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第2話 金色の檻
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重い瞼を開けると、見慣れぬ景色が広がっていた。
濃紺のベルベットで覆われた天蓋。金糸で刺繍された、過剰なまでに装飾的な紋様。レヴィはゆっくりと首を巡らせる。
豪華絢爛――だが趣味が悪い。
ベッドルームらしいが、あちこちに彫刻が置かれている。大理石の女神像、翼を広げた天使、筋骨隆々の英雄。どれも造形は美しいが、かといって、こうゾロゾロと寝室に並べて置くものではない気がする。ただの人形だと理解していても、視線を感じるようで落ち着かない……。
シーツは深紅の柄物。サイドテーブルも無駄に凝った作り。視界いっぱいに押し寄せる過剰装飾。まるで成金趣味の見本市のような部屋だった。
(ここは、どこだ……?)
身を起こそうとして、レヴィは自分の体が思うように動かないことに気づく。手足に力が入らない。魔力の流れも滞っている。何らかの術を掛けられているのは明白だった。
「あっ、おはよう」
聞き覚えのある声に、レヴィは鋭い視線を向ける。
あの荒れ地で出会った謎の男――…
『ベヘモット』が、ベッドの傍らの椅子に腰掛けていた。上着を脱ぎ、シャツの袖を適当にまくっている。まるで自宅で寛いでいるかのような、余裕の態度だった。
「結構疲れてたんじゃない?ぐっすりだったよ」
レヴィは無言で睨みつける。状況から察するに、この男に何かされたのは間違いない。しかし、ベヘモットは涼しい顔で続けた。
「ああそうだ、それで……君に紹介したい仕事の話なんだけどさ」
金色の目が、不穏に細められる。月光の下で見せた冷たさとは違う、何か別の感情を孕んだ光。レヴィは身構えようとしたが、体は相変わらず言うことを聞かない。
広いベッドの上で、レヴィは無防備に横たわったまま。そしてベヘモットは、まるで親しい友人に話しかけるような調子で、ゆっくりと口を開いた。
「君もしかして、お金に困ってたの?」
ベヘモットの声は、まるで午後のお茶会で世間話をするような軽やかさだった。椅子の背もたれに優雅に寄りかかり、組んだ脚を軽く揺らしている。金色の瞳が、ベッドに横たわるレヴィを値踏みするように見つめていた。
「そうは見えないけど……でも魔術師さんって、色々物入りだもんね」
レヴィは顔を顰めた。体は動かないが、表情筋だけは自由らしい。この微妙な呪いの匙加減に、相手の性格の悪さが滲み出ている。
部屋の窓から差し込む朝日が、佇む彫刻群に複雑な影を作っていた。
「君の仕事履歴、見させてもらったらさ」
ベヘモットは懐から羊皮紙の束を取り出す。ギルドの正式な書類のようだが、本来なら許可なく閲覧できるはずがない。何らかの手段で裏から入手したか、あるいは本当に――…こうも羽振りの良さそうな奴が、ただのギルドの職員であったなら。それはそれで恐ろしい。
「なんか報酬優先、って感じだったから。よければ、魔族狩りよりも……楽で実入りの良い仕事、紹介するよ?」
にこりと微笑む。人当たりの良い笑顔だが、レヴィには獣が牙を隠した表情にしか見えなかった。
「君にしかできない仕事なんだ。興味ない?」
レヴィは、ベヘモットの胡散臭い言葉にもだが、この状況に苛立っていた。高級そうなシーツに沈み込む自分の体。身動き一つ取れない屈辱。そして何より、相手の真意が読めないことへの苛立ち。
悪い予感しかしない。
「貴様……何のつもりだ?」
睨みつけながら尋ねる。声だけは普段通りに出せることが、せめてもの救いだった。
ベヘモットは、くすくすと笑う。まるで子供が面白い玩具を見つけたような、無邪気で残酷な笑い声。
「あは……美人って怒った顔も可愛いよね」
誂うように言いながら、椅子から立ち上がる。ゆっくりとベッドに近づいてくる足音が、妙に大きく響いた。
レヴィはますます眉間に皺を寄せた。黒い瞳に、魔術師としての矜持が燃え上がる。
「私に掛けた術を解け!さもなくば……」
喉の奥で、術の詠唱を始める。攻撃術ではなく…神経を麻痺させ、相手を足止めする呪術だ。首から下は動かないが、詠唱は可能。こちらが動けないなら……的の動きも封じた方が良い。というか、この軽薄そうな奴を早く黙らせたい。
「だめだめ!」
ベヘモットは慌てたように、横たわるレヴィの肩を掴む。
「よしてよ!そんなことしたら――」
切迫した制止の声が響く。しかし、次の瞬間、レヴィはその意味を理解した。
喉に焼けるような痛みが走る。まるで煮えたぎる鉛を流し込まれたような激痛。堪らず咳き込み、呪文詠唱は無残に中断された。
「げほっ……!」
レヴィは動揺する。生理的に涙が滲む。これは一体何の呪いだ。詠唱阻害の術式は知っているが、ここまで直接的に苦痛を与えるものは聞いたことがない。
「ほら、言わんこっちゃない……」
ベヘモットはベッドの端に腰を下ろす。高そうな布の擦れる音が、静かな部屋に響いた。
荒事とは無縁そうな、滑らかな指先が……レヴィの首筋を撫でる。ひんやりとした感触に、レヴィは身を震わせたいが、それすらできない。
「痛いでしょ?……ごめんね、でも殺し合うよりマシだからさ」
その言葉に含まれる真実味が、レヴィの背筋を凍らせた。この男――いや、この魔族は本気だ。必要とあらば、いつでもこちらを殺せるのだろう。
レヴィは喉に何らかの呪いを掛けられたことを察す。呪文の詠唱を阻止する高度な術式。しかも苦痛を伴うが、外傷はつかず。意識は保たれるという。人質相手には大変実用的で……悪趣味な代物。
ベヘモットは、睨んでくるレヴィへ優しげな声で言う。
「ああ、可哀想。今楽にしてあげるから……」
不穏な言葉に、レヴィは身構えようとした。体は動かないが、せめて心だけは屈しまいと。
しかし、次の瞬間、ベヘモットの顔が急速に近づいてくる。金色の瞳が、間近で妖しく輝いた。
そして――
唇が重なる。
レヴィは抵抗できない。驚きと怒りと、そして恐怖が混ざり合う。ベヘモットの舌が、強引に口内に侵入してくる。
互いの唾液が混じった瞬間、不思議なことが起きた。喉の痛みが、まるで雪解けのように引いていく。焼けるような苦痛が、涼やかな感覚に変わっていった。
ベヘモットはゆっくりと顔を離す。唇の端に残る銀糸を、指先で拭いながら満足げに微笑んだ。
「どう?楽になった?」
白々しい問いかけ。レヴィは息を整えながら……湧き上がる嗚咽を抑え、鋭く問い返す。
「貴様……何の呪いを……?」
動揺で声は掠れていたが、先ほどの激痛は嘘のように消えていた。しかし、それがかえって不気味だった。痛みを与え、そして癒す。まるで飴と鞭を使い分ける調教師のような。
レヴィは思考を巡らせる。仮に強力な魔族だとしても、相手の狙いが読めない。暴漢の如く、女性に乱暴を?だがわざわざ、面倒な呪いを掛けてまで、人間一人を相手に……そんなことをするものか?これだけの術が使えるなら、もっと大人数を相手に狩りをしたほうが、効率は良いはずだ。魔術師一人をいたぶるより、はるかに多量の生気を得られる。
背筋がヒヤリとした。自分は……何らかの『実験体』にする目的で囚われた可能性が、高い。
魔術師の体は……職業柄、日々の鍛錬で魔力の循環は整えられている。魔族にとっては扱い易い研究材料になるのかもしれない。酷い仕打ちを受けるくらいならばと、最悪……自害という選択肢も脳裏を過った。しかし、呪文と身動きを封じられては打つ手が無い。
ベヘモットは、回答がわりにレヴィへ、諭すように言う。
「とにかく、危ない呪文はだめだよ。さっきので分かったでしょ?」
慈悲深さすら感じる眼差し。怒りを穏やかに飲み込み、まるで子供に言って聞かせるような優しい声音。しかし、やっている事は誘拐、拘束、五感に苦痛を与えてのコントロール。と、何とも悍ましいもの。
「……単刀直入に言おうか」
ベヘモットは立ち上がり、まっすぐに言う。
「僕の愛人にならない?」
そして、ゆらゆらと部屋の中を歩き始める。飾られた彫刻の間を縫うように移動しながら、どこか遠い目をして呟く。
「君さ、結構僕の好みなんだよね」
大理石の女神像の頬を、愛おしげに撫でる。
しかし、すぐ飽きたように、振り返って肩を竦めてくる。
「彫刻も良いんだけど……やっぱり生身は違う良さがあるっていうか」
金色の目がレヴィを見つめている。不躾な視線で、肉体の輪郭を執拗になぞられている……落ち着かない感覚。
レヴィは、苛立ちに眉を顰めた。馬鹿げた提案だ。魔族の愛人など、生きたまま生気を吸われる家畜と同じ。なりたくてなる者がどこにいるのか。
しかしベヘモットは、レヴィの態度を見て楽しげに笑う。
「そうそう、そういう顔だよ!」
まるで待ち望んでいた反応を見られたかのような歓喜。
「……ふふ、あー可愛い。構われて、迷惑そうにしてる猫ちゃんみたい」
窓際に置かれた天使像の翼を指でなぞりながら、ベヘモットは続ける。
「彫刻は術で動かさないと、動いてくれないからさ。予想外の動きをしてくれなくて……つまらないんだよねー。操るにしても、カラクリより…人間のほうが、動きが柔らかくて好きなんだ。まあ、その分ちょっと壊れやすいけど」
最早、魔族であることを隠す気もないようだ。金色の眼は明らかに人外の輝きをしている。瞳孔が縦に細まり、爬虫類めいた印象を与えた。
レヴィは毅然と言い放つ。
「断る」
声に力を込める。
「魔族の玩具になる趣味はない」
ベヘモットは拗ねたように、困り顔をする。しかし、さほど深刻さは感じられない。まるで、半分予想通りの答えだったとでも言うように。
「玩具じゃないよ、なんだろう……?」
人差し指を立てて、考える素振りを見せる。
「可愛いペット……、じゃなくて、……ね!だから愛人だよ。つまり、僕に愛される人」
言い切って、にっこりと笑う。その笑顔が、どこか不穏に……ギラついて見えたのは、気のせいではないだろう。
「ほら、お金が必要ならあげるよ?」
懐から、何かを取り出す。パサリと乾いた音が立つ。封筒から顔を覗かせた紙幣の束が、ベッドの上に転がった。
「暑苦しい下級魔族の返り血を浴びて、死体剥ぐよりもさ……」
紙幣を一枚抜き取り、ヒラヒラと指先で弄ぶ。
「僕と仲良く触れ合って、健康的に汗をかくほうが……良い仕事だと思わない?」
最後に付け加える。
「シャワーも付けるし」
レヴィは即答する。
「思わない」
ベヘモットのふざけた告白が本気かも怪しい。契約という口約束を使い、さらなる呪いを強めるための――『言質』を取ろうとしているのかもしれない。魔族との契約は、時に魂まで縛る危険な代物だ。
ベヘモットは残念そうに嘆息する。
「そんなあ……どうして?これじゃ足りない?あっ、貴金属のほうが好きとか?
とりあえず、狩りをお休みする間のお金は払うからさぁ。一週間からでも……試してみない?きっと楽しいよ」
眉を下げ、ベッドの横へしゃがみ込み。縋るように、レヴィを見つめて言う。しかし、その演技臭さがかえって不気味だった。
レヴィは睨んで言い放つ。
「女好きで金があるなら、そういう店で豪遊してきたらいいだろう」
冷たい正論。しかしベヘモットは、やれやれ、という顔をした。肩を竦め、大袈裟にため息をつく。
「だからさぁ……君が良いって言ってるの!」
ベッドに再び腰を下ろし、腕を組む。今度は、レヴィのすぐ隣に。
「好みの子が居たら、既に店ごと囲ってるよ」
恐ろしいことを、さらりと言う。店ごと囲うという発想が、既に人間のものではない。
「頑張って探したけど……僕のストライクゾーンにハマる子が居なかったから、困ってたの」
レヴィを見つめ、ベヘモットはほくそ笑む。まるで掘り出し物を見つけた蒐集家のように、品定めする視線。
「君も幸運だったね」
指先で、レヴィの黒髪を一房掬い上げる。絹のような感触を確かめるように、指の間で転がした。
「僕も、魔術師退治なんて面倒な仕事……普段なら蹴っちゃうんだけどさ」
髪を離し、今度は頬に手を伸ばす。
「結構可愛いって聞いて。一応見るだけ見てから……って思って受けてみたら、これが大当たり!」
頬を撫でる手つきは、まるで高価な美術品を扱うように丁寧で、それがかえって薄気味悪い。
「いやー、本当、運命だよ。まるで僕に可愛がられる為に生まれてきたみたい!いつも頑張ってる僕に、神様がプレゼントしてくれたのかも!?」
ベヘモットはご機嫌に、満足そうに頷く。
「よかった、他の魔族に任せたら、見せしめに処刑されるか……実験体として、使い魔の苗床にされてジワジワ苦しんだかもしれないもの。
それにしても、酷いよねぇ?何で皆、あんなことするのかな。こんなに可愛い人間にさ……。
魔族狩りに走っちゃうのは、満たされてないだけだよね?狩りは君たちの本能だもの。
君たちだって、温かいところで寝て、たくさん遊んで、食べるものに困らなくなれば。暴れずにお利口さんにしててくれるよね。
お話すれば、きっと分かりあえるはずなんだよ……ねえ?」
金色の瞳に、憐憫の色が浮かぶ。しかしそれも一瞬で、すぐに独占欲に満ちた輝きに変わった。脅しにも聞こえる不気味な理想論で、畳み掛けてくる。有無を言わせぬ圧。
「……君が無事でよかった」
ベヘモットが向けてきた微笑みに、レヴィは苛立った。無事なものか。言葉は通じる。しかし言葉の壁以上に大きな、価値観の隔たりがある。話し合いという名の……一方的な要求にしかなっていない。
しかしレヴィとて、このまま玩具にされるつもりはなかった。この独善的な支配から、逃れる方法を考えなくては……。
濃紺のベルベットで覆われた天蓋。金糸で刺繍された、過剰なまでに装飾的な紋様。レヴィはゆっくりと首を巡らせる。
豪華絢爛――だが趣味が悪い。
ベッドルームらしいが、あちこちに彫刻が置かれている。大理石の女神像、翼を広げた天使、筋骨隆々の英雄。どれも造形は美しいが、かといって、こうゾロゾロと寝室に並べて置くものではない気がする。ただの人形だと理解していても、視線を感じるようで落ち着かない……。
シーツは深紅の柄物。サイドテーブルも無駄に凝った作り。視界いっぱいに押し寄せる過剰装飾。まるで成金趣味の見本市のような部屋だった。
(ここは、どこだ……?)
身を起こそうとして、レヴィは自分の体が思うように動かないことに気づく。手足に力が入らない。魔力の流れも滞っている。何らかの術を掛けられているのは明白だった。
「あっ、おはよう」
聞き覚えのある声に、レヴィは鋭い視線を向ける。
あの荒れ地で出会った謎の男――…
『ベヘモット』が、ベッドの傍らの椅子に腰掛けていた。上着を脱ぎ、シャツの袖を適当にまくっている。まるで自宅で寛いでいるかのような、余裕の態度だった。
「結構疲れてたんじゃない?ぐっすりだったよ」
レヴィは無言で睨みつける。状況から察するに、この男に何かされたのは間違いない。しかし、ベヘモットは涼しい顔で続けた。
「ああそうだ、それで……君に紹介したい仕事の話なんだけどさ」
金色の目が、不穏に細められる。月光の下で見せた冷たさとは違う、何か別の感情を孕んだ光。レヴィは身構えようとしたが、体は相変わらず言うことを聞かない。
広いベッドの上で、レヴィは無防備に横たわったまま。そしてベヘモットは、まるで親しい友人に話しかけるような調子で、ゆっくりと口を開いた。
「君もしかして、お金に困ってたの?」
ベヘモットの声は、まるで午後のお茶会で世間話をするような軽やかさだった。椅子の背もたれに優雅に寄りかかり、組んだ脚を軽く揺らしている。金色の瞳が、ベッドに横たわるレヴィを値踏みするように見つめていた。
「そうは見えないけど……でも魔術師さんって、色々物入りだもんね」
レヴィは顔を顰めた。体は動かないが、表情筋だけは自由らしい。この微妙な呪いの匙加減に、相手の性格の悪さが滲み出ている。
部屋の窓から差し込む朝日が、佇む彫刻群に複雑な影を作っていた。
「君の仕事履歴、見させてもらったらさ」
ベヘモットは懐から羊皮紙の束を取り出す。ギルドの正式な書類のようだが、本来なら許可なく閲覧できるはずがない。何らかの手段で裏から入手したか、あるいは本当に――…こうも羽振りの良さそうな奴が、ただのギルドの職員であったなら。それはそれで恐ろしい。
「なんか報酬優先、って感じだったから。よければ、魔族狩りよりも……楽で実入りの良い仕事、紹介するよ?」
にこりと微笑む。人当たりの良い笑顔だが、レヴィには獣が牙を隠した表情にしか見えなかった。
「君にしかできない仕事なんだ。興味ない?」
レヴィは、ベヘモットの胡散臭い言葉にもだが、この状況に苛立っていた。高級そうなシーツに沈み込む自分の体。身動き一つ取れない屈辱。そして何より、相手の真意が読めないことへの苛立ち。
悪い予感しかしない。
「貴様……何のつもりだ?」
睨みつけながら尋ねる。声だけは普段通りに出せることが、せめてもの救いだった。
ベヘモットは、くすくすと笑う。まるで子供が面白い玩具を見つけたような、無邪気で残酷な笑い声。
「あは……美人って怒った顔も可愛いよね」
誂うように言いながら、椅子から立ち上がる。ゆっくりとベッドに近づいてくる足音が、妙に大きく響いた。
レヴィはますます眉間に皺を寄せた。黒い瞳に、魔術師としての矜持が燃え上がる。
「私に掛けた術を解け!さもなくば……」
喉の奥で、術の詠唱を始める。攻撃術ではなく…神経を麻痺させ、相手を足止めする呪術だ。首から下は動かないが、詠唱は可能。こちらが動けないなら……的の動きも封じた方が良い。というか、この軽薄そうな奴を早く黙らせたい。
「だめだめ!」
ベヘモットは慌てたように、横たわるレヴィの肩を掴む。
「よしてよ!そんなことしたら――」
切迫した制止の声が響く。しかし、次の瞬間、レヴィはその意味を理解した。
喉に焼けるような痛みが走る。まるで煮えたぎる鉛を流し込まれたような激痛。堪らず咳き込み、呪文詠唱は無残に中断された。
「げほっ……!」
レヴィは動揺する。生理的に涙が滲む。これは一体何の呪いだ。詠唱阻害の術式は知っているが、ここまで直接的に苦痛を与えるものは聞いたことがない。
「ほら、言わんこっちゃない……」
ベヘモットはベッドの端に腰を下ろす。高そうな布の擦れる音が、静かな部屋に響いた。
荒事とは無縁そうな、滑らかな指先が……レヴィの首筋を撫でる。ひんやりとした感触に、レヴィは身を震わせたいが、それすらできない。
「痛いでしょ?……ごめんね、でも殺し合うよりマシだからさ」
その言葉に含まれる真実味が、レヴィの背筋を凍らせた。この男――いや、この魔族は本気だ。必要とあらば、いつでもこちらを殺せるのだろう。
レヴィは喉に何らかの呪いを掛けられたことを察す。呪文の詠唱を阻止する高度な術式。しかも苦痛を伴うが、外傷はつかず。意識は保たれるという。人質相手には大変実用的で……悪趣味な代物。
ベヘモットは、睨んでくるレヴィへ優しげな声で言う。
「ああ、可哀想。今楽にしてあげるから……」
不穏な言葉に、レヴィは身構えようとした。体は動かないが、せめて心だけは屈しまいと。
しかし、次の瞬間、ベヘモットの顔が急速に近づいてくる。金色の瞳が、間近で妖しく輝いた。
そして――
唇が重なる。
レヴィは抵抗できない。驚きと怒りと、そして恐怖が混ざり合う。ベヘモットの舌が、強引に口内に侵入してくる。
互いの唾液が混じった瞬間、不思議なことが起きた。喉の痛みが、まるで雪解けのように引いていく。焼けるような苦痛が、涼やかな感覚に変わっていった。
ベヘモットはゆっくりと顔を離す。唇の端に残る銀糸を、指先で拭いながら満足げに微笑んだ。
「どう?楽になった?」
白々しい問いかけ。レヴィは息を整えながら……湧き上がる嗚咽を抑え、鋭く問い返す。
「貴様……何の呪いを……?」
動揺で声は掠れていたが、先ほどの激痛は嘘のように消えていた。しかし、それがかえって不気味だった。痛みを与え、そして癒す。まるで飴と鞭を使い分ける調教師のような。
レヴィは思考を巡らせる。仮に強力な魔族だとしても、相手の狙いが読めない。暴漢の如く、女性に乱暴を?だがわざわざ、面倒な呪いを掛けてまで、人間一人を相手に……そんなことをするものか?これだけの術が使えるなら、もっと大人数を相手に狩りをしたほうが、効率は良いはずだ。魔術師一人をいたぶるより、はるかに多量の生気を得られる。
背筋がヒヤリとした。自分は……何らかの『実験体』にする目的で囚われた可能性が、高い。
魔術師の体は……職業柄、日々の鍛錬で魔力の循環は整えられている。魔族にとっては扱い易い研究材料になるのかもしれない。酷い仕打ちを受けるくらいならばと、最悪……自害という選択肢も脳裏を過った。しかし、呪文と身動きを封じられては打つ手が無い。
ベヘモットは、回答がわりにレヴィへ、諭すように言う。
「とにかく、危ない呪文はだめだよ。さっきので分かったでしょ?」
慈悲深さすら感じる眼差し。怒りを穏やかに飲み込み、まるで子供に言って聞かせるような優しい声音。しかし、やっている事は誘拐、拘束、五感に苦痛を与えてのコントロール。と、何とも悍ましいもの。
「……単刀直入に言おうか」
ベヘモットは立ち上がり、まっすぐに言う。
「僕の愛人にならない?」
そして、ゆらゆらと部屋の中を歩き始める。飾られた彫刻の間を縫うように移動しながら、どこか遠い目をして呟く。
「君さ、結構僕の好みなんだよね」
大理石の女神像の頬を、愛おしげに撫でる。
しかし、すぐ飽きたように、振り返って肩を竦めてくる。
「彫刻も良いんだけど……やっぱり生身は違う良さがあるっていうか」
金色の目がレヴィを見つめている。不躾な視線で、肉体の輪郭を執拗になぞられている……落ち着かない感覚。
レヴィは、苛立ちに眉を顰めた。馬鹿げた提案だ。魔族の愛人など、生きたまま生気を吸われる家畜と同じ。なりたくてなる者がどこにいるのか。
しかしベヘモットは、レヴィの態度を見て楽しげに笑う。
「そうそう、そういう顔だよ!」
まるで待ち望んでいた反応を見られたかのような歓喜。
「……ふふ、あー可愛い。構われて、迷惑そうにしてる猫ちゃんみたい」
窓際に置かれた天使像の翼を指でなぞりながら、ベヘモットは続ける。
「彫刻は術で動かさないと、動いてくれないからさ。予想外の動きをしてくれなくて……つまらないんだよねー。操るにしても、カラクリより…人間のほうが、動きが柔らかくて好きなんだ。まあ、その分ちょっと壊れやすいけど」
最早、魔族であることを隠す気もないようだ。金色の眼は明らかに人外の輝きをしている。瞳孔が縦に細まり、爬虫類めいた印象を与えた。
レヴィは毅然と言い放つ。
「断る」
声に力を込める。
「魔族の玩具になる趣味はない」
ベヘモットは拗ねたように、困り顔をする。しかし、さほど深刻さは感じられない。まるで、半分予想通りの答えだったとでも言うように。
「玩具じゃないよ、なんだろう……?」
人差し指を立てて、考える素振りを見せる。
「可愛いペット……、じゃなくて、……ね!だから愛人だよ。つまり、僕に愛される人」
言い切って、にっこりと笑う。その笑顔が、どこか不穏に……ギラついて見えたのは、気のせいではないだろう。
「ほら、お金が必要ならあげるよ?」
懐から、何かを取り出す。パサリと乾いた音が立つ。封筒から顔を覗かせた紙幣の束が、ベッドの上に転がった。
「暑苦しい下級魔族の返り血を浴びて、死体剥ぐよりもさ……」
紙幣を一枚抜き取り、ヒラヒラと指先で弄ぶ。
「僕と仲良く触れ合って、健康的に汗をかくほうが……良い仕事だと思わない?」
最後に付け加える。
「シャワーも付けるし」
レヴィは即答する。
「思わない」
ベヘモットのふざけた告白が本気かも怪しい。契約という口約束を使い、さらなる呪いを強めるための――『言質』を取ろうとしているのかもしれない。魔族との契約は、時に魂まで縛る危険な代物だ。
ベヘモットは残念そうに嘆息する。
「そんなあ……どうして?これじゃ足りない?あっ、貴金属のほうが好きとか?
とりあえず、狩りをお休みする間のお金は払うからさぁ。一週間からでも……試してみない?きっと楽しいよ」
眉を下げ、ベッドの横へしゃがみ込み。縋るように、レヴィを見つめて言う。しかし、その演技臭さがかえって不気味だった。
レヴィは睨んで言い放つ。
「女好きで金があるなら、そういう店で豪遊してきたらいいだろう」
冷たい正論。しかしベヘモットは、やれやれ、という顔をした。肩を竦め、大袈裟にため息をつく。
「だからさぁ……君が良いって言ってるの!」
ベッドに再び腰を下ろし、腕を組む。今度は、レヴィのすぐ隣に。
「好みの子が居たら、既に店ごと囲ってるよ」
恐ろしいことを、さらりと言う。店ごと囲うという発想が、既に人間のものではない。
「頑張って探したけど……僕のストライクゾーンにハマる子が居なかったから、困ってたの」
レヴィを見つめ、ベヘモットはほくそ笑む。まるで掘り出し物を見つけた蒐集家のように、品定めする視線。
「君も幸運だったね」
指先で、レヴィの黒髪を一房掬い上げる。絹のような感触を確かめるように、指の間で転がした。
「僕も、魔術師退治なんて面倒な仕事……普段なら蹴っちゃうんだけどさ」
髪を離し、今度は頬に手を伸ばす。
「結構可愛いって聞いて。一応見るだけ見てから……って思って受けてみたら、これが大当たり!」
頬を撫でる手つきは、まるで高価な美術品を扱うように丁寧で、それがかえって薄気味悪い。
「いやー、本当、運命だよ。まるで僕に可愛がられる為に生まれてきたみたい!いつも頑張ってる僕に、神様がプレゼントしてくれたのかも!?」
ベヘモットはご機嫌に、満足そうに頷く。
「よかった、他の魔族に任せたら、見せしめに処刑されるか……実験体として、使い魔の苗床にされてジワジワ苦しんだかもしれないもの。
それにしても、酷いよねぇ?何で皆、あんなことするのかな。こんなに可愛い人間にさ……。
魔族狩りに走っちゃうのは、満たされてないだけだよね?狩りは君たちの本能だもの。
君たちだって、温かいところで寝て、たくさん遊んで、食べるものに困らなくなれば。暴れずにお利口さんにしててくれるよね。
お話すれば、きっと分かりあえるはずなんだよ……ねえ?」
金色の瞳に、憐憫の色が浮かぶ。しかしそれも一瞬で、すぐに独占欲に満ちた輝きに変わった。脅しにも聞こえる不気味な理想論で、畳み掛けてくる。有無を言わせぬ圧。
「……君が無事でよかった」
ベヘモットが向けてきた微笑みに、レヴィは苛立った。無事なものか。言葉は通じる。しかし言葉の壁以上に大きな、価値観の隔たりがある。話し合いという名の……一方的な要求にしかなっていない。
しかしレヴィとて、このまま玩具にされるつもりはなかった。この独善的な支配から、逃れる方法を考えなくては……。
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