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第一章 七不思議の欠片
2.腹の探り合い
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放課後。今日はどの部も活動してはいけない日――安息日であり、生徒はみなあっという間に帰宅の途についた。
俺は用を足すために月島が噂していた和室に寄っていた。準備は万端だ。あとは起動するのみ。
気分が良いせいか、がらんとした校舎は人の喧騒さもなく、心が躍る。
「あれ?」
後ろから声が聞こえ、俺は振り返った。
「黒川くん、だよね? もう誰もいないと思ってたから驚いたよ」
そこには樋脇がきょとんとして立っていた。中性的な顔立ちをしている樋脇は、クラスメイトの一人であり、特定の生徒とつるむことなく周りに溶け込んでいるタイプの人間だ。それでも沢村とはかなり仲が良く、彼女と一緒に話し込んでいる姿を見掛ける。あの日の朝もそうだったな。
沢村に微笑みかける樋脇の横顔が瞼の裏に一閃する。慈愛に溢れた瞳の奥に、全てを凍りつかせるような鋭利な冷たさ。あれこそ純美だと感じた。
「……俺もだ。お前は何をしてたんだ?」
「うーん、ちょっとね。お世話係を任されていると言うか、何て言ったら良いんだろう」
「別に無理に話を聞き出そうとはしていない」
「そっかあ。優しいんだね、黒川くんって」
樋脇はそう微笑むと、俺の隣に並んだ。身長は大体同じくらいのようで、目線の高さが等しい。普段は教室で座っている姿や、誰かと話している様子を遠くから眺めていたから、何だか新鮮でくすぐったい気持ちに陥る。
「黒川くんの方こそ、何かあったの?」
「教師に呼び出しを受けてた」
「それは大変だったね。あ、でも黒川くんのことだから、きっと良いことで呼び出しされてたんだよね」
ふわふわとしたマイナスイオンが彼から溢れ出す。こいつが天然だと評される理由が身をもって感じ取る。
「そんなことはない。過剰評価は身に毒だ」
「それもそうだね。れっきとした本心だけど、君がそう言うのなら辞めておくよ」
「教室に戻るか?」
「うん。まだ鞄を机に置きっぱなしだし」
「俺も教室に用がある」
「じゃあ行こうか」
樋脇が手で俺を促して、俺達は歩き出した。
「黒川くんとちゃんと話したのは、初めてだね」
「ああ。お前は誰にでも好かれているからな、よく囲まれているのを見掛けるぞ」
「そんなことないよ。僕自身にそんな魅力なんてないし。ただその時、話そうとした相手が僕だっただけに過ぎない。僕のことなんかより、君だって人気者じゃない?」
その言葉に虚を突かれて、樋脇の横顔を見つめる。
「君って端正な顔立ちをしてるし、学年トップの頭の持ち主じゃない。あまり友人はいないみたいだけど、誰とも付き合わないその精神は孤高だって言われてたよ」
俺もそんなところが好き、と小さく呟かれる。しかし、その口許は弧を描いていたので、揶揄ってくれただけのようだ。
「……そうか」
その評価は初めて聞いた。人とのコミュニケーションを取る必要性は感じていなかった。人間は手段の一つだ。クラスメイトともあまり接していなかったのだが、それがまさか孤高と勘違いされていたとはな。
「僕は八方美人だからね。君のそういうところが羨ましく思えるなあ」
「今は個性が大事にされる時代なんだ。気にする必要ないだろ」
「そうは言っても、皆の心が追い付いていない。最先端を行こうにも、人がついてこなければ無意味だよ」
「そういう考え方もあるんだな」
俺と樋脇は同じ匂いがする。だから警戒するべきなのだが、それ以上にーー。
「お前は当たり障りのないように、言葉を隠して話すんだな」
「……!」
軽く目を瞠った樋脇が、俺の顔をまじまじと見つめる。それから少し微笑んで、「もう適わないなあ、君には」と言う。
「そうだね。決定的な言葉を告げるのは出来ない。僕には、ね」
「コミュニケーションが出来ない訳じゃないんだろ」
「うん。うまく話せなくて言葉が足りなくなるって言うよりは、僕の言葉で誰かが傷つくのは……違うな。誰かに傷つけられるのは怖い」
「なるほどな」
樋脇は俯いていた顔を上げた。
「黒川くんは率直に言えるのが凄く……ごめん。また持ち上げようとしちゃった」
「いや、いい。大体は把握した。それがお前の癖なんだな」
俺がそう言うと、樋脇は一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに目を伏せる。顔が良いばかりに、なまじ楚々として感じられる。
「……ありがとう」
「感謝する謂れはないな。それに俺だって率直に言ってるばかりじゃない。あらゆる物が無価値であるが故に、言葉を隠す必要性がないだけだ」
ま、例外が出来ちまってからは、この信念も揺らいでいるのだが。
――俺は恋愛感情として、こいつが好きだ。あの時、初めてこいつを見て、一目惚れした。清廉な魂を持ち合わせておきながら、禍々しくもある存在。認めたくはないが、その在り方はいとおしい。
それでも、いや、だからこそ。樋脇に探りを入れたいと思い、接触を図ろうとした。樋脇の机には鞄が置きっぱなしになっていたから、放課後に用事があるのだと予想した。それは正しかった。まさかこいつも俺に探りを入れてくるとは思わなかったがな。
「そっかあ。それなら君に沢村さんを預けても大丈夫そうだね」
「……どういう意味だ?」
「?」
樋脇が首を傾げる。俺も首を傾げたいんだが。
「まさかあの視線も、沢村を心配してたからとか言うんじゃないだろうな?」
自分だとは思えない低い声が喉からせり出た。胸中に黒い靄が集まる。それはゆらゆらと立ち昇って、このまま樋脇の肩を掴んで壁に押しやりたくなる。苛立ちが喉から飛び出そうになり、必死に堪えた。
樋脇の方は目をぱちくりとさせて、暫く口をつぐんだ。
そのまま教室へと辿り着き、俺たちは無言で教室に入った。樋脇は一直線に自分の席へと戻り、鞄を持ち上げると先ほどの返事をする。
「何のことだかよく分からないけど、勿論沢村さんも心配だったよ。でも……ううん、何でもない」
樋脇は何やら思わくを乗せた視線で俺を一瞥し、「またね」と教室から出て行った。
あいつの考えていることが俺には理解できない。俺が他人と接触しているのを見て、あれだけの殺気を放って来た癖に。俺と話す沢村に嫉妬したのか、それとも沢村と話す俺に嫉妬したのか。どっちなんだよ、と首元のネクタイを荒々しく外し、制服を乱した。
お互いの信念が譲れないことは分かっている。それでも俺はあいつが欲しいと震えてしまう。全てを終えた時には絶対、この世から――。
俺は用を足すために月島が噂していた和室に寄っていた。準備は万端だ。あとは起動するのみ。
気分が良いせいか、がらんとした校舎は人の喧騒さもなく、心が躍る。
「あれ?」
後ろから声が聞こえ、俺は振り返った。
「黒川くん、だよね? もう誰もいないと思ってたから驚いたよ」
そこには樋脇がきょとんとして立っていた。中性的な顔立ちをしている樋脇は、クラスメイトの一人であり、特定の生徒とつるむことなく周りに溶け込んでいるタイプの人間だ。それでも沢村とはかなり仲が良く、彼女と一緒に話し込んでいる姿を見掛ける。あの日の朝もそうだったな。
沢村に微笑みかける樋脇の横顔が瞼の裏に一閃する。慈愛に溢れた瞳の奥に、全てを凍りつかせるような鋭利な冷たさ。あれこそ純美だと感じた。
「……俺もだ。お前は何をしてたんだ?」
「うーん、ちょっとね。お世話係を任されていると言うか、何て言ったら良いんだろう」
「別に無理に話を聞き出そうとはしていない」
「そっかあ。優しいんだね、黒川くんって」
樋脇はそう微笑むと、俺の隣に並んだ。身長は大体同じくらいのようで、目線の高さが等しい。普段は教室で座っている姿や、誰かと話している様子を遠くから眺めていたから、何だか新鮮でくすぐったい気持ちに陥る。
「黒川くんの方こそ、何かあったの?」
「教師に呼び出しを受けてた」
「それは大変だったね。あ、でも黒川くんのことだから、きっと良いことで呼び出しされてたんだよね」
ふわふわとしたマイナスイオンが彼から溢れ出す。こいつが天然だと評される理由が身をもって感じ取る。
「そんなことはない。過剰評価は身に毒だ」
「それもそうだね。れっきとした本心だけど、君がそう言うのなら辞めておくよ」
「教室に戻るか?」
「うん。まだ鞄を机に置きっぱなしだし」
「俺も教室に用がある」
「じゃあ行こうか」
樋脇が手で俺を促して、俺達は歩き出した。
「黒川くんとちゃんと話したのは、初めてだね」
「ああ。お前は誰にでも好かれているからな、よく囲まれているのを見掛けるぞ」
「そんなことないよ。僕自身にそんな魅力なんてないし。ただその時、話そうとした相手が僕だっただけに過ぎない。僕のことなんかより、君だって人気者じゃない?」
その言葉に虚を突かれて、樋脇の横顔を見つめる。
「君って端正な顔立ちをしてるし、学年トップの頭の持ち主じゃない。あまり友人はいないみたいだけど、誰とも付き合わないその精神は孤高だって言われてたよ」
俺もそんなところが好き、と小さく呟かれる。しかし、その口許は弧を描いていたので、揶揄ってくれただけのようだ。
「……そうか」
その評価は初めて聞いた。人とのコミュニケーションを取る必要性は感じていなかった。人間は手段の一つだ。クラスメイトともあまり接していなかったのだが、それがまさか孤高と勘違いされていたとはな。
「僕は八方美人だからね。君のそういうところが羨ましく思えるなあ」
「今は個性が大事にされる時代なんだ。気にする必要ないだろ」
「そうは言っても、皆の心が追い付いていない。最先端を行こうにも、人がついてこなければ無意味だよ」
「そういう考え方もあるんだな」
俺と樋脇は同じ匂いがする。だから警戒するべきなのだが、それ以上にーー。
「お前は当たり障りのないように、言葉を隠して話すんだな」
「……!」
軽く目を瞠った樋脇が、俺の顔をまじまじと見つめる。それから少し微笑んで、「もう適わないなあ、君には」と言う。
「そうだね。決定的な言葉を告げるのは出来ない。僕には、ね」
「コミュニケーションが出来ない訳じゃないんだろ」
「うん。うまく話せなくて言葉が足りなくなるって言うよりは、僕の言葉で誰かが傷つくのは……違うな。誰かに傷つけられるのは怖い」
「なるほどな」
樋脇は俯いていた顔を上げた。
「黒川くんは率直に言えるのが凄く……ごめん。また持ち上げようとしちゃった」
「いや、いい。大体は把握した。それがお前の癖なんだな」
俺がそう言うと、樋脇は一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに目を伏せる。顔が良いばかりに、なまじ楚々として感じられる。
「……ありがとう」
「感謝する謂れはないな。それに俺だって率直に言ってるばかりじゃない。あらゆる物が無価値であるが故に、言葉を隠す必要性がないだけだ」
ま、例外が出来ちまってからは、この信念も揺らいでいるのだが。
――俺は恋愛感情として、こいつが好きだ。あの時、初めてこいつを見て、一目惚れした。清廉な魂を持ち合わせておきながら、禍々しくもある存在。認めたくはないが、その在り方はいとおしい。
それでも、いや、だからこそ。樋脇に探りを入れたいと思い、接触を図ろうとした。樋脇の机には鞄が置きっぱなしになっていたから、放課後に用事があるのだと予想した。それは正しかった。まさかこいつも俺に探りを入れてくるとは思わなかったがな。
「そっかあ。それなら君に沢村さんを預けても大丈夫そうだね」
「……どういう意味だ?」
「?」
樋脇が首を傾げる。俺も首を傾げたいんだが。
「まさかあの視線も、沢村を心配してたからとか言うんじゃないだろうな?」
自分だとは思えない低い声が喉からせり出た。胸中に黒い靄が集まる。それはゆらゆらと立ち昇って、このまま樋脇の肩を掴んで壁に押しやりたくなる。苛立ちが喉から飛び出そうになり、必死に堪えた。
樋脇の方は目をぱちくりとさせて、暫く口をつぐんだ。
そのまま教室へと辿り着き、俺たちは無言で教室に入った。樋脇は一直線に自分の席へと戻り、鞄を持ち上げると先ほどの返事をする。
「何のことだかよく分からないけど、勿論沢村さんも心配だったよ。でも……ううん、何でもない」
樋脇は何やら思わくを乗せた視線で俺を一瞥し、「またね」と教室から出て行った。
あいつの考えていることが俺には理解できない。俺が他人と接触しているのを見て、あれだけの殺気を放って来た癖に。俺と話す沢村に嫉妬したのか、それとも沢村と話す俺に嫉妬したのか。どっちなんだよ、と首元のネクタイを荒々しく外し、制服を乱した。
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