彼がそうであった為に、助けられた民の信仰はその女神にあった。女神の姿を大教会に、と考えるのは自然なことだ。僧侶への感謝と女神への信仰が、そのまま大きさに反映された結果が、大きな壁いっぱいのステンドグラスというわけだった。
 そういった歴史なんかを説明されながら廊下を進む。ヘレナはきょろきょろとあちこちを見ながら、リリアンは真剣な面持ちで聴きながら司祭に続いている。アルベルトは歴史ある彫像には目もくれず、ただただリリアンの横顔を見ていた。
 司祭の話に耳を傾けるリリアンは、彼の言葉を繰り返すように窓へ視線を向ける。

「身寄りのない方を迎えているのは、今も変わらないのですね」
「はい。この街では教会が世話をするのです」

 窓の外、子供達が手伝いをする様子が見えた。荷物を抱え運んでいたり、伝言でも頼まれているのか、どこかへ駆けていったりと忙しない。

「ここには仕事がたくさんありますから。国からも信者からも支援がありますので、運営は恙無つつがなく行っておりますよ」
「そうなのですか。それは、安心ですわね」
「ええ」

 司祭はそう言って微笑む。リリアンも表情は崩さなかったが、心にざらりとした感触を覚えていた。
 街は、僧侶の献身と街民の努力とで綺麗に整っており、荒れた様子はない。先日のヒースの言葉通りなら、マフィアなどの荒くれ者は存在していないはずだ。
 だったらなぜこんなに孤児がいるのだろう。
 どの子供も痩せ細っているわけではないし、着ているものも清潔そうに見える。労働は大変そうだが健康的な体付きで、病気なのに働かされている子供はいない。それ自体は良い事だ。けれど、まだ幼いうちから働かなくてはならない子供がいる、という事実は、リリアンには重たく感じられた。
 そのまま廊下を進む。掃除の行き届いた廊下は静かだ。ここの掃除もすべて教会で生活する孤児達が行っていると説明される。規律を守り、それに則った生活のできる場所らしい。
 つくづく管理が行き届いていると思う。子供達が元気ならばそれでいいだろう。
 気を取り直して司祭の後に続き、リリアンは大聖堂に入る。そうして目に入った光景に思わず息を呑んだ。

「まあ……!」

 大聖堂には光が溢れていた。複雑な色の洪水となって空間を満たすのは、陽光に照らされた女神。太陽のような温かみのある金色の髪を広げ、稲穂を手に風を抱く姿はかの女神の立場を表している。金の髪は広大な大地を、稲穂は実りを、風を抱くのは情報の伝達を意味する。いずれも人の生活で重要なものだ。この女神は人を愛し、その生活を守り恵みを授ける存在だと信じられている。

「この時間帯は、一番美しく見える時間なのです」

 人払いがされ、静寂の降りる大聖堂に、司祭の声が響く。

「よく晴れて良かった。これだけ美しく見られるのは、この時期には珍しいのですが」
「そうなのですか」
「ええ。女神様も、皆様にご挨拶されたかったようですね」
「まあ。ふふっ」

 老いた司祭は気さくだった。遥か高みの存在であろう女神をそのように言うのはとも思うが、他でもない僧侶が民に「女神様はもっとも近い場所で、我らを慈しんでいる」と説いたため、女神の存在は近いのだそうだ。「案外、宿の女将として市井に紛れているやもしれませんよ」とは司祭の言葉だ。

「こちらの女神様は、人が好きなのでしょうか」
「そうであって欲しいものです。ですので我々は、女神様に嫌われぬよう、努力しているのですよ」
「なるほど」

 リリアンは関心して頷く。トゥイリアース王国でも、もちろん神への信仰というのはある。信仰する、と言っても、信じる心、捧げる心は人それぞれだ。それを、もっともシンプルにしたのが、今の司祭の言葉だろう。
 シンプルだからこそ、強くて純粋な思い。これは大事だわと、リリアンはその言葉を胸に刻んだ。
 そうして、改めてステンドグラスを見上げる。女神は目を伏せているのでこちらを見てはいないが、口元は微笑みを湛えている。大丈夫よ、とでも言いたげな表情は、なぜか母の肖像画を思い起こさせる。

「綺麗ね……」
「ええ、本当だわ。とっても綺麗……」

 リリアンはステンドグラスを、対するヘレナはリリアンの横顔を見ての言葉だったが、心の底からの本心だったために声色は似ていた。
 ヘレナだけではなく、最後尾にいたマクスウェルを除く全員が似たような表情で感嘆の息を洩らす。そのことに司祭は目を丸くしたが、そこは年の功、すぐに表情を改めた。ステンドグラスについての解説を続ける。

「この教会には、あれ以外に女神を象ったものはございません。それでこのステンドグラスの女神を『女神像』と呼ぶのですが——あれはガラスではなく、宝石で造られているのです。美しさの秘訣はそれですよ」
「えっ!?」

 思わずリリアンは声を上げてしまった。「本当に?」と問い掛けると、司祭は目元の皺を深める。

「ご心配なく。盗難はとても難しいのです。なにせ、とても重たいですから」
「そりゃあ、あのでかさだもんなぁ」

 マクスウェルが呟くが、どこか呆れの混じった声だ。それはそうだろう、描かれた女神の姿はかなり大きい。モザイク画のように造られているから、とんでもない大きさの石を使ったわけではないだろうが、膨大な量の石を使っているのは間違いない。
 それだけ採掘量が多かったという事だろうが、なんとも贅沢だ。これを造るとなった際、僧侶が健在だったら、なんて無駄な、と言ったかもしれない。
 けれども、宝石が使われているのには理由があるのだとヘレナは言った。

「まだガラスを造るのが難しかった時代のものなの。材料も燃料も無くって……だったらたくさんある宝石を割った方が良かったのよね」
「まあ」
「それはそれですごいな」
「エル=イラーフは交易が盛んでしょう? それが幸いして、あっという間に技術力が向上したの。すぐ量産されるようになったから、宝石が使われているのはこれだけってわけ」
「それも受け売り?」
「違うわクラベル様。勉強の賜物よ」

 ヘレナは得意気に胸を張る。「あら、それは凄いわね」というクラベルの言葉に笑みを深くした。
 その後しばらくステンドグラスを鑑賞し、移動する。

「では、工房へご案内致します」

 大聖堂から廊下を少し戻り、来た方向とは別の通路へ案内された。教会の裏手へと続く通路はそこまでと造りが違う。装飾が少ないのは、ここが教会に住む人々の領域だからだろう。

「教会に工房があるのはなぜなのでしょう」

 辺りの様子を伺いながら、リリアンは司祭に訊ねる。
 材料や完成品を運ぶ手間を考えたら、港や鉱山に近い場所の方が良さそうなものだ。いくら僧侶ゆかりの土地とはいえ、丘の上でなくともいいのではないか。普通はそう思うだろう。
 司祭も、それが正しいとは思う、と笑う。

「一番始めは、あの女神像を造るためのものでした。そうこうしているうちに、と言いますか……まあ、すでに街の者にとっては、ここが街の中心だったのです。もっとも、女神様のお膝元で造られたという付加価値を付ける思惑もあったようですが」
「なるほど」
「その後は、孤児達に職を与えるのに整えられたとか。幼いうちに学ばせた方が良いと、当時の王が申されたのもありますね」
「へえ。それで教会が中心となって、ガラス細工が一大産業になったと」
「ええ、その通りです」

 話しているうちに工房へ着いた。年季の入った作業場に職人らしき大人と、見習いらしき子供が大勢行き交っている。

「ここが工房なのね」
「ドレスじゃ邪魔になるわね」
「そうかも」

 ぐるりと見回したクラベルが言うのにヘレナも頷く。工房は広いが、作業台の間隔は狭く人が多い。作業着の職人が行き交う中では、横にも前後にも広がるドレスを着たヘレナ達は邪魔だろう。
 仕方がないので端の方で、と言おうとしたクラベルの前で、ヘレナがくるりと司祭を振り返った。

「ところで、体験もできると聞いたのだけど」
「えっ?」
「そうなのか?」
「パンフレットに載っていたの。そちらの作業場なら問題ないんじゃないかしら」
「確かに、観光客向けのものはございますが……あの、製作体験もなさると?」
「そのつもりよ」

 ヘレナが力強く頷くと、司祭は目に見えて狼狽し出した。

「無理か?」

 何か理由があるのだろうと思ったマクスウェルが訊ねる。その声にはっとなった司祭が視線を彷徨わせた。意識はしていなかったのかもしれないが、ちらちら見た先は作業台、そこに乗せられている作りかけのステンドグラスだった。

「ええと……熱で金属を溶かす必要がありますので、火の魔道具を使うのです。ですので、高貴なご身分の、それも女性となりますと」
「なるほどな。火傷しちゃまずい」
「……はい」

 なので許可は出せない、と申し訳なさそうに眉を下げる司祭。マクスウェルは、そんな彼を咎める気は起きなかった。まったくもって正当な言い分である。ヘレナも納得がいったのか黙っているが、目に見えて肩を落としている。
 ヘレナがリリアンを慕うようになってからというもの、行動を共にする事が多かった。活発なヘレナが澄まし顔でリリアンを真似ようとするのも、年相応に振る舞うのも——王族らしいかどうかは置いておいて——微笑ましく見ていたマクスウェルとしては、彼女の希望を叶えてやりたいと思ってしまう。

「んじゃ、そこは俺達がやろう。その前まではやったらどうだ?」

 いいだろ、とレイナードを振り返れば、彼も彼にしては珍しく表情を緩めていた。リリアンの方はレイナードに任せればいいだろう。そう思い、改めて目を向けると、ヘレナは瞳を輝かせている。

「さすがマクスウェル様! それでいきましょ!」
「悪いがそれで頼む」
「請求は父様宛てでいいわよ」
「そんな、滅相もございません」

 司祭が慌てて上げた手を左右に振っている。が、マクスウェルの提案で問題ないようで、周りの職人やシスターに声を掛けていた。
 準備が整うまで待つように言われ、リリアンやヘレナは大人しく従う。そわそわと周囲を伺うヘレナは、作業が楽しみで待ちきれない、といった様子だ。思わずリリアンはクラベルと視線を交わし、くすりと笑ってしまう。
 そんな中で、ふとリリアンの視界にアルベルトの姿が入る。
 宿ではそうでもなかったが、教会へ入ってからというもの、なぜかいつにも増して大人しい。歴史のある大教会に見入っているのかと思ったが、それにしてはどこか上の空だ。ちょっぴり心配に思ったリリアンは、そっと父親に声を掛ける。

「お父様も記念にいかがですか? 珍しい体験だと思うのですけれど」
「リリアンが望むなら、やろう」

 返ってきた声は少し硬い。表情もだ。なんだか張り詰めたものを感じたリリアンは、余計だったかしらとは思ったもののそれ以上深く追及しなかった。本当にやりたくなければやらないだろうと、そう判断したのだ。
 気の向くようにして欲しいと願ったところで、司祭とシスターから準備が整ったと声が掛かった。リリアン達は言われるまま場所を移動する。
 比較的広めの作業台には、様々な道具と材料が並んでいた。

「作業用の手袋を必ずはめて下さい。思わぬ怪我をされる事もございますので」
「ありがとう」

 手袋をはめると、その後で図案を渡される。板に紙が貼ってあって、手袋をしていても見やすかった。

「色々あるのね」
「すごいわ。初心者でもこんなのが作れるの?」
「お時間さえあれば、ある程度は。ですが、曲線になっている絵や、色の多いものは難しいので、四角形を組み合わせたものがおすすめです」
「じゃあ、この辺りね」

 クラベルとヘレナが言うのに司祭が答える。複雑なものは綺麗だが、自分で作るとなると失敗が怖い。無謀な挑戦はやめておこうと思ったのか、ヘレナは司祭とクラベルの勧めに従って単純な図案を選んでいた。「複雑なやつは、発注すればいいし」という呟きは聞こえなかったことにする。
 リリアンも、複雑で美しいものには惹かれたが、自分に作れるとは到底思えなかった。幾何学的でどこか花を思わせる図案があったのでそれを選ぶ。大きな菱形のガラス板を八枚選んでそれを並べ、隙間は小さめのもので埋めればいいだけだ。気合いを入れて気に入った色を探す事にした。レイナードが時々アドバイスをくれるので、作業はそれなりに順調だった。
 一方、リリアンに勧められる形で席に座ったアルベルトは、差し出された図案に眉を寄せる。

「つまらんな」

 ぽつりと呟いた声は、作業に集中するリリアン達には聞こえていない。司祭達もヘレナとリリアンに意識が向かっているので、これ幸いとばかりにアルベルトは思い思いの材料を自分の手元に引き寄せる。
 そうして準備された図案をまるっと無視して絵を描き出した。次第に浮かび上がってくるのは、白い肌を持った銀髪の少女——どう見てもリリアンである。
 ざっくりと全体図が出来上がったら、そこからガラス片を入れ替えて調整する。背景が寂しいので百合か薔薇でも描くかと悩んでいるのを、マクスウェルはしっかりと見ていた。

「叔父上、それ、時間内に作れるのか?」

 アルベルトの手元の作品は、見るからに細かくて複雑だ。あまり長く滞在するのも悪いだろうと、ヘレナとリリアンの作業が終わる頃までしか予定を組んでいない。
 それらしい形のガラス片を並べただけの状態だったが、より綺麗に作るなら、ガラス片を適切な形にカットしなければならないそうだ。それにはそれなりに手間と時間が掛かる。

「私を誰だと思っている」

 が、そんなマクスウェルの心配をよそに、にぃっと口角を上げたアルベルトは魔力を立ち上らせる。そしてそれをガラス片へ向けると、ガラス片は意思を持ったかのようにうにょりと形を変えた。
 同時に他のパーツとの接合材を巻き込んでくっついていく。あっと言う間に百合の花が出来上がって、マクスウェルは頬を引き攣らせずにいられなかった。

「……できそうだな」
「まあ、父上だから」
「いつものね」

 年長組はそう言い合って、アルベルトを放置する事に決めた。

(青い空から夕焼けへ。移ろう空の色に魅入る瞳と、真剣に作業に取り組んでいる瞳。そのどちらも見事に輝いている。どちらを取るべきか、実に悩ましい)

 が、無論アルベルトはそんなの気にしない。黙々とリリアンの姿を形にしていく。

(芸術作品には、悩みというのは直に現れてしまうという。ならば今ここで私が悩むわけにはいかないが……どちらがより美しいかと言われると難しい。作品に組み込むのならより良い方を選らぶべきだ。しかし、どちらも違った美しさがある……いや待て。リリアンの美しさだぞ? どちらが良いかなんて優劣をつけるものではないのではないか? 素晴らしい、素晴らしいぞリリアン。如何様にも美しさを表現できるということ、すなわちそれは、無限の美しさを持っているということ! さすがだ、やはりリリアンは奇跡の存在なんだ。ならばここは、移りゆく輝きを込めて……)

 ちらりとリリアンの様子を窺い、その瞬間の感動を反芻しながら加工を進める。
 ベースは、昨日目撃した夕焼けに息を呑むリリアンに決め、そこに凛々しさを織り込む事にした。それに加え、ヘレナのような礼儀のなっていない王女へ寛大な態度で接する懐の広さも表現しようと、アルベルトは調整を始める。
 何かしら作品を創る際は、テーマはできる限り絞るべきである。あれもこれもと欲張ると、ひとつひとつの要素が分散して薄まったり、あるいは全てのテーマが強調し合い、要素の潰し合いになってしまう。そうなるともう、目も当てられない。
 が、リリアンの完璧な美しさを盲信しているアルベルトは、全てを表現できると信じて疑わなかった。思い描く通りガラスが形を変えていくのと同じくして、その考えは確信へと変わる。
 アルベルトの手元のリリアンは、こちらに向かって優しく微笑んでいる。それは慈愛に満ちた姿で間違いない。
 その青い瞳に映るのは異国の空。慣れ親しんだ故郷の空よりも僅かに色の濃い紅は、それまでの水色だった空をまったく別の物に変えてしまう。だが、例え色が変化しようとも、空は空だ。それ以外の何かになってしまったわけではない。
 つまり、どんな表情をしていても、リリアンの聡明さ、真摯さは変わらないという事だ。
 このステンドグラスは、今回の旅の思い出の一部である。これを見ればあの夕焼けが思い起こせるようにと、アルベルトはドレスの色でそれを表現していった。
 作業に集中するアルベルトは勿論、ヘレナやリリアンの視界にも、仕事をこなしている職人達の姿は写っていなかった。体験用の作業台は、そもそも職人の作業を遮らないようにと端っこに設けられているのだから、仕方のないものである。
 なので、用事を言いつけられ、荷物をあっちからこっちへ、こっちから向こうへ運ぶジョアンとラルスの姿も、一行には見えていなかった。
 ジョアンとラルスは、去年職人の手伝いから見習いに昇格した教会の孤児だ。手伝いと言うと聞こえはいいが、職人もこの教会育ちの者が多い。年上が年下の世話をする中で、面倒事は年下に押し付けるのも頻繁にある。そんな彼らが職人の下につく——どうなるかは容易に想像ができるだろう。教会でやっている生活の雑用とは違い、仕事ではあったものの、やっているのはほとんど同じだ。それも、少しでも手を抜くとこっぴどく叱られる。作業場には危険なものが多いのは分かるが、常に気を張っているのは疲れるのにと、よくジョアンは頬を膨らませていた。
 そうやってただ雑用を言いつけられているところから、職人見習いとなったのだ。これでもうこき使われることも無くなるだろう。そう思っていた二人だったが、見習いとなって数ヶ月経っても以前と変わらぬままだった。
 普段から反発心の強いジョアンは納得がいかず、最近職人に食ってかかる事が増えた。シスターに宥められ、しぶしぶ雑用をしているが、図案のひとつも触らせて貰えないとなるとやる気が起きない。
 教会にはジョアンとラルスよりも小さな子供もいる。彼らに雑用をさせ、二人には職人の仕事を教えるべきだという訴えは頭から否定され、ジョアンは渋々片付けをしている。
 ラルスが気遣うようにしているのを見る気にもならず、職人が荒らした作業しか見ていなかったジョアンだったが、ふと耳に客人の会話が入ってきた。思わず視線を上げると、客人を取り囲んでいる司祭とシスター、そして二人の先輩となる職人達が遠巻きにしている姿が目に入った。
 なんだろう、と手を止め耳を澄ませると、聞いたことのない声が聞こえてくる。内容的にも客人のもので間違いないだろう。

「まあ。そちらも綺麗に仕上がりましたのね」
「ええ! お姉様の組み合わせも素敵だわ!」
「自分の好みの色を並べるだけで、こんな素敵な工芸品になるのですね」
「これは、宝石を使うっていうのも理解できるかも」
「そうね。ガラスでこんなに綺麗なのだもの。潤沢だったら、宝石を使うわよね」

 軽やかな声は少女達のもの。どうやら工房体験が終わったらしい。
 工房体験は、準備された素材を組み合わせるだけの、ごく簡単なものだ。単純なので初心者にも作りやすい代わりに、見栄えがいまいちになる。けれども、自らの手で作ったものは特別だと笑顔を輝かせる者は多い。
 そんな単純なものでも、見習いである自分達は作らせて貰えないのに、とジョアンは奥歯を噛む。
 実際、客人が作ったものがどんな出来栄えなのかジョアンの位置からは見えなかったが、楽しげな声は何故かジョアンの心に突き刺さった。
 思わず俯いていると、急にワッと歓声が上がる。

「こ、これは」
「なんて美しい……!」
「この短時間でこのクオリティはやばいだろ……」
「さすが父上だ。美しさの中に憂いを含んだリリーの表情を完璧に表現している」

 漏れ聞こえてくるのはそんな声だ。何があったのだろうと覗き込もうとするが、背の高い大人達に遮られて、台の上どころか作業台すらろくに見えない。そもそも高貴な身分の人が来るから近付かないように、と言われていたので、ジョアン達は動けなかったが。
 片付けをするふりでちらちら盗み見していると、一際賑やかな声が響いた。

「ねえ、これあたしにちょうだい!」
「渡すと思うか貴様なんぞに」

 それに対するのは低く鋭い言葉。ジョアンは部外者なのにぞくりと身を震わせてしまう。

「じゃあ、同じのをもう一つ作ればいいのよ。で、それをくれれば」
「欲しいのなら自分で作ったらどうだ」
「あたしじゃ無理よ。だからお願いしているんじゃない、分かりなさいよ」
「この程度が作れない? あれだけリリアンリリアンと言っているわりに、貴様のリリアンへの愛はそんなものか」
「そ、そんなわけないじゃない! 技術力の話よ!」

 その後は、愚か者め、と叫ぶ声がはっきり聞こえた。剣幕が凄くて、ジョアン達だけでなく周囲の大人も身を竦めている。
 聞くに、なにやら凄いものが出来上がって、それに注目が集まっているらしい。聞こえてくる声の中、少女らしき高い声が絶賛しているのが分かる。よほど気に入ったのか、譲って貰おうとして断られたようだ。
 それがどれ程のものなのか、ここまでの騒ぎとなればジョアンも気になってくる。

「閣下、ただ置くだけではこの世の損失です。これに相応しい場所を設けてはいかがでしょう」
「ベルの言う通りだ。父上、庭に礼拝堂を建てましょう」
「それは悪くないな」
「ずるいわ! うちの王宮にも欲しい!」

 王宮、とジョアンの隣でラルスが呟く。ジョアンも聞こえた単語に目を見開いた。来訪者が高貴な人々だというのは聞いていたが、想像以上だ。だって、少女の声は「うちの」と言った。そこに住んでいなければ、そんな風に言ったりはしないだろう。
 ジョアンはそちらに気を取られて、直前の会話の内容を理解していなかった。ラルスの「飾る為だけに建物を建てるの……?」という声も耳に入らない。
 客人のやり取りにか、出来上がった物にか、工房内は騒然としている。それはジョアンもで、冷静に目の前のものを見られるような状態ではなかった。
 ふいに人垣が割れ、作業台と客人の姿が垣間見えた。目に飛び込んできたものに瞠目するジョアンだったが、今の彼が見たものを正確に判別するのは困難だった。ただ輝く色だけが目に焼き付く。
 ジョアンの視線を釘付けにしたリリアンの姿は、あっという間に見えなくなってしまう。それでも直後の言葉は彼女のものだと、ジョアンは確信していた。

「あの、さすがにそれは、恥ずかしいです」

 囁かれた声は控え目だがはっきり通る。盛り上がる一同に対し、言い辛そうにしているのが聞いただけで分かった。

「そんな、お姉様」
「リリー……」
「残念だわ……」
「そりゃそうだろ」

 一同から上がるのは絶望に満ちた声だ。最後のだけ除いて、愕然としている雰囲気さえある。直後、「リリアン、お父様の部屋に置くのはいいだろ? な!?」という叫びが聞こえたが、返答まではジョアンの元へは届かなかった。
 叫びからは必死さが窺える。作業台に置かれているのは、それ程までに離し難いものなのだろうか?

「梱包はこちらでしますので、一晩お預かりします」
「よろしく頼む」

 司祭の声がして、ジョアンははっと意識を戻した。どうやら客人は立ち去るようで、司祭を先頭に集団が工房から出て行く。
 体験者用の作業台にはまだ人が群がっている。ざわざわという騒めきも静まらず、珍しい事にいつもは寡黙な職人達が、何かを指差しては囁き合っていた。

「魔法で成形するなんてあり得ない」
「それを考慮しても、こんな風に作れるものか?」
「少し観察させて貰いたいが……」
「許可は貰えないでしょうが、これほどの技術とセンスは、学ぶものがありますね」

 驚愕とも感嘆ともつかない言葉の数々。それらを聞いているジョアン達は、不思議なことがあるものだと首を傾げる。
 これまで、この工房——国内で最大かつ最高と言われているガラス工房——の最高傑作は、大聖堂の女神像とされていた。それは大きさや技術だけでなく、図案としての構成が素晴らしいからだ。あれほどの大きさのものは作れずとも、図案であればもっと複雑で美しいものを探究していける。だから近年では、職人の技術の重きはそちらへ向いていて、誰もがそれを目指していた。
 そんな中で、どの職人からもこんな風に称賛される作品は無かった。

「まさしく女神ですわ! なんて素晴らしい」

 普段人一倍戒律に厳しいシスターでさえそう言う。弾むような声に、ジョアンとラルスは顔を見合わせた。

「今のって……」
「シスターの声、だよね?」

 やんちゃな子供を叱ってばかりで、怒り顔が癖になっている彼女が、手放しに褒めるなんて。ジョアンは信じられなかった。
 ジョアンの中の職人の卵としての好奇心と、やんちゃ坊主の悪戯心とがうずうず動き出す。

「シスターがあんなに言うんだ。よし、おれ達も見ようぜ」
「ええー? 見せてくれるかなぁ」

 こそこそ言われ、ラルスも声を潜める。ジョアンの言うように、ラルスだって見てみたかったが、仕事を請け負っている職人達でさえ遠巻きにしているのだ。見習いで、しかも悪戯小僧と認識されていたジョアンとその連れのラルスとでは、門前払いもいいところだろう。欠かせては事だと近付かせて貰えないに決まっている。
 が、ジョアンはそんなラルスを鼻で笑った。

「馬鹿。わざわざ許可なんていらねーよ」
「えっ?」

 ラルスはぱちぱちと瞬く。

「ジョアン?」
「おれに考えがある」

 自信たっぷりなジョアンの様子に、ラルスはろくでもない予感を覚えた。


 ◆◆◆


 その日の夜。静まり返った教会内に、小さな影がふたつ。

「ねえ、やっぱりやめようよぉ」
「なんだよ、お前だって見たいって言ったじゃんか」
「そ、そうだけど……」

 ジョアンとラルスだ。
 二人はあの後、しっかりと言い付けを守り工房内の後片付けをし、教会へ帰って夕食をとった。夜の点呼が終わり、他の子達が寝入るのを待つと、こっそり部屋から抜け出したのだ。
 途中までは乗り気だったラルスは、真夜中の、空洞のようなしんとする教会の廊下にごくりと唾を飲むと、いきなり尻込みしてそんな風に言ったのだ。
 冗談じゃない、とジョアンはラルスを置いて行こうとし、ラルスは慌てて後を追う。

「でもさあ、見つかったら怒られるよ」
「なにびびってんだよ、見つからなきゃいいんだろ。灯りを持ってないのはその為じゃんか。今日は満月なんだから、足元だって見えるし」
「そうだけど、そうじゃなくって……」
「じゃあなんだよ!」
「お、大きな声出すと見つかっちゃうよぉ」
「お前がぐちぐちうるさいからだろ!」

 子供達は言い合いながら廊下を進んだ。
 工房の前までやって来ると、ラルスは当然扉の前で立ち止まったのだが、ジョアンはそのまま扉を素通りしてしまう。

「ジョ、ジョアン? どこに行くの?」

 工房はここだけど、と指差すラルスを、ジョアンは一瞥する。

「馬鹿。正直に出入り口を使うわけないだろ? こっちだ、こっち」

 ジョアンが指したのは裏口で、そちらは資材の搬入口も兼ねていた。
 なるほど確かに、そちらの方が目立たないかもしれない。ラルスはそう考えたのだが、ジョアンが急にその手前でかがみ込む。驚いて駆け寄ると、搬入口の手前、足元の通気用の小窓を乱暴に揺さぶっている。

「な、なにしてるのさ」
「いいから黙ってろよ」

 がたがたと物音が廊下に響く。それなりに目立つ音なので、ラルスがはらはらと見守る中、揺すっていた小窓ががたんと外れた。

「へへっ。うまくいったな」
「ジョアン、もしかして」
「ああ。昼間、ちょっと細工しておいたんだ」

 そう言うジョアンは得意げだ。口の端を持ち上げて、鼻をぴんと親指で弾いている。
 夜間出歩いているだけでも重罪なのに、工房へ忍び込み、あまつさえ小窓まで壊す。これは、もしも見付かったら説教だけでは済まないだろう。ラルスはぶるりと身を震わせた。
 黙りこくるラルスの様子には気が付いていないジョアンは、早速小窓から工房へと入る。

「さあて、お宝はどこだ?」

 物語じみたセリフを言いながらきょろきょろ見回す。見慣れた工房であっても、真夜中の月明かりしかない中では別の場所のようだった。まるで忘れ去られた秘密の工房みたいで、ジョアンのテンションは爆上がりする。あちこちの作業台を覗き込んではどこにもないな、と次の作業台へ移っていった。

「ラルス。お前も探せよ!」
「う、うん」

 声を掛けられ、ラルスも慌ててそれに参加する。けれど、ジョアンのその行動はまったくの無意味だった。作業台の上には完全に物を残さない、というのが徹底されているからだ。作りかけで動かせないものを除き、綺麗に片付けがされている。そんな中なので、軽く見回せば作業台の上には無いとすぐに分かるのだ。
 だから、完全にジョアンは雰囲気に飲まれているわけだが、ラルスはそれには触れなかった。緊張からかラルスもどこか高揚していて、探検気分になっていたからだ。

「ちゃんと探せよ。でなきゃ抜け出した意味がないからな」
「でもジョアン、もし金庫の中だったら、どうしようもないんじゃない?」
「……お前な、なんでそんな事、今言うんだよ!」
「えぇっ!?」

 ラルスは瞬いた。その可能性を考えていなかったのか、とつい口から出そうになったが、咄嗟に両手で口を塞ぐ。その様子はジョアンからは、大声を出したのを誤魔化したようにしか見えなかった。
 意図せず誤魔化せたとは知らず、引き続き口を押さえるラルス。ジョアンはそんなラルスを睨み付け、もしや近くに誰かが来ていて聞かれたりしてやいないかと、ふと視線を窓の外へ向ける。
 そんなジョアンの目に、きらりと輝くものが飛び込んできた。

「な、なんだ?」

 それがあまりにも場違いに感じ、そっとそちらへ近付いてみた。もしも見回りが持っている明かりだったら困るので、逃げられる体勢を維持する。
 目的のものはすぐに見付かった。工房の端、広めにスペースを取られた作業台の上に、それは鎮座していた。

「こ、これが——!」

 月明かりに浮かぶ少女の姿。花を纏い、微笑みを湛えた表情からは慈しみを感じる。心の内を見透かされるような深い青の瞳、陶器のような白い肌。そこに広がるのは月光を思わせる美しい髪だ。薄暗い中で見るそれはまるで絹の布地のように広がり、彼女自身を覆っているよう。
 それが色ガラスで描かれている。
 ジョアンは確信した。これこそが、職人やシスターが称賛していたもので間違いない。
 ステンドグラスらしく、縦長の窓型ではあったが、礼拝堂に飾るにしては心許ないサイズだ。端から端までは大人の男性が腕を伸ばしたくらいの大きさだった。もっとも、制作体験で作られたにしては大きい。あんな短時間で作れるはずがなかった。
 こんなもの、これまで工房でだって見た事がない。目を奪われ、言葉を失くしたジョアンを訝しんだラルスが作業台をぐるりと回り込むが、これが目に入ると息を飲んでいた。
 そうしてしばしの間、二人は作品に見入っていた……というよりは、目を離せなかった、と言うのが正しいだろう。まずは作品の完成度に。次は細工の細部に、その次は、使われたガラスの複雑な色合いにと視線が移っていく。そのすべてを堪能するには、何度全体を見てもまったく足りなかったのだ。
 上から下へ、下から上へと眺めていたジョアンの手が、ふいにステンドグラスへと伸びた。完全に無意識だったのでジョアンは自分でも驚いたものの、動くがままに身を任せる。この、あまりに美しいものが現実に存在しているのかどうか、確かめたい——ふとそんな風に思ったのだ。
 ジョアンの指先が、ステンドグラスの外枠に触れそうになったその時。とんでもない叫び声が轟いた。

「それに触るな!!!!!」

 驚くジョアンとラルスの肩がびくりと跳ねる。二人は咄嗟に声の方向へ視線を向けた。

「ぎゃああああああ!!!」

 再び叫び声が上がる。今度の声は、ジョアンとラルスが上げたものだ。叫びというか、悲鳴に近い。
 それもそのはず、自分達を叱り飛ばしたのは人とは思えないモノだったのだ。
 背中からは四枚の折れた羽が飛び出ており、頭髪は血のように赤い。ギョロリと自分達を見る瞳は血走っていて、禍々しい雰囲気がある。
 それは、女神の伝承と共にこの地に伝わる悪魔の特徴、そのものであった。

「うわあああああ!!」

 ジョアンが叱られるたび、シスターに聞かされたものだ。その悪魔は、飛び出した目で悪事を働く者を見付け、赤い髪を伸ばすとがんじがらめにして地獄へ連れ去るという。連れ去るのは気紛れに選んだ者だというから、まず悪事を働かなければいいのだとシスターは言っていた。
 それをジョアンは子供騙しだと笑い飛ばしていたのだが、目の前にそれらしいモノが現れたなら話は別だ。
 恐慌状態に陥った二人は足を縺れさせ、転びながら入ってきた小窓へ急ぐ。悪魔から、少しでも早く、少しでも遠くへ離れなければ。そうは思うのに恐怖心からうまく体が動かせない。
 慌てて逃げたせいで、小窓に枠を戻すのを忘れてしまったが、必死な子供達はそれに思い至らなかった。バタバタと激しい足音を立てて、教会の奥へと走って行く。
 そうして誰もいなくなった工房で、ぽつりと呟く者が一人。

「なんなんだ、一体」

 暗がりから歩み出たアルベルトは、ふんと鼻を鳴らした。





 ジョアンとラルスが工房へ向かっていたその頃。キィ、と微かな音を立て、施錠されているはずの教会の扉が内側に開く。
 大きな扉に備え付けられたくぐり戸から、ぬうっと姿を現したのは——。

「やはりあれは直さねば。いまいちな状態で置いておくなど、許されるものではない」

 不法侵入したアルベルトである。
 アルベルトは昼間、ステンドグラスにリリアンの姿を描いた。準備されている素材をありったけ使い、時間短縮するのに魔法まで使用して作り上げたのだが、用意されていたものがぴったりリリアンを表せる風合いだったかと言われると、そうではない。
 ドレスの色はどうにかなったが、煌めく銀髪と澄んだ瞳を表現するのに苦心した。置いてあった素材は最低限だったから、そこまで色の数が無かったのだ。
 仕方なく見回すと、側に置かれた棚になかなかいい色合いの石があるのを見付ける。あれならまだましだろうと、補佐に入った職人に確認もせず、アルベルトは石を手にする。職人が、あっ、と声を上げた時には既に遅く、貴重な宝石は形を変えていた。
 言葉を失くす職人達を他所に、アルベルトは作業を進める。
 幸い、それで髪の方はなんとかなった。瞳の部分も、いくつかのガラスを合わせれば、想像に近い色合いになる。手早く作業したつもりだが、こだわり抜いたせいで終了時間ぎりぎりの仕上がりとなってしまった。それでも微笑みを浮かべるリリアンは美しく、表情や構図なんかも完璧だ。

「だが……慈愛に満ちたリリアンの頬が、あんな色でいいはずがない」

 ぎり、と手を握り締め、アルベルトは先を急ぐ。
 そう——最後の仕上げにと工程を残しておいたのが悪かった。リリアンの頬の調整がすっかり抜けていたのだ。なんという失態だと、自然と歩を進める足は早くなる。
 宿で気付いた時に叫びそうになったのを必死で堪え、何事もなかったかのように振る舞うのに苦心しながら過ごし、こっそり宿を抜け出す。ベンジャミンに見つかると煩いので、アルベルトは一人で教会に入ったわけだ。
 古い建物だけあって、鍵は簡素なものだったので問題なく開けられた。

「保管しているのは工房だったか」

 保管場所を聞いたのは帰りがけの事だ。教会内で鍵のある部屋となると限られる、様々な素材の置かれた工房が一番安全なのだというのを聞き流していたのが、思わぬ所で役に立った。その時丁度リリアンがシスターと会話をしていたのでアルベルトの耳にも入ったのだ。リリアンに気を向けていて良かったと、アルベルトは一人胸を熱くする。
 堂々とした足取りで教会を進み、工房の前までやってくると、アルベルトはつい、と人差し指をドアノブに向けた。
 鍵穴へ魔力を注ぐと、すぐにかちゃりと軽い音がする。それを確認し、ドアノブを回せば、扉は難なく開く。
 侵入者を防ぐはずの鍵は、アルベルトの前には無力だ。かつてリリアンが住まう場所の完全なる安全を求めたアルベルトは、この世のありとあらゆる鍵を開けた経験がある。いくら工夫をしても、根本的な構造が変わらなければ大した違いにならない。この程度は造作もなかった。
 そうして入った先で、とんでもないものを目にする。——リリアンに触れようとする小さな影をふたつ、目にしたのだ。
 アルベルトは反射的に叫んだ。

「それに触るな!!!!!」

 突然の咆哮に、影がびくりと跳ね上がる。次いでこちらを見た事で、影はふたつで、しかも子供であるのにアルベルトは気付いた。
 こんな時間、こんな場所に子供がいるのを不審に思ったが、それよりもリリアンだ。汚い手で触れられ、壊されたりでもしたら……。そう考えただけでアルベルトの血は沸き上がりそうだった。意図せず魔力が放出されていく。
 急いで子供達を排除しなければと眼力鋭くそちらへ向かうアルベルトだったが、近付くまでもなく子供達は悲鳴を上げて震え上がり、恐ろしいものから遠ざかるように逃げ出す。

「ぎゃああああああ!!!」
「うわあああああ!!」
「に、逃げろ!」
「ま、待ってよジョアン!」
「悪魔だ! 悪魔がでた! 連れてかれる!!」

 そうしてあっという間にいなくなってしまった。

「なんなんだ、一体」

 アルベルトの声には苛立ちが含まれる。ぎゅっと眉間に皺が寄った。
 咎められたからと言って脱走するとは。しかも、叫んでいるのが意味不明の言葉で釈然としない。どこの子供か知らないが、無礼な連中だと鼻を鳴らす。
 もしもリリアンに触れていたら成敗するところだったが、連れ去ったりはしない。その場で行った方が面倒が少ないからだ。
 まったく、と吐き捨てて作業台へと向かうアルベルトには、無論四枚羽など生えていない。子供達が居た作業台から見るた時、丁度彼の背後に作りかけの天使の彫刻が二つあって、それが重なってそう見えたに過ぎなかったのだ。
 髪が、というか、頭部が赤く見えたのは、赤の色ガラスを通過した月の光が照らしただけだ。目がぎょろついていたのは、ジョアン達が神聖なリリアンに触れようとしているように見えて睨み付けていたからで、こちらはアルベルト自身のもの。少しばかり力み過ぎていた自覚のあったアルベルトは、そのせいで子供が逃げたのだろうかと首を捻ったが、眼力がすごくて凶悪な顔付きだったとは気付いていない。
 作業台までやって来ると、そこに置かれたステンドグラスにそっと近付く。あの子供達は触れていないようだ。間に合って良かったと、アルベルトはほっと胸を撫で下ろす。
 そのまま置かれているのは不用心にも見えるが、それなりに大きさのあるものに仕上がったのでそのせいだろう。適切な入れ物がないから急いで準備するのだという話をアルベルトは聞いていた。

「……それにしても」

 ほぅ、とアルベルトは息を吐く。
 様々な考えが頭をよぎるが、そんなもの全てどうでも良くなるくらい、目の前の作品リリアンは素晴らしい。

「夜の明かりに佇むリリアンも素晴らしい。さすがは私だ、こうしてみるとこれでも……いや、だがリリアンの高潔な精神はこんな色では表現しきれるものではない。やはり調整が必要だな」

 ぶつぶつ言いながら準備してきた石を内ポケットから取り出す。魔力を立ち上らせ、作業を始めるアルベルトの脳内からはもう、子供たちの存在は消えていた。


 ◆◆◆


 翌朝、予定通り一行は教会を後にする。昨日案内を務めてくれた司祭と、職人達が見送りとして並んでいた。
 それらを見回し、挨拶をするのはリリアンだ。

「お世話になりました」
「とんでもないことでございます。女神のご加護を」
「ありがとう」

 微笑むリリアンに司祭が一層笑みを深める。ヘレナは司祭の様子にうんうん頷くと、そっと声を掛けた。

「あとで、作品の依頼をしてもいいかしら」
「ええ。お待ちしております。大変素晴らしいものを見せて頂いたことですし、職人達も腕を奮う事でしょう」
「期待しているわ」

 職人達を振り返れば、彼らは力強く頷いてくれた。これならば肖像画の写しを渡せば、ヘレナの希望通りの作品を作ってくれるだろう。
 午前の明るい陽を受け微笑むリリアンの姿に目を細め、依頼もまだなのに、作品を手にする日を心待ちにするヘレナであった。
 挨拶を終え、馬車へ向かう道中、気になる声が一行の耳に入る。

「本当にいたんだって!」

 子供の声だ。必死さが伺える声色に、思わずリリアンは足を止める。
 視線の先に居るのは二人の子供、それとシスターが一人。子供達が何かをシスターへ訴えているようだった。

「嘘なんかじゃない、おれ、見たんだ!」
「またそんなことを言って。夢でも見たのでしょう」
「で、でもシスター。ほ、本当だよ。ゆうべ、悪魔が工房にいたんだ」

 子供の言葉に、リリアンは「まあ」と呟き、それが耳に入ったらしいヘレナとクラベルも眉を寄せる。

「教会に、悪魔?」
「穏やかじゃないわね。そんなものが本当にいれば、だけれど」
「ええ、そうですわよね」

 クラベルが言うのに、リリアンも頷く。経典や伝承には数多く存在すれど、神や天使と同じくして悪魔というものも、人の前には姿を現さないものだった。もっとも、ヘレナとクラベルは、天使、という存在は信じきっていたが。目の前にいるのはそういうものだと、心の底から思っている。
 だから正直、悪魔が存在していてもおかしくないと、漠然と感じているのだが、普通の人はそうではない。ましてや神の教徒として、教会で過ごしていたシスターは尚更だ。彼女ははあ、と深く息を吐くと、呆れて二人の子供を見下ろした。

「あなたまでそんな……本当に居たとして、悪魔などという存在が、女神様のおられるこの地に現れるとでも思うの?」
「でも」
「それよりも、夜中に部屋を出てはいけないと言ったでしょう。罰としてあなた達には今日、教会の床という床を磨いて貰いますからね」
「えーーっ!」

 子供達が揃って不満の声を上げている。
 よく分からないが、彼らが夜に部屋を抜け出し、その罰を受けるところだったらしい。もしかしたら、悪魔などという存在をでっち上げて、罰を逃れようとした可能性がある。けれども二人は真剣で、シスターが去った後も顔色が悪い。

「何があったのかしら」

 とても嘘を吐いているようには見えないが、悪魔なんてものがいたとも思えない。リリアンは不思議に思って首を傾げていたのだが、アルベルトが視線を遮るようにすっと前に出る。
 見上げれば、父はいつもの笑顔でこちらを見ていた。

「どうせくだらない事だろう。心配しなくていい。それよりもリリアン、本当に礼拝堂は造らせて貰えないのか? 彫刻も置いて綺麗に飾るつもりなんだが」
「お父様、それはやめて欲しいと言ったはずです」
「ぐっ、そ、そうだが、でも」

 断ると笑顔が歪む。あまりにも苦しそうなので絆されそうになるが、ここで甘い顔をしてはいけない。

「だめです。記念に建物を造っていたら、いつか敷地が埋め尽くされてしまうからやめようと、いつだったか話したではありませんか」
「そ、それは……じゃあ領地になら」
「それもだめだと言った覚えがありますわ」
「ぐ、ぬあっ……!」

 だからだめですよ、と小首を傾げてみせると、アルベルトは呻きながらも納得したようで、それ以上は何も言わなかった。ただ諦めてはいないようで、「そうだ、生誕記念館とかならなんとかなるか!?」などと呟きが聞こえる。もし提案されたら絶対に断ろうとリリアンは決めた。
 非常に重たい記念品を手に、一行は帰路に着くのだった。


 ちなみにヘレナ発注のリリアンのステンドグラスは、納品後、即ヘレナの自室に飾られた。最高の職人会心の出来栄えの作品は実に素晴らしく、見た者は皆呼吸を忘れるほどだった。
 技術や構図もさる事ながら予算の方も最高というわけで、文化財にしようかという話が出たのだが、それを知ったリリアンに止められてしまう。残念に思うヘレナだったが、独り占めできるからそれでもいいかと、毎日ステンドグラスに祈りを捧げた。
 アルベルトの方はと言うと、王都の敷地内にも領地にも、リリアンの生誕を記念するような建物は造られていないから、まあ、そういう事だろう。
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