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生誕祝い編
幕間 朝焼けの再興は琥珀の輝き〜銀朱の爆薬を添えて〜④
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答えるなり視界の端のレイナードが半目になったのを無視し、アルベルトは記憶を呼び起こす。リリアンの様子を伺うのに集中していたために、話の内容は半分ほどしか聞いていなかったのだ。
だが、リリアンにこう言われては全力を尽くす他ない。記憶の中のリリアンに意識を持っていかれつつ、どうすべきか思案する。
リリアンは「クラベルとレイナードが危険に晒されないように」と言った。それと同時に二人の思惑は達成されねばならない。リリアンならそう望むだろう。
クラベルの方ならすぐに片付く。アルベルトはアンバーに視線を向けた。
「貴様が囮になったらどうだ」
一瞬、アンバーは目を丸くするが、すぐに頷いた。クラベルの帰国をコーラルに聞かせ、そこを狙わせるのが目的なら、なにも本人がその場に居なくとも構わないわけだ。
「なるほどね。それはありだ。馬車の中だし誤魔化せるだろう」
了承も得られたわけだし、これでいい。続けてアルベルトの視線は息子の方に向かう。
「それらしさを増すために、お前も同行しろ。馬に乗ってな。あの娘を警戒して見送るよう見せかける」
「分かりました」
「お父さま!?」
リリアンの悲壮な声が響く。今にも涙がこぼれ落ちそうな瞳を覗き込み、アルベルトはそっと囁いた。
「リリアン、心配しなくていい」
「でも」
「大丈夫だ。お父様が嘘を言ったことがあったかい?」
「……それは、ない、ですけれど」
「だったら信じてくれ。この二人が危なくなる事はないから」
な、と念を押すと、リリアンは不安そうにしながらも頷いてくれた。
リリアンの信頼を裏切るわけにはいかない。ひっそりとアルベルトは闘志を燃やした。
◆◆◆
その後は予定していた通りに過ごすことになった。クラベルは主に屋敷で学び、レイナードはこれまでのようにマクスウェルの元へ通う。シエラがたまにリリアンとクラベルを呼ぶのでそれに応じる事もあった。コーラルは相変わらず姿を見せるとレイナードに付き纏い、クラベルには嫌味を言う。リリアンにはアルベルトがくっついているので問題ないが、レイナードが不在の場合、クラベルは言われ放題なのが厄介だ。
意外にもそれを解消してくれたのはシエラだった。事情を知った彼女は、クラベルの臨時の護衛役としてアンバーを雇ってくれた。王城へ赴く際には必ずアンバーが同行する。王家の手配したものなので、それに対してコーラルが不満を言うのは許されない。女性騎士のような出立ちのアンバーはいつも以上に雄々しく、余計にコーラルは強く出られないようだった。捲し立てる勢いは激しいものの、アンバーが居れば短時間で去って行く。ありがたいばかりだ。
……ただ、「呼ばなければいいだろう」「だって可愛い子は見たいじゃない」と、アルベルトとシエラが言い合いになったのは、どうしようもなかった。
心配していたコーラルの行動だが、アンバーやアルベルトを警戒してか、王城では暴挙に出ることはなかった。クラベルが外出もしないので隙がなく、なにも好転しない状況に苛立っているようだ、とアンバーから報告を受ける。それでいいのだろうか、とリリアンはちらりと父親を見るが、アルベルトはにやりと笑みを浮かべただけだった。それがどういう意味なのか、リリアンは首を捻る。
そうしてクラベルの帰国の日がやって来た。
ヴァーミリオン家の紋章が入った馬車をリリアンは見送った。レイナードが馬車を守るように先導していく。
御者を務めるのはベンジャミンだ。念には念を入れた形だが、そこまでしなければならないというのがリリアンの不安を煽る。
「大丈夫かしら……」
思わず溢れたリリアンの呟きには、シルヴィアが応じた。
「きっと大丈夫です。さ、お部屋に戻りましょう。今日のために旦那様が取り寄せた本を準備していますから」
「……うん」
優しく背中を押され、リリアンは屋敷の中へ戻っていった。
◆◆◆
馬車はからからと車輪を鳴らして進んでいく。
王都のヴァーミリオン家の敷地から出た後は、郊外でサングロー家からの護衛と合流し、道を進む。これは滞在中、クラベルと知り合ったアンバーが、彼女の身の上を気にして好意で部下を寄越してくれた、という事になっている。
そこに本家からの人員が混ざったのは、分家の者に任せきりでは面目が立たないと押し切られたのがひとつ。アンバーには止められなかったというのが次の理由だ。同行するのは、本家でコーラルの護衛騎士をしているセトという男の他、しっかりした身元の者達だ。だから安心して欲しいと、そう説明を受けた。実際にはこちらの筋書き通りなので、ベンジャミンが「茶番ですね」と呟いていた。
ヴァーミリオン家からも数人出すつもりだったが、アンバーの部下が三人、サングロー本家からの騎士が六人いる。そこにベンジャミンとレイナードが加わるのならこれ以上は不要だろうと、人は出さない事になった。
途中、広大な草原を横切らないといけないので幾度か休憩を挟む。クラベルという、高位の貴族女性を乗せているという形なので、休憩は長めに設けられた。
警戒を続ける護衛達は、それだけ緊張する時間が伸びるという事だ。レイナードは彼らを労いつつ、馬車の様子も気に掛ける。
本家からの護衛にはこちらの思惑を知られるわけにはいかず、迂闊な行動は取れない。
馬車は囮なのだ。中身がクラベルではない、と気付かれてはいけないので、基本、中に乗った人物は馬車から出なかった。窓も幕をして中が見えないようにしている。
そういう事情なので、中の人物の世話はレイナードの役目となった。食事の時間となれば中身を詰めたバスケットを差し入れる。
「ベル、君の為に用意したんだ。好物ばかりのはずだよ、残さず食べておくれ」
レイナードは彼にしては珍しく、にこやかな笑みを馬車の中へ向けていた。
その言葉は本当で、馬車の中でも食べやすいよう工夫の施されたものだ。特別に用意させたのでそう言ったのだが、普段より大分甘い態度だったせいか、ベンジャミンがわざとらしい咳をしている。
アンバーの部下達は、噂に聞いているよりも表情の柔らかいレイナードの様子に、緊張が解れたようだった。
「ご自身でやらずとも、我々にお任せ下さっても良いのですよ」
「それは無理だ。なんたってベルは、僕の大事な人だからね」
そう言って、にこりと笑みを浮かべる。
恋人が本当に大事なんだろう、そう思わせる笑顔だ。アンバーの部下から「若いっていいな……」なんて囁きが聞こえた。
『クラベル』はこれまでの事からコーラルを警戒し、彼女が寄越したであろう護衛にも近付くのを許さず、馬車から出ない。外に出るのは最低限、宿にも入らないという徹底ぶりだ。そうやって『クラベル』を気遣うふりをしつつ、誰かに見られないように注意を払う、というのはなかなか緊張感のあるものだった。
危惧していた道中での襲撃もなく、やがて国境の目前まで辿り着いた。
草原を抜けた先の道は森に埋没する。と言っても石畳の街道は整備されており、人の手の入った森は明るくて見通しがいい。広い街道で爽やかな風を感じるまま、何事もなければいいのにと目を細めていると、セトを含めた六人の護衛が遮るように馬車の前に飛び出た。慌ててベンジャミンが手綱を引いたせいで、馬がいななく。
「何の真似です」
「黙れ! 大人しくしろ」
「そう言われて大人しくするわけが」
「待った。彼らに従うんだ」
「……レイナード様」
セトとベンジャミンが睨み合うところへ割って入る。不服なのか、ベンジャミンは目を細めていた。
残り三名の護衛は馬車の後方に残っている。今にも飛び出しそうだが、それは視線で制した。作戦を知らない彼らには申し訳ないが、下手に手出しされない方が都合がいい。
「一応、聞いてやるが。目的は?」
「聞くまでもないのでは? 貴殿も分かっているから着いてきたのでしょう?」
セトはどこか蔑むように片方の口角を上げている。
それを金髪の間から見る。ぎろりと睨みつける高さは彼とそれほど変わらない。
「こちらの認識とズレがあったら困るのはそちらさ……そちらでは? 言い訳……弁明するのに、そういうつもりはなかったと言える状況を作っといた方が、いいんじゃないかと思うが」
そう言うと、セトだけでなくその周囲の男達もくつくつと笑い出した。
「弁明? なにを? 令嬢はここで不運にも悪漢に襲われてしまう。無惨にも衣類は破られ汚されてしまうでしょうが……それが何を意味するのか、分からぬ歳でもないでしょう?」
「…………」
「我らはそれを見付けただけですよ。護衛にも婚約者のあなたにも一言も掛けず、勝手に馬車から離れたご令嬢の落ち度だ」
「……そう、か」
短い言葉をどう取ったのか、セトはにやりと口角を上げると左手を上げた。それを合図に男達が馬車の箱を取り囲む。
「抵抗はせず、大人しく従えば、手荒な真似はしない。出て来い!」
セトが叫ぶのにきゅっと眉を寄せる。
実際、コーラルがどう指示したかは知らないが、害するのが前提のくせに手荒にはしないというのは大いなる矛盾だ。敬意を払っているつもりなのか、護衛騎士が騎士服で騎士らしく振る舞うのも鼻につく。
彼らと、それからコーラルのせいで、自分と馬車の中の人物は、三日近くリリアンから離れなければならなかったというのに。
ここまで来ずとも、草原で襲撃してくれても良かったのだ。そうすれば早く帰れるものを。無性に腹立たしく思っていると、セトが別の男に顎で馬車を示した。開けろ、ということらしい。
鍵はかかっているが、窓を破られてはどうしようもない。剣を鞘ごと振りかぶった男達がガラスを割ろうとしたその時、扉が勢いよく内側から開いた。
「うわっ!」
「ギャアッ!!」
どかん、と大きな音を立てて開いた扉は歪んでいる。バキンと金具が吹き飛ぶのが見えた。
それをベンジャミンと二人、あーあ、やったなと眺める。
「な、なん、どうして!?」
男達は混乱しているようだ、動揺する声が聞こえる。扉から現れた人物を見れば、それもそうだろうな、と思わずにいられなかった。
無惨な姿に成り果てた馬車からぬうっと出てきたのは、赤い癖毛——などではなくさらさらの銀の髪。
「遅い!!!!」
そのように思いの丈を叫んだのは、アルベルトその人である。
心の底からそう思っているのかなかなかの声量で、怒りを含む魔力が声に乗って駆け抜けていく。それで近くの木の上からぼとっと小動物が落ちてきた。
小動物だけでなく、馬車を取り囲んでいたうちの一人もくらりと倒れる。
さっき勢いよく開いた扉に強く打ち付けられて伸びてしまった男もいるので、早くも二人が脱落した格好となった。
「なぜ——こんなところに」
セトの驚愕とも取れる呟きが聞こえる。困惑の声はアンバーの部下達からも湧き上がっていた。
情報を知る者は最小限の方がいいからと、仮の作戦も本当の作戦も、知っているのはヴァーミリオン家の三人だけだったのだ。
アンバーの部下達は、状況が掴みきれないながらも倒れた男の拘束を始める。そちらは任せる事にしたベンジャミンは、改めて馬車の方へ視線を向けた。
アルベルトは四人の男に囲まれている。いずれも武器を手にしているのに、アルベルトに臆した様子はない。
「狙いやすいよう、あえて馬車の周囲を無人にしたというのに、何をもたもたしている! 貴様ら、やる気があるのか!?」
それどころかそんな事を叫ぶのだから、むしろ取り囲んだ四人の方が怯んだ。
アンバーの部下達も「えっ」と目を丸くする。
アルベルトが叫んだ理由は無論、リリアンである。早いとこ済ませてさっさと帰りたい、その一心で隙を作ったのに、この連中は当初の計画通り進めるのを優先したのか、作戦を実行しなかった。
良く言えば計画に忠実、悪く言えば柔軟性に欠ける。アルベルトはそれをオブラートに包んだりせずズバリと言い切ったが、周りの男達はともかく、セトだけは動揺もなく静かなものだ。じっとアルベルトを見据える胆力は並大抵のものではない。
「令嬢はどこに」
「そんなものは最初から居ない」
「……くそ、ふざけやがって!」
セトはぎり、と奥歯を鳴らす。
コーラルの筋書きは甘く、なにかしらの障害が起きるだろうとは想像がついた。相手側の妨害も想定内だがこれは想像以上だ。
令息はともかく、公爵本人はまずい。セトの手に負える相手ではない。
ターゲットの令嬢も居ないのだから作戦は中止した方がいいのだろう。しかし残念ながら、ついさっきセトが口を滑らせたばかりだ。
まさか子供のおふざけに公爵が出てくるとは思ってもみなかった。どう切り抜けるかを思案するセトの視界に、金髪が入り込んでくる。
「諦めろ。命は惜しいだろ」
「うるさい! 子供になにが……」
ひとつに括られているそれは、セトの記憶のものよりも少しだけ色味が濃い。
それに気付くと他の違和感も目に入る。
「貴様、公爵令息ではないな!」
「ハッ。今頃気付いたのか?」
レイナードの姿をしていた男が頭髪に手を伸ばすと、金の髪がずるりとずれる。その下から現れたのは焦茶色のよくある髪色だった。
「レイナード様はお屋敷だ。あんた達が狙えそうな相手はここにゃ居ない。諦めるのも手だぜ?」
金髪のかつらを手にしているのはデリックで、地毛を晒した途端、ぴんと伸びていた背筋はへにゃりと縮む。
セトはその姿に見覚えがあった。コーラルに命じられ、レイナードの普段の様子を盗み見た際のことだ。登城するレイナードとクラベルに同行したリリアン、その横にこの男の姿があった。
「使用人風情が主の身代わりを?」
「使用人だからこそだろ。普段付き従ってる分、演じやすいってわけだ」
デリックは得意げにそう言っているが、これも作戦のうち、というよりも、身代わりはリリアンの為に他ならない。
リリアンの望みは「クラベルとレイナードが安全でいて、かつコーラルの思惑が打ち破られること」だ。その為にはレイナードの無事は不可欠になる。いくら腕に覚えがあっても、同行するのはアルベルトが許さなかった。
「レイナード。お前も屋敷に残れ」
「僕だってやれます」
「お前が怪我でもしたら私がリリアンに叱られるだろうが!」
というやり取りがあって、背格好の近いデリックが変装してレイナードに成りすましていたわけである。
デリックはレイナードのふりには自信があったようで、隣のベンジャミンに「ほら、バレなかったっしょ」と言っているが、アンバーの部下達からは「なんだか気さくだったのは、そういうわけだったのか」「どうりで……」などと声が上がっている。直後ベンジャミンがじとりとデリックを見、デリックは気まずそうに視線を外していた。
「くそっ!」
セトは忌々しげに吐き捨てる。セト以外の三人はすっかり気を挫かれていて、じりじりと後退っている有様だ。それもそうだろう、ほとんど無抵抗の少女をちょっと脅かすだけ——そんな風に言われていたのに、自分達が対峙しているのは現在最強と言われている魔法使いなのだ。護衛四人がかりでどうにかなる相手ではない。
しかもその人物は怒りを露わにしている。びりびりと鋭い魔力が肌を突き刺していた。
「くそ、はこちらのセリフだ。見ろこれを! 襲われたせいで馬車が壊れてしまったではないか!」
「いや、自分で蹴破りましたよね旦那様」
「こうなっては反撃もやむを得んよなあ?」
デリックの言葉はまるっと無視される。それも仕方がない話だ、なにせここにはリリアンが居ないのだから。
デリックは丸見えになってしまった馬車の中をちらりと見る。
座席に鎮座していたのはなんとリリアン——の、肖像画である。できる事なら連れて来たかったというのがアルベルトの本音だ。しかし作戦を思えば、いや、そうでないにしても危なすぎて、それは無理だった。
けれども側を離れるのは耐え難く、顔を見られないのは苦痛以外でしかない。仕方がなく選ばれた手段が、こちらを見て微笑むリリアンの絵を持ってくるというものだった。
意外にもこれは有効だった。なにしろリリアンの元を離れて一日、アルベルトの意識は正常な状態を保っている。
だからと言って、我慢ができるかというと、そうではなかった。
馬車ごとアルベルトを取り囲む男達を一瞥すると、ふんと不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「死なない程度には加減をしてやろう。それがリリアンの望みだからな」
言うなりアルベルトの髪が、風も無いのにふわりと靡いた。直後にセト達に向けて、強い殺意のような圧力が吹き付けられる。
喉が締め付けられるような、いや、呼吸しているのを許さないような、そんな圧力だ。それに耐えていると、急に圧力が増す。地面から突き上げるような怒りに似た波動が起き、ぼこりと街道から敷石が剥がれた。浮かび上がった石からは、さらさらと砂がこぼれ落ちている。
これは魔法だ。強力過ぎて地形が変わるとも言われている、アルベルトの魔法。
なんの予備動作もなく発動する魔法を、セト達は見たことがない。ただ強い魔力が起きただけに感じたが、それは確実に自分達を襲うものだったのだ。
呆然と見ていると、ふいに空気が動いた気配がする。それと同時に見えたのは、浮かんだ石がこちらへ向かって飛んでくるところだった。
「うわあっ!」
馬車に一番近い者がまず犠牲になった。悲鳴はその隣にいた男が上げたものだ。最初の犠牲者は顔面と腹部に同時に石を受け、声も上げず倒れ込む。悲鳴を上げた男が逃げようと足を踏み出すと、その足に剥がれた石が降り注ぐ。ギャッと聞こえた声は、すぐに積み重なった石が崩る音で掻き消えてしまった。
セトへ向かってくるのは三つ。これなら無傷でないにしろ、ぎりぎり防ぎきれる。一つ目と二つ目の石を抜き身の剣と鞘とでいなすと大きく左へ跳んだ。これで三つ目は地面に落ちる——はずだった。
どふっと鈍い音を立てて地面に突き刺さった三つ目の石は、そこで勢いを失うかと思いきや、急回転を始める。
「なっ!?」
と同時に凄まじい勢いで砂を巻き上げた。そしてそのまま、地面を抉って駆けるようにセトへ向かってくる。
「く、くそ!」
それだけの動きだが、セトは全力で走らねばならなかった。途中、弾け飛んだ馬車の扉で止めてやろうとしたのだが、回転する石は堅牢なはずの扉を粉々に粉砕してしまったのだ。その間まったく勢いは衰えず、むしろ次はお前だと言わんばかりに回転が早まる始末。
こうなったら障害物の多い森へ逃げ込むしかない、と方向を変えたセトの視界を遮ったのは拳だった。
回り込んだアルベルトの右ストレートが顔面に叩き込まれる。
魔力を込め、振り抜かれた拳は速度を増していた。セト自身が走っていた為に効果はより強く出たらしい。鼻をへし折られた彼の身体は、頭が後方へ、首から下は前方へ押し出されるように地面を滑っていく。
そのせいで見事に仰向けにされた彼は、回転する石に轢かれてしまった。
「うわぁ……」
デリックの情けない声が響く。
見下ろすセトには身体の中心まっすぐに線が入っていた。泥で真っ黒に見えるが、それだけでは済んでいないだろう、多分。
「こんなに弱いならレイナードでも良かったな」
「まったくで」
「そうであれば、貴様の気持ちの悪いセリフを聞かずに済んだものを」
「なんすか、気持ち悪いって! 恋人に囁くとびっきりの決め台詞だったでしょうよ!」
「気持ちの悪いセンスを発揮するな。気持ちが悪い」
「気持ち悪いって言い過ぎじゃねえ!?」
アルベルトとデリックが言い合いをしている間にも、アンバーの部下達はきびきび働いていた。
アルベルトが飛ばした石で伸びた二人とセトは、がっちり縛り上げられている。もう一人残っていたが、そちらもベンジャミンが拘束していた。
あらかじめ付近に荷馬車を用意してあったので、この者達は適当にそれに乗せるつもりである。これでようやく帰れるわけだ。……が。
「どうするんすか。これ、このまま走ったりしたら、肖像画落っこちません?」
ヴァーミリオン家自慢の馬車は扉を失っている。荷物の中の布を張るにしても少し不格好だ。まさかそんなものにご当主様を乗せるわけにはいかなかったのだが、アルベルトはキッと目を釣り上げている。
「私がリリアンを落とすわけないだろうが!」
「あー……そうっすね。すいやせん」
大きな額縁をしっかり抱えるアルベルトは本気そのものだ。
これは見栄えとか格式とか、そういうのを持ち出しても意味がないだろう。
どっしり座り、リリアンを落とすまいとするアルベルトからベンジャミンへ視線を移すと、どこか諦めたように頷かれた。
だが、リリアンにこう言われては全力を尽くす他ない。記憶の中のリリアンに意識を持っていかれつつ、どうすべきか思案する。
リリアンは「クラベルとレイナードが危険に晒されないように」と言った。それと同時に二人の思惑は達成されねばならない。リリアンならそう望むだろう。
クラベルの方ならすぐに片付く。アルベルトはアンバーに視線を向けた。
「貴様が囮になったらどうだ」
一瞬、アンバーは目を丸くするが、すぐに頷いた。クラベルの帰国をコーラルに聞かせ、そこを狙わせるのが目的なら、なにも本人がその場に居なくとも構わないわけだ。
「なるほどね。それはありだ。馬車の中だし誤魔化せるだろう」
了承も得られたわけだし、これでいい。続けてアルベルトの視線は息子の方に向かう。
「それらしさを増すために、お前も同行しろ。馬に乗ってな。あの娘を警戒して見送るよう見せかける」
「分かりました」
「お父さま!?」
リリアンの悲壮な声が響く。今にも涙がこぼれ落ちそうな瞳を覗き込み、アルベルトはそっと囁いた。
「リリアン、心配しなくていい」
「でも」
「大丈夫だ。お父様が嘘を言ったことがあったかい?」
「……それは、ない、ですけれど」
「だったら信じてくれ。この二人が危なくなる事はないから」
な、と念を押すと、リリアンは不安そうにしながらも頷いてくれた。
リリアンの信頼を裏切るわけにはいかない。ひっそりとアルベルトは闘志を燃やした。
◆◆◆
その後は予定していた通りに過ごすことになった。クラベルは主に屋敷で学び、レイナードはこれまでのようにマクスウェルの元へ通う。シエラがたまにリリアンとクラベルを呼ぶのでそれに応じる事もあった。コーラルは相変わらず姿を見せるとレイナードに付き纏い、クラベルには嫌味を言う。リリアンにはアルベルトがくっついているので問題ないが、レイナードが不在の場合、クラベルは言われ放題なのが厄介だ。
意外にもそれを解消してくれたのはシエラだった。事情を知った彼女は、クラベルの臨時の護衛役としてアンバーを雇ってくれた。王城へ赴く際には必ずアンバーが同行する。王家の手配したものなので、それに対してコーラルが不満を言うのは許されない。女性騎士のような出立ちのアンバーはいつも以上に雄々しく、余計にコーラルは強く出られないようだった。捲し立てる勢いは激しいものの、アンバーが居れば短時間で去って行く。ありがたいばかりだ。
……ただ、「呼ばなければいいだろう」「だって可愛い子は見たいじゃない」と、アルベルトとシエラが言い合いになったのは、どうしようもなかった。
心配していたコーラルの行動だが、アンバーやアルベルトを警戒してか、王城では暴挙に出ることはなかった。クラベルが外出もしないので隙がなく、なにも好転しない状況に苛立っているようだ、とアンバーから報告を受ける。それでいいのだろうか、とリリアンはちらりと父親を見るが、アルベルトはにやりと笑みを浮かべただけだった。それがどういう意味なのか、リリアンは首を捻る。
そうしてクラベルの帰国の日がやって来た。
ヴァーミリオン家の紋章が入った馬車をリリアンは見送った。レイナードが馬車を守るように先導していく。
御者を務めるのはベンジャミンだ。念には念を入れた形だが、そこまでしなければならないというのがリリアンの不安を煽る。
「大丈夫かしら……」
思わず溢れたリリアンの呟きには、シルヴィアが応じた。
「きっと大丈夫です。さ、お部屋に戻りましょう。今日のために旦那様が取り寄せた本を準備していますから」
「……うん」
優しく背中を押され、リリアンは屋敷の中へ戻っていった。
◆◆◆
馬車はからからと車輪を鳴らして進んでいく。
王都のヴァーミリオン家の敷地から出た後は、郊外でサングロー家からの護衛と合流し、道を進む。これは滞在中、クラベルと知り合ったアンバーが、彼女の身の上を気にして好意で部下を寄越してくれた、という事になっている。
そこに本家からの人員が混ざったのは、分家の者に任せきりでは面目が立たないと押し切られたのがひとつ。アンバーには止められなかったというのが次の理由だ。同行するのは、本家でコーラルの護衛騎士をしているセトという男の他、しっかりした身元の者達だ。だから安心して欲しいと、そう説明を受けた。実際にはこちらの筋書き通りなので、ベンジャミンが「茶番ですね」と呟いていた。
ヴァーミリオン家からも数人出すつもりだったが、アンバーの部下が三人、サングロー本家からの騎士が六人いる。そこにベンジャミンとレイナードが加わるのならこれ以上は不要だろうと、人は出さない事になった。
途中、広大な草原を横切らないといけないので幾度か休憩を挟む。クラベルという、高位の貴族女性を乗せているという形なので、休憩は長めに設けられた。
警戒を続ける護衛達は、それだけ緊張する時間が伸びるという事だ。レイナードは彼らを労いつつ、馬車の様子も気に掛ける。
本家からの護衛にはこちらの思惑を知られるわけにはいかず、迂闊な行動は取れない。
馬車は囮なのだ。中身がクラベルではない、と気付かれてはいけないので、基本、中に乗った人物は馬車から出なかった。窓も幕をして中が見えないようにしている。
そういう事情なので、中の人物の世話はレイナードの役目となった。食事の時間となれば中身を詰めたバスケットを差し入れる。
「ベル、君の為に用意したんだ。好物ばかりのはずだよ、残さず食べておくれ」
レイナードは彼にしては珍しく、にこやかな笑みを馬車の中へ向けていた。
その言葉は本当で、馬車の中でも食べやすいよう工夫の施されたものだ。特別に用意させたのでそう言ったのだが、普段より大分甘い態度だったせいか、ベンジャミンがわざとらしい咳をしている。
アンバーの部下達は、噂に聞いているよりも表情の柔らかいレイナードの様子に、緊張が解れたようだった。
「ご自身でやらずとも、我々にお任せ下さっても良いのですよ」
「それは無理だ。なんたってベルは、僕の大事な人だからね」
そう言って、にこりと笑みを浮かべる。
恋人が本当に大事なんだろう、そう思わせる笑顔だ。アンバーの部下から「若いっていいな……」なんて囁きが聞こえた。
『クラベル』はこれまでの事からコーラルを警戒し、彼女が寄越したであろう護衛にも近付くのを許さず、馬車から出ない。外に出るのは最低限、宿にも入らないという徹底ぶりだ。そうやって『クラベル』を気遣うふりをしつつ、誰かに見られないように注意を払う、というのはなかなか緊張感のあるものだった。
危惧していた道中での襲撃もなく、やがて国境の目前まで辿り着いた。
草原を抜けた先の道は森に埋没する。と言っても石畳の街道は整備されており、人の手の入った森は明るくて見通しがいい。広い街道で爽やかな風を感じるまま、何事もなければいいのにと目を細めていると、セトを含めた六人の護衛が遮るように馬車の前に飛び出た。慌ててベンジャミンが手綱を引いたせいで、馬がいななく。
「何の真似です」
「黙れ! 大人しくしろ」
「そう言われて大人しくするわけが」
「待った。彼らに従うんだ」
「……レイナード様」
セトとベンジャミンが睨み合うところへ割って入る。不服なのか、ベンジャミンは目を細めていた。
残り三名の護衛は馬車の後方に残っている。今にも飛び出しそうだが、それは視線で制した。作戦を知らない彼らには申し訳ないが、下手に手出しされない方が都合がいい。
「一応、聞いてやるが。目的は?」
「聞くまでもないのでは? 貴殿も分かっているから着いてきたのでしょう?」
セトはどこか蔑むように片方の口角を上げている。
それを金髪の間から見る。ぎろりと睨みつける高さは彼とそれほど変わらない。
「こちらの認識とズレがあったら困るのはそちらさ……そちらでは? 言い訳……弁明するのに、そういうつもりはなかったと言える状況を作っといた方が、いいんじゃないかと思うが」
そう言うと、セトだけでなくその周囲の男達もくつくつと笑い出した。
「弁明? なにを? 令嬢はここで不運にも悪漢に襲われてしまう。無惨にも衣類は破られ汚されてしまうでしょうが……それが何を意味するのか、分からぬ歳でもないでしょう?」
「…………」
「我らはそれを見付けただけですよ。護衛にも婚約者のあなたにも一言も掛けず、勝手に馬車から離れたご令嬢の落ち度だ」
「……そう、か」
短い言葉をどう取ったのか、セトはにやりと口角を上げると左手を上げた。それを合図に男達が馬車の箱を取り囲む。
「抵抗はせず、大人しく従えば、手荒な真似はしない。出て来い!」
セトが叫ぶのにきゅっと眉を寄せる。
実際、コーラルがどう指示したかは知らないが、害するのが前提のくせに手荒にはしないというのは大いなる矛盾だ。敬意を払っているつもりなのか、護衛騎士が騎士服で騎士らしく振る舞うのも鼻につく。
彼らと、それからコーラルのせいで、自分と馬車の中の人物は、三日近くリリアンから離れなければならなかったというのに。
ここまで来ずとも、草原で襲撃してくれても良かったのだ。そうすれば早く帰れるものを。無性に腹立たしく思っていると、セトが別の男に顎で馬車を示した。開けろ、ということらしい。
鍵はかかっているが、窓を破られてはどうしようもない。剣を鞘ごと振りかぶった男達がガラスを割ろうとしたその時、扉が勢いよく内側から開いた。
「うわっ!」
「ギャアッ!!」
どかん、と大きな音を立てて開いた扉は歪んでいる。バキンと金具が吹き飛ぶのが見えた。
それをベンジャミンと二人、あーあ、やったなと眺める。
「な、なん、どうして!?」
男達は混乱しているようだ、動揺する声が聞こえる。扉から現れた人物を見れば、それもそうだろうな、と思わずにいられなかった。
無惨な姿に成り果てた馬車からぬうっと出てきたのは、赤い癖毛——などではなくさらさらの銀の髪。
「遅い!!!!」
そのように思いの丈を叫んだのは、アルベルトその人である。
心の底からそう思っているのかなかなかの声量で、怒りを含む魔力が声に乗って駆け抜けていく。それで近くの木の上からぼとっと小動物が落ちてきた。
小動物だけでなく、馬車を取り囲んでいたうちの一人もくらりと倒れる。
さっき勢いよく開いた扉に強く打ち付けられて伸びてしまった男もいるので、早くも二人が脱落した格好となった。
「なぜ——こんなところに」
セトの驚愕とも取れる呟きが聞こえる。困惑の声はアンバーの部下達からも湧き上がっていた。
情報を知る者は最小限の方がいいからと、仮の作戦も本当の作戦も、知っているのはヴァーミリオン家の三人だけだったのだ。
アンバーの部下達は、状況が掴みきれないながらも倒れた男の拘束を始める。そちらは任せる事にしたベンジャミンは、改めて馬車の方へ視線を向けた。
アルベルトは四人の男に囲まれている。いずれも武器を手にしているのに、アルベルトに臆した様子はない。
「狙いやすいよう、あえて馬車の周囲を無人にしたというのに、何をもたもたしている! 貴様ら、やる気があるのか!?」
それどころかそんな事を叫ぶのだから、むしろ取り囲んだ四人の方が怯んだ。
アンバーの部下達も「えっ」と目を丸くする。
アルベルトが叫んだ理由は無論、リリアンである。早いとこ済ませてさっさと帰りたい、その一心で隙を作ったのに、この連中は当初の計画通り進めるのを優先したのか、作戦を実行しなかった。
良く言えば計画に忠実、悪く言えば柔軟性に欠ける。アルベルトはそれをオブラートに包んだりせずズバリと言い切ったが、周りの男達はともかく、セトだけは動揺もなく静かなものだ。じっとアルベルトを見据える胆力は並大抵のものではない。
「令嬢はどこに」
「そんなものは最初から居ない」
「……くそ、ふざけやがって!」
セトはぎり、と奥歯を鳴らす。
コーラルの筋書きは甘く、なにかしらの障害が起きるだろうとは想像がついた。相手側の妨害も想定内だがこれは想像以上だ。
令息はともかく、公爵本人はまずい。セトの手に負える相手ではない。
ターゲットの令嬢も居ないのだから作戦は中止した方がいいのだろう。しかし残念ながら、ついさっきセトが口を滑らせたばかりだ。
まさか子供のおふざけに公爵が出てくるとは思ってもみなかった。どう切り抜けるかを思案するセトの視界に、金髪が入り込んでくる。
「諦めろ。命は惜しいだろ」
「うるさい! 子供になにが……」
ひとつに括られているそれは、セトの記憶のものよりも少しだけ色味が濃い。
それに気付くと他の違和感も目に入る。
「貴様、公爵令息ではないな!」
「ハッ。今頃気付いたのか?」
レイナードの姿をしていた男が頭髪に手を伸ばすと、金の髪がずるりとずれる。その下から現れたのは焦茶色のよくある髪色だった。
「レイナード様はお屋敷だ。あんた達が狙えそうな相手はここにゃ居ない。諦めるのも手だぜ?」
金髪のかつらを手にしているのはデリックで、地毛を晒した途端、ぴんと伸びていた背筋はへにゃりと縮む。
セトはその姿に見覚えがあった。コーラルに命じられ、レイナードの普段の様子を盗み見た際のことだ。登城するレイナードとクラベルに同行したリリアン、その横にこの男の姿があった。
「使用人風情が主の身代わりを?」
「使用人だからこそだろ。普段付き従ってる分、演じやすいってわけだ」
デリックは得意げにそう言っているが、これも作戦のうち、というよりも、身代わりはリリアンの為に他ならない。
リリアンの望みは「クラベルとレイナードが安全でいて、かつコーラルの思惑が打ち破られること」だ。その為にはレイナードの無事は不可欠になる。いくら腕に覚えがあっても、同行するのはアルベルトが許さなかった。
「レイナード。お前も屋敷に残れ」
「僕だってやれます」
「お前が怪我でもしたら私がリリアンに叱られるだろうが!」
というやり取りがあって、背格好の近いデリックが変装してレイナードに成りすましていたわけである。
デリックはレイナードのふりには自信があったようで、隣のベンジャミンに「ほら、バレなかったっしょ」と言っているが、アンバーの部下達からは「なんだか気さくだったのは、そういうわけだったのか」「どうりで……」などと声が上がっている。直後ベンジャミンがじとりとデリックを見、デリックは気まずそうに視線を外していた。
「くそっ!」
セトは忌々しげに吐き捨てる。セト以外の三人はすっかり気を挫かれていて、じりじりと後退っている有様だ。それもそうだろう、ほとんど無抵抗の少女をちょっと脅かすだけ——そんな風に言われていたのに、自分達が対峙しているのは現在最強と言われている魔法使いなのだ。護衛四人がかりでどうにかなる相手ではない。
しかもその人物は怒りを露わにしている。びりびりと鋭い魔力が肌を突き刺していた。
「くそ、はこちらのセリフだ。見ろこれを! 襲われたせいで馬車が壊れてしまったではないか!」
「いや、自分で蹴破りましたよね旦那様」
「こうなっては反撃もやむを得んよなあ?」
デリックの言葉はまるっと無視される。それも仕方がない話だ、なにせここにはリリアンが居ないのだから。
デリックは丸見えになってしまった馬車の中をちらりと見る。
座席に鎮座していたのはなんとリリアン——の、肖像画である。できる事なら連れて来たかったというのがアルベルトの本音だ。しかし作戦を思えば、いや、そうでないにしても危なすぎて、それは無理だった。
けれども側を離れるのは耐え難く、顔を見られないのは苦痛以外でしかない。仕方がなく選ばれた手段が、こちらを見て微笑むリリアンの絵を持ってくるというものだった。
意外にもこれは有効だった。なにしろリリアンの元を離れて一日、アルベルトの意識は正常な状態を保っている。
だからと言って、我慢ができるかというと、そうではなかった。
馬車ごとアルベルトを取り囲む男達を一瞥すると、ふんと不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「死なない程度には加減をしてやろう。それがリリアンの望みだからな」
言うなりアルベルトの髪が、風も無いのにふわりと靡いた。直後にセト達に向けて、強い殺意のような圧力が吹き付けられる。
喉が締め付けられるような、いや、呼吸しているのを許さないような、そんな圧力だ。それに耐えていると、急に圧力が増す。地面から突き上げるような怒りに似た波動が起き、ぼこりと街道から敷石が剥がれた。浮かび上がった石からは、さらさらと砂がこぼれ落ちている。
これは魔法だ。強力過ぎて地形が変わるとも言われている、アルベルトの魔法。
なんの予備動作もなく発動する魔法を、セト達は見たことがない。ただ強い魔力が起きただけに感じたが、それは確実に自分達を襲うものだったのだ。
呆然と見ていると、ふいに空気が動いた気配がする。それと同時に見えたのは、浮かんだ石がこちらへ向かって飛んでくるところだった。
「うわあっ!」
馬車に一番近い者がまず犠牲になった。悲鳴はその隣にいた男が上げたものだ。最初の犠牲者は顔面と腹部に同時に石を受け、声も上げず倒れ込む。悲鳴を上げた男が逃げようと足を踏み出すと、その足に剥がれた石が降り注ぐ。ギャッと聞こえた声は、すぐに積み重なった石が崩る音で掻き消えてしまった。
セトへ向かってくるのは三つ。これなら無傷でないにしろ、ぎりぎり防ぎきれる。一つ目と二つ目の石を抜き身の剣と鞘とでいなすと大きく左へ跳んだ。これで三つ目は地面に落ちる——はずだった。
どふっと鈍い音を立てて地面に突き刺さった三つ目の石は、そこで勢いを失うかと思いきや、急回転を始める。
「なっ!?」
と同時に凄まじい勢いで砂を巻き上げた。そしてそのまま、地面を抉って駆けるようにセトへ向かってくる。
「く、くそ!」
それだけの動きだが、セトは全力で走らねばならなかった。途中、弾け飛んだ馬車の扉で止めてやろうとしたのだが、回転する石は堅牢なはずの扉を粉々に粉砕してしまったのだ。その間まったく勢いは衰えず、むしろ次はお前だと言わんばかりに回転が早まる始末。
こうなったら障害物の多い森へ逃げ込むしかない、と方向を変えたセトの視界を遮ったのは拳だった。
回り込んだアルベルトの右ストレートが顔面に叩き込まれる。
魔力を込め、振り抜かれた拳は速度を増していた。セト自身が走っていた為に効果はより強く出たらしい。鼻をへし折られた彼の身体は、頭が後方へ、首から下は前方へ押し出されるように地面を滑っていく。
そのせいで見事に仰向けにされた彼は、回転する石に轢かれてしまった。
「うわぁ……」
デリックの情けない声が響く。
見下ろすセトには身体の中心まっすぐに線が入っていた。泥で真っ黒に見えるが、それだけでは済んでいないだろう、多分。
「こんなに弱いならレイナードでも良かったな」
「まったくで」
「そうであれば、貴様の気持ちの悪いセリフを聞かずに済んだものを」
「なんすか、気持ち悪いって! 恋人に囁くとびっきりの決め台詞だったでしょうよ!」
「気持ちの悪いセンスを発揮するな。気持ちが悪い」
「気持ち悪いって言い過ぎじゃねえ!?」
アルベルトとデリックが言い合いをしている間にも、アンバーの部下達はきびきび働いていた。
アルベルトが飛ばした石で伸びた二人とセトは、がっちり縛り上げられている。もう一人残っていたが、そちらもベンジャミンが拘束していた。
あらかじめ付近に荷馬車を用意してあったので、この者達は適当にそれに乗せるつもりである。これでようやく帰れるわけだ。……が。
「どうするんすか。これ、このまま走ったりしたら、肖像画落っこちません?」
ヴァーミリオン家自慢の馬車は扉を失っている。荷物の中の布を張るにしても少し不格好だ。まさかそんなものにご当主様を乗せるわけにはいかなかったのだが、アルベルトはキッと目を釣り上げている。
「私がリリアンを落とすわけないだろうが!」
「あー……そうっすね。すいやせん」
大きな額縁をしっかり抱えるアルベルトは本気そのものだ。
これは見栄えとか格式とか、そういうのを持ち出しても意味がないだろう。
どっしり座り、リリアンを落とすまいとするアルベルトからベンジャミンへ視線を移すと、どこか諦めたように頷かれた。
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