41 / 111
第一章 七不思議の欠片
ずるい男
しおりを挟む
僕は窓の外を見る。美しかった晴月が、不吉さを身に纏って血紅色に染まっていた。棘のある薔薇のように、危険で美しい。
「黒川くんに任せよう」
『……どういうつもりかしら?』
声を潜める渡辺ちゃん。
「今回は渡辺ちゃんの出番がないってこと」
『何を言っているのよ! ターゲットを守らなければ意味が無いわ』
「守護者として、でしょ? でもそれってさ、沢村さんが無事なら良いんじゃない? 俺だって矜持があるんだよ。黒川くんは俺の求める結果を出してくれなかった。……あいつ頑固だし、最初から失敗するとは思ってたけど。それでも黒川くんが命を賭けたんだから、僕だって賭けないとね。渡辺ちゃんも――」
『嫌よ。わたくしには貴方と違って、信念があるのよ。ここで手を引くわけにはいかないわ』
「……僕にも信念があるんだけど」
『あら、そうなのかしら。是非とも、聞いてみたいわね』
渡辺ちゃんが煽り、静寂が僕たちの間に広がる。
「――優しい世界、って言ったらどうする?」
思わず口許が震える。これが通話で良かった。
渡辺ちゃんは驚いたのか、二の句が継げなかったようだが、暫くしてから喉の奥から声が震えるのが聞こえた。
『…っ! ふ、ふふ、あははっ! それを貴方が言うのかしら!』
僕は肩を竦ませて溜息を吐いた。
「思いっきり信じてないね」
『当り前じゃない! 貴方のそのジョークは二度と言わない方が良いわよ』
「ああ、そう」
未だに肩を震わせているようで、思わず拗ねた声が出てしまった。ハッとした自分にも嫌気が差して、髪をくしゃり、と掴み上げた。
「ともかく君は引き下がる気はないってことが、よおく分かったよ」
『あら、それは嬉しいわ。貴方が動くのなら安心だわ』
「残念だけど、僕自身は動かないよ。ただ彼らの手助けになる物を渡すだけだから」
『ちょっと……』
すぐに渡辺ちゃんの声に剣が宿る。
「あれのターゲットは沢村さんたちだ。僕たちが手を出しても無意味だからね。――あれをなんとかするのも沢村さんたちだよ」
僕はそう告げて電話を切った。
これは破格の待遇だと考えても良いと思うけどね。僕と彼は決して交わることのない思想を持ち合わせている。特に僕の考えていることは本当にどうしようもなくて、救いようのない願い――選定だ。
黒川くんを見捨てたとしても救ったとしても、僕の計画には支障が無い。最初は自分の計画通りにことが進まないことに苛立ちを覚えた。でも考えてみれば誰かの行動をも予測し、掌で転がすのも悪くない。それに黒川くんの計画が遂行されれば、僕の計画も楽に動く。
でもそうじゃないんだ。メリットは確かにある。お釣りが返ってくる程に。黒川くんを利用することは合理的だと認識しているのに、感情が暴れ出しそうだ。彼のことを考えると、何故か泣きたくなる。こんな気持ちなんて早く捨て去りたいのに。
僕はどうしたいんだろう。何を求めているのだろう。
ぼんやりと考えていると、再び着信音が鳴った。緩慢な動作で首を向け、画面に表示される名前を見て吃驚した。心臓が走る。まるで何かに導かれるようにして、月明が画面を照らし出していた。
少しの間、躊躇していた。それは数秒だったかもしれないし、僕がいることを見越して、黒川くんがずっとコールを掛け続けているのかもしれない。
震える手で携帯を取る。――どうしてこうもタイミングが悪いんだろう。
「もしもし?」
『……よお』
「僕の連絡先をよく知ってたね? 誰かに聞いたの?」
自分のことを棚に上げて尋ねる。
『ああ、沢村から聞いた』
「そう、納得だね。それでどうかしたの?」
一瞬の沈黙が走った。僕の心臓も未だに並走している。
『いや、何でもない。間違え……はあ』
黒川くんはそう言い掛けてから、溜息を一つ吐いた。
多分間違え電話だったって言いたかったんだと思う。確かに僕と黒川くんの間柄だと、間違え電話くらいしか繋がらないもんね、と唇を噛む。
『悪い。あ――、月並みだけどお前の声が聞きたくなったんだ』
どくり。心臓が大きく高鳴った。
――ずるい。そんな思いが脳裏に走る。落胆させてから、唐突の口説き文句。その不意打ちは本当にずるいと思う。
もう窓の外を覗くことは出来ない。だって、絶対に。窓が鏡のように反射して、真っ赤に熟れた林檎のような顔をした自分の姿が映るに違いないから。
感情の揺らぎを悟らせずに「何それっ。黒川くんでもそんなこと言うんだ。意外!」って言おうとしたのに、出てきたのはたった二文字。
「……莫迦」
弱弱しいそれは、確かに黒川くんに届いてしまったようで、息を呑む音が聞こえてしまった。凄く恥ずかしくて、穴があったら入りたいって意味を実感する。
『お前……いや、何でもない』
「はっきり言ってよ」
『……意外だっただけだ』
「……これ以上は墓穴を掘るから辞めておくよ」
そう言って、僕は口を噤んだ。今は何を言っても駄目な気がしたのだ。
心地良い沈黙が広がる。このまま明日が来なければ良いのに。
『お前は、』
「……ん」
『こんな夜更けまで起きているのか?』
「ううん、今日だけ。綺麗な満月を見てた」
『そうか』
黒川くんも黙り込んだ。多分考えていることは一緒かもしれない。
有名な一節。――『月が綺麗ですね』。夏目漱石が『I love you』を奥ゆかしい日本人に相応しく訳した一言。実際に彼がそう訳したのかどうか分かってはいないが。
「知ってた? 夕日が綺麗ですね、とも、星が綺麗ですね、とも言うらしいよ」
『なんだそれは。風物だったら何でも良いのかよ』
それは確かに。おそらく夕日と星は月から派生された表現だろうが、派生が増えると月が色褪せて見える。
「あっ! もしかしたら月が見えない日にも、想いが告げられるってことじゃない?」
『いつでも伝えられる想いだと、特別な感情って気がしないけどな』
「え~! 好きって感情はいつでも伝えられるからこそ、色褪せないものでしょ。ロマンチックだと思うよ」
『毎日愛でれば倦怠期になりそうだな』
「ああ言えばこう言うんだから、黒川くんは。じゃあさ、『月が綺麗ですね』自体はどう思ってんの」
『お前にぴったりだろ。夏目漱石のことは何も知らねえけど、真意を隠すお前に似合う言葉だと思うな』
月は満ち欠けるものだ。月に誓ってもすぐに形を変えてしまう。
「不実だって言いたいの?」
『違う。姿かたちを変えて誤魔化しているってことだ』
「姿を変えても月は月、ね。それって……」
『明日のこと、お前はどう思うんだ?』
言い掛けた言葉を、不自然なタイミングで黒川くんが遮った。一気に剣呑な雰囲気が僕たちの間に横たわった。
折角の穏やかな夜に水を差されたような気分だ。
「平穏さを求めるのなら無駄だと思うよ」
『……ふん』
「君ならベストな選択を決めて見せるんだろうね」
『当たり前だ』
渡辺ちゃんが脳内で「こんな男に任せるなんて本意!?」と叫んだ。そ、そんなこと言われても。
「……それには必要なものが足りていないんじゃないかな」
『手助けは必要ない』
さっきとは打って変わって冷たい声を擲つ。もう会話は終了だと言わんばかりに、僕の返事を聞くことなく通話が終了した。
耳元で電子音が鳴り続ける。僕はゆっくりと携帯を下ろした。
「全く。どいつもこいつも俺の言うこと一つも聞いてくれねえよな」
「黒川くんに任せよう」
『……どういうつもりかしら?』
声を潜める渡辺ちゃん。
「今回は渡辺ちゃんの出番がないってこと」
『何を言っているのよ! ターゲットを守らなければ意味が無いわ』
「守護者として、でしょ? でもそれってさ、沢村さんが無事なら良いんじゃない? 俺だって矜持があるんだよ。黒川くんは俺の求める結果を出してくれなかった。……あいつ頑固だし、最初から失敗するとは思ってたけど。それでも黒川くんが命を賭けたんだから、僕だって賭けないとね。渡辺ちゃんも――」
『嫌よ。わたくしには貴方と違って、信念があるのよ。ここで手を引くわけにはいかないわ』
「……僕にも信念があるんだけど」
『あら、そうなのかしら。是非とも、聞いてみたいわね』
渡辺ちゃんが煽り、静寂が僕たちの間に広がる。
「――優しい世界、って言ったらどうする?」
思わず口許が震える。これが通話で良かった。
渡辺ちゃんは驚いたのか、二の句が継げなかったようだが、暫くしてから喉の奥から声が震えるのが聞こえた。
『…っ! ふ、ふふ、あははっ! それを貴方が言うのかしら!』
僕は肩を竦ませて溜息を吐いた。
「思いっきり信じてないね」
『当り前じゃない! 貴方のそのジョークは二度と言わない方が良いわよ』
「ああ、そう」
未だに肩を震わせているようで、思わず拗ねた声が出てしまった。ハッとした自分にも嫌気が差して、髪をくしゃり、と掴み上げた。
「ともかく君は引き下がる気はないってことが、よおく分かったよ」
『あら、それは嬉しいわ。貴方が動くのなら安心だわ』
「残念だけど、僕自身は動かないよ。ただ彼らの手助けになる物を渡すだけだから」
『ちょっと……』
すぐに渡辺ちゃんの声に剣が宿る。
「あれのターゲットは沢村さんたちだ。僕たちが手を出しても無意味だからね。――あれをなんとかするのも沢村さんたちだよ」
僕はそう告げて電話を切った。
これは破格の待遇だと考えても良いと思うけどね。僕と彼は決して交わることのない思想を持ち合わせている。特に僕の考えていることは本当にどうしようもなくて、救いようのない願い――選定だ。
黒川くんを見捨てたとしても救ったとしても、僕の計画には支障が無い。最初は自分の計画通りにことが進まないことに苛立ちを覚えた。でも考えてみれば誰かの行動をも予測し、掌で転がすのも悪くない。それに黒川くんの計画が遂行されれば、僕の計画も楽に動く。
でもそうじゃないんだ。メリットは確かにある。お釣りが返ってくる程に。黒川くんを利用することは合理的だと認識しているのに、感情が暴れ出しそうだ。彼のことを考えると、何故か泣きたくなる。こんな気持ちなんて早く捨て去りたいのに。
僕はどうしたいんだろう。何を求めているのだろう。
ぼんやりと考えていると、再び着信音が鳴った。緩慢な動作で首を向け、画面に表示される名前を見て吃驚した。心臓が走る。まるで何かに導かれるようにして、月明が画面を照らし出していた。
少しの間、躊躇していた。それは数秒だったかもしれないし、僕がいることを見越して、黒川くんがずっとコールを掛け続けているのかもしれない。
震える手で携帯を取る。――どうしてこうもタイミングが悪いんだろう。
「もしもし?」
『……よお』
「僕の連絡先をよく知ってたね? 誰かに聞いたの?」
自分のことを棚に上げて尋ねる。
『ああ、沢村から聞いた』
「そう、納得だね。それでどうかしたの?」
一瞬の沈黙が走った。僕の心臓も未だに並走している。
『いや、何でもない。間違え……はあ』
黒川くんはそう言い掛けてから、溜息を一つ吐いた。
多分間違え電話だったって言いたかったんだと思う。確かに僕と黒川くんの間柄だと、間違え電話くらいしか繋がらないもんね、と唇を噛む。
『悪い。あ――、月並みだけどお前の声が聞きたくなったんだ』
どくり。心臓が大きく高鳴った。
――ずるい。そんな思いが脳裏に走る。落胆させてから、唐突の口説き文句。その不意打ちは本当にずるいと思う。
もう窓の外を覗くことは出来ない。だって、絶対に。窓が鏡のように反射して、真っ赤に熟れた林檎のような顔をした自分の姿が映るに違いないから。
感情の揺らぎを悟らせずに「何それっ。黒川くんでもそんなこと言うんだ。意外!」って言おうとしたのに、出てきたのはたった二文字。
「……莫迦」
弱弱しいそれは、確かに黒川くんに届いてしまったようで、息を呑む音が聞こえてしまった。凄く恥ずかしくて、穴があったら入りたいって意味を実感する。
『お前……いや、何でもない』
「はっきり言ってよ」
『……意外だっただけだ』
「……これ以上は墓穴を掘るから辞めておくよ」
そう言って、僕は口を噤んだ。今は何を言っても駄目な気がしたのだ。
心地良い沈黙が広がる。このまま明日が来なければ良いのに。
『お前は、』
「……ん」
『こんな夜更けまで起きているのか?』
「ううん、今日だけ。綺麗な満月を見てた」
『そうか』
黒川くんも黙り込んだ。多分考えていることは一緒かもしれない。
有名な一節。――『月が綺麗ですね』。夏目漱石が『I love you』を奥ゆかしい日本人に相応しく訳した一言。実際に彼がそう訳したのかどうか分かってはいないが。
「知ってた? 夕日が綺麗ですね、とも、星が綺麗ですね、とも言うらしいよ」
『なんだそれは。風物だったら何でも良いのかよ』
それは確かに。おそらく夕日と星は月から派生された表現だろうが、派生が増えると月が色褪せて見える。
「あっ! もしかしたら月が見えない日にも、想いが告げられるってことじゃない?」
『いつでも伝えられる想いだと、特別な感情って気がしないけどな』
「え~! 好きって感情はいつでも伝えられるからこそ、色褪せないものでしょ。ロマンチックだと思うよ」
『毎日愛でれば倦怠期になりそうだな』
「ああ言えばこう言うんだから、黒川くんは。じゃあさ、『月が綺麗ですね』自体はどう思ってんの」
『お前にぴったりだろ。夏目漱石のことは何も知らねえけど、真意を隠すお前に似合う言葉だと思うな』
月は満ち欠けるものだ。月に誓ってもすぐに形を変えてしまう。
「不実だって言いたいの?」
『違う。姿かたちを変えて誤魔化しているってことだ』
「姿を変えても月は月、ね。それって……」
『明日のこと、お前はどう思うんだ?』
言い掛けた言葉を、不自然なタイミングで黒川くんが遮った。一気に剣呑な雰囲気が僕たちの間に横たわった。
折角の穏やかな夜に水を差されたような気分だ。
「平穏さを求めるのなら無駄だと思うよ」
『……ふん』
「君ならベストな選択を決めて見せるんだろうね」
『当たり前だ』
渡辺ちゃんが脳内で「こんな男に任せるなんて本意!?」と叫んだ。そ、そんなこと言われても。
「……それには必要なものが足りていないんじゃないかな」
『手助けは必要ない』
さっきとは打って変わって冷たい声を擲つ。もう会話は終了だと言わんばかりに、僕の返事を聞くことなく通話が終了した。
耳元で電子音が鳴り続ける。僕はゆっくりと携帯を下ろした。
「全く。どいつもこいつも俺の言うこと一つも聞いてくれねえよな」
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる