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第二章「傷だらけの汐苑」
03
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その夜、結衣が紗南を連れ、由希の部屋にやってきた。
仕事帰りでスーツ姿の結衣はひたすら平身低頭して由希に許しを乞う。
「本当に娘がご迷惑をおかけしまして・・・」
あまりにも強く謝られてしまい、由希は逆に自分が申し訳ない気分になってしまった。
「ほら、紗南。由希さんに謝りなさい」
「由希さん。・・・昨日はすみませんでした」
そう言って紗南はペコリとお辞儀をした。
目には涙が浮かび、制服の袖で拭い、嗚咽の表情を隠す。
由希は紗南の目線まで腰を下ろし、肩を優しく掴んだ。
「ね、紗南ちゃん。今度の土曜日、一緒に図書館に行かない?」
「え、図書館?」
「うん。結衣さん、大丈夫ですか?」
「え、ええ。由希さんがいいのなら・・・」
「なら決まり。ほら、もう泣かないで。さっき100点のテスト見せてくれた時みたいな笑顔、私もう一度みたいな」
「ありがとうございます! 私も前から由希さんと図書館行きたかったんです! 楽しみ!」
穂積親子が部屋を後にすると、由希はなぜかとても楽しい気分になり、鼻歌まじりで書庫に戻り、仕事を再開した。
書庫の窓際にはピンク色のキッチュなドールハウスが置いてあり、花をあしらったオシャレで可愛らしいドアを開けて、眉間にしわを寄せたアルメルスが爪楊枝で歯をほじくりながら出てきた。鮭とばと鬼殺しを片手にナイター中継を見るのがアルメルスの至福のひと時だ。
「あ~あ。ファイターズ負けてまったで。シーッ。なんであそこで牽制すんだべなあ。シーッ」
「新居の住み心地はどう?」
このドールハウスは昔、莉愛が遊んでいたもので、アルメルスの新居として譲り受けたものだ。
「まあ悪くはねーな。家具も一式ついているし文句はねえ。だけどオラのような漢にとっちゃ若干メルヘンすぎるきらいがあるで。和室はねーのか和室は。つーか、何か嬉しいことでもあったのか」
「実はね。今週の土曜日に紗南ちゃんと図書館に行くんだ~!」
まるで人生初のデートを控えた少女のような口ぶりだ。
「ほう。いいんでねーかな。まあ青少年育成条例に引っかからないように気をつけるんだど」
「紗南ちゃんの家、結衣さんしかいなくてお父さんはいないから、もし私が心の支えになってあげれたらなと思ってるんだ」
すると突然、アルメルスの顔が険しくなった。
「おい! それはおめーの思い上がりだで。シーッ。母子家庭だから愛情に飢えているなんてのは、偏見以外の何者でもねーど。シーッ」
「べ、別にそういうわけじゃ・・・」
「小説家なのにそんなことも分かんねーのか。子供ってのはお前が思っているほど単純なものでねーぞ」
「・・・」
「お前が思っている以上に紗南は強い子だで。普段は控えめで泣き虫かもしんねーけども。あいつには【優しさ】っつー最強の武器があるからな」
「優しさ・・・」
「そうだ。だからオラがあいつらに魔法を使えるようにした時も、性格に合う能力を与えたんだあ。知ってるべ、紗南の回復魔法。あの魔法もあいつだからこそ100%の能力を発揮できる訳よ」
(・・・そうか。あの子たちには自分だけの強みがあるんだな。・・・私には何かあるのかな)
次の日、紗南が教室に入ると、富士子を始めとした女子たちが落ち着かない様子でざわついていた。
中には泣いている者すらもいる。
「どうしたの?」紗南は富士子に聞く。
「汐苑、なんか昨日、高熱出して病院に搬送されたらしくて。ホント心配・・・」
(汐苑が? 今まで休んだことなんてなかったのに・・・)
その頃・・・
汐苑は病院のベッドで、半ば昏睡状態になっていた。
ベッドの隣で、母親はずっと慌てふためき、涙をボロボロこぼしながら右往左往している。
(あの注射のせいだ・・・ 絶対に何かの麻薬か何か打たれたんだ。甘い言葉に載せられた僕がバカだった)
昨日、路上で話しかけられた男に誘われた後のことを思い出す。
・・・・・
・・・・・
・・・・・
路地裏で男は汐苑に薬品の効能を一通り説明した後、徐に注射器を取り出した。
「注射・・・」
注射嫌いの汐苑の顔が一気に青ざめる。
「注射くらいなんだというのだ。ほんのちょっとの痛みと、これから人生で屈辱を受け続けるのと、どちらを取る気だ」
「そ、それもそうだな」
紫苑は固唾を飲んで、男に腕を差し出した。青白い肌に血管が透けて見える。
「この血清を打てば、明日にはこの世界はお前のものだ」
(一か八か・・・ ワラにすがる思いで試してやる。死んだっていいさ)
汐苑が思い切り目を閉じた瞬間、鋭い痛みが皮膚に刺さった。
(ううっ! 痛いっ!)
「・・・あれ、ごめん。ちょっとズレた」と男。
「・・・は?」
「いやあ、一応練習はしたんだけどさあ。実は先端恐怖症なんだよ俺・・・ 手に持ってるだけでも怖いもんね注射器」
男は何やらぶつくさ言いながら、もう一つ注射器を取り出した。
「ちょ、ちょっと待てお前! まさかもう一回打つのか!」
「ホントすまない。もう一回耐えてくれ」
「さっさと終わらせろ! こっちだって痛いの我慢してるんだぞ」
「悪い悪い。終わったらコンビニでアイス買ってあげるから」
・・・・・
・・・・・
・・・・・
夜になるにつれて容態は悪化していき、汐苑はとうとう意識を失った。助かる見込みはなく、老齢の医者は経験上内心諦めかけていたが、少しでも後ろ向きな態度をこのヒステリックな母親に見せると、末代まで祟られそうな予感がしてならなかった。
窓から見える景色は厚い雲のせいで尚更暗く見える。時折、遠雷が光った。
その時、汐苑の意識は病室ではない、どこかの暗闇にあった。
「・・・ここはどこだろう。僕、死んで地獄に落ちたのかな」
「少年よ・・・」
「また会ったな・・・」
昨日会った黒フードの男が、不意に現れた。
「お前、僕を騙したんだな。世界で一番強くなれる薬とか言って、なんかの麻薬か毒を注射したんだろ」
「毒・・・? クク、勘違いしては困る。今のお前の苦しみは単なる副作用さ」
「副作用・・・?」
「そうだ。しかし驚いたな。ここまで拒否反応が強いとは。もしかしたらお前は稀に見る逸材かもな」
「遠くに光が見えるだろ」
男は暗闇の向こうを指差すと、そこには一点のおぼろげな光が確かに見えた。
「そこまで歩くんだ。そうすればお前の欲しいものは全て手に入るだろう」
汐苑は何も言わず、光に向かって歩き出した。
光に近づくにつれ、足はどんどん重くなってくる。
途中まで歩くと、ついに膝から崩れ落ち、這って歩かなくてはならないほどになり、息も切れてきた。
「・・・クッ、あそこに何があるのかは分からないけど、僕はもう絶対に、誰にも支配されない・・・されてたまるか」
そして永遠にも近いような長い時間をかけ、とうとう光放つ扉にたどり着いた。
最後の力を振り絞って、汐苑はその扉を開けた。
「うう・・・ハッ!!」
気がつくと汐苑の意識は病室に戻った。
その瞬間、大きな雷が落ち、病院中の電気が一斉に消えた。
「停電だ!」
「急いで復旧させろ!」
職員たちは慌てふためいたが、すぐに電気は元に戻った。
「意識が戻ったようですね」と医者。
「ああ・・・ 汐苑、本当によかった」
母親がハンカチで目元を抑えている。
汐苑は手に点滴がつながれ、人工呼吸のマスクをつけられているのに気がついた。
「あれ? 汐苑、これは何?」
母親は汐苑の手を取ると、手のひらの中にはひんやりとした感触の小瓶が握り締められていた。
「あれ・・・なんだろう」
汐苑が気がついた途端、母親は小瓶を引ったくった。
「これは・・・香水? 紫苑、あなたこれ、誰からもらったの?」
「い、いや。僕は知らない・・・」
すると母親は汐苑の手首をガッチリと掴んだ。
「汐苑。正直に答えなさい。こんなもの、誰からもらったの」
(始まったよ・・・ 知らないって言ってるだろ)
と、汐苑は内心呆れ、母親に軽蔑の思いを抱いた。
「お、お母さま。お子様は病気なんですから」と、母親は医者に咎められる。
「誰からもらったか知らないけれど、香水なんて小学生がつけるものじゃありません。これは没収します」
いつもの厳しい口調でそう言って、小瓶を鞄の中に入れた。
「お母さん。ごめんなさい。僕、もう二度といけないもの貰ったりしません・・・」
汐苑は目に涙を浮かべ、わざとらしく哀願する。このくらい子供っぽく、オーバーにやらなければ母親の怒りが収まらず、後々面倒臭いことになるのを知っている。
「分かればいいのよ。じゃあ退院したら、今まで以上にもっと頑張りましょうね」
(・・・僕はお前らの人形じゃないんだぞ)
それから数日、汐苑は病院で過ごした。
母親は毎日やってきて塾の課題を与えようとするものだから、養生に支障を来すとのことで面会禁止になってしまった。
初めて母親から解放された心地よさを汐苑は楽しむ。
(別にこれといって悪いところもなさそうだけど・・・ 本当はもっと入院してたいな。あと半年くらい・・・ いや、一年。もっと、2年も3年も・・・)
そんなことを考えながら、窓の外の景色を見ていた。
強い日差しと、遠くに見える入道雲が夏の訪れを感じさせる。時折窓の隙間から入ってくる微風が気持ちいい。
歩道には、自分より小さい子供たちが虫取り網を持って近くの公園までかけて行った。
(虫取り、か。やったことないな。ずっとやってみたかったんだけどな・・・)
なんとなく居た堪れない気分になって徐に寝返りを打つ。
すると、背筋が凍った。
枕元に、母親から没収されたはずの小瓶が置いてある。
「え、これって・・・」
汐苑の病室は個室で、今まで部屋に入ってきたのは回診の医者と病院食を配る看護師くらいだ。
その時に彼らが置いていったとはとても考えられない。
瓶の中の液体は毒々しい色合いで、どんな匂いなのか検討もつかない。
(ちょっと付けてみるか・・・)
手の甲に、香水を軽くかけてみた。
すると、突然胃のあたりで爆発が起こったような感覚がして、心臓が大きく脈打つのがわかった。
一瞬、病気の発作が起きたのかと錯覚したが、時間がたつに連れてどんどん腹の底から力が湧き出してきた。
「なんだこれ・・・ 体がどんどん熱くなってきた」
不安に苛まれていた精神は次第に消え失せ、今まで味わったことがないほどの高揚感と全能感が湧いてきた。
点滴を引きちぎり、思わずベッドの上に立ち上がる。
「ふははははっ!! なんだこれは!! 僕はパワーアップしたんだ!!」
そのまま病室の扉を開け、駆け出した。
その速度は小学生とは思えないほどの速度で、すれ違った人々は皆何事かと怪訝に思った。
汐苑の持つ、全ての感覚が研ぎ澄まされている。
そして夏の日に照らされた病院の入り口から出た後、躊躇いもせずに道路に飛び出した。
何台もの車が、クラクションを鳴らして汐苑を避けて行った。
が、汐苑は道路の真ん中で恍惚とした表情を浮かべ、叫んだ。
「この世界を支配するのはこの僕だああっ!!」
「おい! あぶねーぞ! ひき殺されてーか! このガキ!」
車を運転していた中年の男が、汐苑に怒鳴った。
「ガキだって・・・?」
汐苑は怒りを覚え、眉間がピクリと動く。
掌に怒りのエネルギーが移っていくのがわかる。
するとそのエネルギーは光を放ち、少しずつ固まり始めた。
「・・・!!」
汐苑が気付くと、巨大な剣が掌に修められていた。
「これは使えそうだな・・・」
汐苑はツカツカと車に近づくと、剣で車を縦に一刀両断した。
切られた車は綺麗に分断されてしまった。
ドライバーの男はハンドルを持ったまま呆気に取られた表情のまま汐苑を見つめる。
「え? え?」
汐苑は男の首根っこを掴み、睨みつけた。
「グウッ・・・!! や、やめてくれ・・・」
「僕は誰にも支配されない・・・!!」
首を離してやると、男はぜえぜえいいながらその場に倒れこんだ。
体がものすごく軽くなった感覚がして、ふとジャンプする。
すると風を切りながら急上昇し、街中を見下ろせるほどの高度まで飛ぶことができた。
眩しい日差しがあたかも無言で自分を賛美しているような気がした。
(すごい・・・ 今ならなんでもできる。僕は生まれ変わったんだ。多分あの男の注射が今になって効いたんだ。香水は・・・なんなのかよく分かんないけど)
空から街中を見下ろして、計画の第一歩を思いついた。
(まずはこの僕を舐めやがった、あいつ・・・ 試しに痛ぶってやる)
仕事帰りでスーツ姿の結衣はひたすら平身低頭して由希に許しを乞う。
「本当に娘がご迷惑をおかけしまして・・・」
あまりにも強く謝られてしまい、由希は逆に自分が申し訳ない気分になってしまった。
「ほら、紗南。由希さんに謝りなさい」
「由希さん。・・・昨日はすみませんでした」
そう言って紗南はペコリとお辞儀をした。
目には涙が浮かび、制服の袖で拭い、嗚咽の表情を隠す。
由希は紗南の目線まで腰を下ろし、肩を優しく掴んだ。
「ね、紗南ちゃん。今度の土曜日、一緒に図書館に行かない?」
「え、図書館?」
「うん。結衣さん、大丈夫ですか?」
「え、ええ。由希さんがいいのなら・・・」
「なら決まり。ほら、もう泣かないで。さっき100点のテスト見せてくれた時みたいな笑顔、私もう一度みたいな」
「ありがとうございます! 私も前から由希さんと図書館行きたかったんです! 楽しみ!」
穂積親子が部屋を後にすると、由希はなぜかとても楽しい気分になり、鼻歌まじりで書庫に戻り、仕事を再開した。
書庫の窓際にはピンク色のキッチュなドールハウスが置いてあり、花をあしらったオシャレで可愛らしいドアを開けて、眉間にしわを寄せたアルメルスが爪楊枝で歯をほじくりながら出てきた。鮭とばと鬼殺しを片手にナイター中継を見るのがアルメルスの至福のひと時だ。
「あ~あ。ファイターズ負けてまったで。シーッ。なんであそこで牽制すんだべなあ。シーッ」
「新居の住み心地はどう?」
このドールハウスは昔、莉愛が遊んでいたもので、アルメルスの新居として譲り受けたものだ。
「まあ悪くはねーな。家具も一式ついているし文句はねえ。だけどオラのような漢にとっちゃ若干メルヘンすぎるきらいがあるで。和室はねーのか和室は。つーか、何か嬉しいことでもあったのか」
「実はね。今週の土曜日に紗南ちゃんと図書館に行くんだ~!」
まるで人生初のデートを控えた少女のような口ぶりだ。
「ほう。いいんでねーかな。まあ青少年育成条例に引っかからないように気をつけるんだど」
「紗南ちゃんの家、結衣さんしかいなくてお父さんはいないから、もし私が心の支えになってあげれたらなと思ってるんだ」
すると突然、アルメルスの顔が険しくなった。
「おい! それはおめーの思い上がりだで。シーッ。母子家庭だから愛情に飢えているなんてのは、偏見以外の何者でもねーど。シーッ」
「べ、別にそういうわけじゃ・・・」
「小説家なのにそんなことも分かんねーのか。子供ってのはお前が思っているほど単純なものでねーぞ」
「・・・」
「お前が思っている以上に紗南は強い子だで。普段は控えめで泣き虫かもしんねーけども。あいつには【優しさ】っつー最強の武器があるからな」
「優しさ・・・」
「そうだ。だからオラがあいつらに魔法を使えるようにした時も、性格に合う能力を与えたんだあ。知ってるべ、紗南の回復魔法。あの魔法もあいつだからこそ100%の能力を発揮できる訳よ」
(・・・そうか。あの子たちには自分だけの強みがあるんだな。・・・私には何かあるのかな)
次の日、紗南が教室に入ると、富士子を始めとした女子たちが落ち着かない様子でざわついていた。
中には泣いている者すらもいる。
「どうしたの?」紗南は富士子に聞く。
「汐苑、なんか昨日、高熱出して病院に搬送されたらしくて。ホント心配・・・」
(汐苑が? 今まで休んだことなんてなかったのに・・・)
その頃・・・
汐苑は病院のベッドで、半ば昏睡状態になっていた。
ベッドの隣で、母親はずっと慌てふためき、涙をボロボロこぼしながら右往左往している。
(あの注射のせいだ・・・ 絶対に何かの麻薬か何か打たれたんだ。甘い言葉に載せられた僕がバカだった)
昨日、路上で話しかけられた男に誘われた後のことを思い出す。
・・・・・
・・・・・
・・・・・
路地裏で男は汐苑に薬品の効能を一通り説明した後、徐に注射器を取り出した。
「注射・・・」
注射嫌いの汐苑の顔が一気に青ざめる。
「注射くらいなんだというのだ。ほんのちょっとの痛みと、これから人生で屈辱を受け続けるのと、どちらを取る気だ」
「そ、それもそうだな」
紫苑は固唾を飲んで、男に腕を差し出した。青白い肌に血管が透けて見える。
「この血清を打てば、明日にはこの世界はお前のものだ」
(一か八か・・・ ワラにすがる思いで試してやる。死んだっていいさ)
汐苑が思い切り目を閉じた瞬間、鋭い痛みが皮膚に刺さった。
(ううっ! 痛いっ!)
「・・・あれ、ごめん。ちょっとズレた」と男。
「・・・は?」
「いやあ、一応練習はしたんだけどさあ。実は先端恐怖症なんだよ俺・・・ 手に持ってるだけでも怖いもんね注射器」
男は何やらぶつくさ言いながら、もう一つ注射器を取り出した。
「ちょ、ちょっと待てお前! まさかもう一回打つのか!」
「ホントすまない。もう一回耐えてくれ」
「さっさと終わらせろ! こっちだって痛いの我慢してるんだぞ」
「悪い悪い。終わったらコンビニでアイス買ってあげるから」
・・・・・
・・・・・
・・・・・
夜になるにつれて容態は悪化していき、汐苑はとうとう意識を失った。助かる見込みはなく、老齢の医者は経験上内心諦めかけていたが、少しでも後ろ向きな態度をこのヒステリックな母親に見せると、末代まで祟られそうな予感がしてならなかった。
窓から見える景色は厚い雲のせいで尚更暗く見える。時折、遠雷が光った。
その時、汐苑の意識は病室ではない、どこかの暗闇にあった。
「・・・ここはどこだろう。僕、死んで地獄に落ちたのかな」
「少年よ・・・」
「また会ったな・・・」
昨日会った黒フードの男が、不意に現れた。
「お前、僕を騙したんだな。世界で一番強くなれる薬とか言って、なんかの麻薬か毒を注射したんだろ」
「毒・・・? クク、勘違いしては困る。今のお前の苦しみは単なる副作用さ」
「副作用・・・?」
「そうだ。しかし驚いたな。ここまで拒否反応が強いとは。もしかしたらお前は稀に見る逸材かもな」
「遠くに光が見えるだろ」
男は暗闇の向こうを指差すと、そこには一点のおぼろげな光が確かに見えた。
「そこまで歩くんだ。そうすればお前の欲しいものは全て手に入るだろう」
汐苑は何も言わず、光に向かって歩き出した。
光に近づくにつれ、足はどんどん重くなってくる。
途中まで歩くと、ついに膝から崩れ落ち、這って歩かなくてはならないほどになり、息も切れてきた。
「・・・クッ、あそこに何があるのかは分からないけど、僕はもう絶対に、誰にも支配されない・・・されてたまるか」
そして永遠にも近いような長い時間をかけ、とうとう光放つ扉にたどり着いた。
最後の力を振り絞って、汐苑はその扉を開けた。
「うう・・・ハッ!!」
気がつくと汐苑の意識は病室に戻った。
その瞬間、大きな雷が落ち、病院中の電気が一斉に消えた。
「停電だ!」
「急いで復旧させろ!」
職員たちは慌てふためいたが、すぐに電気は元に戻った。
「意識が戻ったようですね」と医者。
「ああ・・・ 汐苑、本当によかった」
母親がハンカチで目元を抑えている。
汐苑は手に点滴がつながれ、人工呼吸のマスクをつけられているのに気がついた。
「あれ? 汐苑、これは何?」
母親は汐苑の手を取ると、手のひらの中にはひんやりとした感触の小瓶が握り締められていた。
「あれ・・・なんだろう」
汐苑が気がついた途端、母親は小瓶を引ったくった。
「これは・・・香水? 紫苑、あなたこれ、誰からもらったの?」
「い、いや。僕は知らない・・・」
すると母親は汐苑の手首をガッチリと掴んだ。
「汐苑。正直に答えなさい。こんなもの、誰からもらったの」
(始まったよ・・・ 知らないって言ってるだろ)
と、汐苑は内心呆れ、母親に軽蔑の思いを抱いた。
「お、お母さま。お子様は病気なんですから」と、母親は医者に咎められる。
「誰からもらったか知らないけれど、香水なんて小学生がつけるものじゃありません。これは没収します」
いつもの厳しい口調でそう言って、小瓶を鞄の中に入れた。
「お母さん。ごめんなさい。僕、もう二度といけないもの貰ったりしません・・・」
汐苑は目に涙を浮かべ、わざとらしく哀願する。このくらい子供っぽく、オーバーにやらなければ母親の怒りが収まらず、後々面倒臭いことになるのを知っている。
「分かればいいのよ。じゃあ退院したら、今まで以上にもっと頑張りましょうね」
(・・・僕はお前らの人形じゃないんだぞ)
それから数日、汐苑は病院で過ごした。
母親は毎日やってきて塾の課題を与えようとするものだから、養生に支障を来すとのことで面会禁止になってしまった。
初めて母親から解放された心地よさを汐苑は楽しむ。
(別にこれといって悪いところもなさそうだけど・・・ 本当はもっと入院してたいな。あと半年くらい・・・ いや、一年。もっと、2年も3年も・・・)
そんなことを考えながら、窓の外の景色を見ていた。
強い日差しと、遠くに見える入道雲が夏の訪れを感じさせる。時折窓の隙間から入ってくる微風が気持ちいい。
歩道には、自分より小さい子供たちが虫取り網を持って近くの公園までかけて行った。
(虫取り、か。やったことないな。ずっとやってみたかったんだけどな・・・)
なんとなく居た堪れない気分になって徐に寝返りを打つ。
すると、背筋が凍った。
枕元に、母親から没収されたはずの小瓶が置いてある。
「え、これって・・・」
汐苑の病室は個室で、今まで部屋に入ってきたのは回診の医者と病院食を配る看護師くらいだ。
その時に彼らが置いていったとはとても考えられない。
瓶の中の液体は毒々しい色合いで、どんな匂いなのか検討もつかない。
(ちょっと付けてみるか・・・)
手の甲に、香水を軽くかけてみた。
すると、突然胃のあたりで爆発が起こったような感覚がして、心臓が大きく脈打つのがわかった。
一瞬、病気の発作が起きたのかと錯覚したが、時間がたつに連れてどんどん腹の底から力が湧き出してきた。
「なんだこれ・・・ 体がどんどん熱くなってきた」
不安に苛まれていた精神は次第に消え失せ、今まで味わったことがないほどの高揚感と全能感が湧いてきた。
点滴を引きちぎり、思わずベッドの上に立ち上がる。
「ふははははっ!! なんだこれは!! 僕はパワーアップしたんだ!!」
そのまま病室の扉を開け、駆け出した。
その速度は小学生とは思えないほどの速度で、すれ違った人々は皆何事かと怪訝に思った。
汐苑の持つ、全ての感覚が研ぎ澄まされている。
そして夏の日に照らされた病院の入り口から出た後、躊躇いもせずに道路に飛び出した。
何台もの車が、クラクションを鳴らして汐苑を避けて行った。
が、汐苑は道路の真ん中で恍惚とした表情を浮かべ、叫んだ。
「この世界を支配するのはこの僕だああっ!!」
「おい! あぶねーぞ! ひき殺されてーか! このガキ!」
車を運転していた中年の男が、汐苑に怒鳴った。
「ガキだって・・・?」
汐苑は怒りを覚え、眉間がピクリと動く。
掌に怒りのエネルギーが移っていくのがわかる。
するとそのエネルギーは光を放ち、少しずつ固まり始めた。
「・・・!!」
汐苑が気付くと、巨大な剣が掌に修められていた。
「これは使えそうだな・・・」
汐苑はツカツカと車に近づくと、剣で車を縦に一刀両断した。
切られた車は綺麗に分断されてしまった。
ドライバーの男はハンドルを持ったまま呆気に取られた表情のまま汐苑を見つめる。
「え? え?」
汐苑は男の首根っこを掴み、睨みつけた。
「グウッ・・・!! や、やめてくれ・・・」
「僕は誰にも支配されない・・・!!」
首を離してやると、男はぜえぜえいいながらその場に倒れこんだ。
体がものすごく軽くなった感覚がして、ふとジャンプする。
すると風を切りながら急上昇し、街中を見下ろせるほどの高度まで飛ぶことができた。
眩しい日差しがあたかも無言で自分を賛美しているような気がした。
(すごい・・・ 今ならなんでもできる。僕は生まれ変わったんだ。多分あの男の注射が今になって効いたんだ。香水は・・・なんなのかよく分かんないけど)
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