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八月二十五日
引き波
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──四年ぶりの帰省は、夏を探すために来た。こんなこと、誰に説明しても笑われる。だけど唯一、あやめになら、言ってもいいような気がしていた。同年代でただ一人、気心の知れた相手だから。同じ同年代でも、いとこのような身内に説明するのは、流石にはばかられる。きっと、身内か否か。そこなのだろう。
祖父母の家に帰省する時は、いつもこの部屋があてがわれていた。二階の最奥、和室の八畳。座卓と座椅子があるきりの簡素なものだけれど、寝泊まりするぶんには何の問題もない。
ついさっき開けた窓からは、部屋いっぱいに籠もっていた熱気が逃げていく。その変わりに涼風が吹き込んで、僕の髪をそっと揺らしていった。
座椅子の背もたれに寄りかかりながら、窓枠の向こうを、何がなしに凝視する。卓に開いている日記帳代わりのノートブックが、風をはらんで一枚めくれる音がした。そこにふと、目が留まった。
『──だから、存在しないあの夏に、焦がれているのだ。縁なしの紺青の空、ただ立ち昇るだけの入道雲、アスファルトに揺らぐ夏陽炎、降り注ぐような蝉時雨──その悠然さに、僕は、きっと。』
それは昨日、この村にやって来た時、すぐ書き留めた手記の一部だった。喧騒な都会の生活に辟易して、少しでもあの頃の悠然さを取り戻そうとした、僕自身のエゴに他ならない。
だから、ここに来た。手を伸ばして、背伸びをした。自分の夢想する夏というものの断片に、ほんの少しだけでも触れたいから。虚像の夏を、ほんの少しだけでも鮮明に映し出したいから。
そしてなにより、スランプを脱却したかった。今まで普通に書けていたはずの小説が、まったく書けなくなった。地元の環境が邪魔だった。だから、ここに来た。
「……これで良かった、のかな」
消え入りそうな声で自問自答するけれど、誰も答えてはくれない。それはさながら、この八畳間の森閑に、音もなく融けていくようだった。
ときおり肌を洗っていく晩夏の風は、どこかに哀愁の匂いがする。まだ、間に合う──そう言ったあやめの言葉が、ふいに、頭のどこかで鳴り響いたような気がした。
「彩織ちゃん、おる?」
思案にふける僕を現実へ引き戻すかのように、誰かが部屋の扉を叩く。顔を上げてそちらを見ると、一人の少女が、少しだけ開いた扉の合間から、頭を覗かせていた。毛先が巻かれている茶髪のショートヘアは、この家には同年代のいとこ、小夜しかいない。
ゆったりとしたワイドパンツとトップス姿で、彼女は部屋に入ってくる。柑橘類のような爽やかな匂いが、風に乗ってこちらにも漂流してくるようだった。
「そろそろ夕飯やってさ」
「うん。いま行く」
「おっけ。……なに読んどるん?」
小夜は腰に手を当てながら、卓の上にあるノートブックを覗き込もうとする。僕は咄嗟にそれを閉じると、表紙を見せるふりをして中身をごまかした。幸いにも『日記帳』とタイトルを書いてあるし、『雨宮彩織』と名前も記している。
……流石にこれを人に読まれるのは、恥ずかしい。我ながら人に言えない行動理念を持っているのはどうかと思うけれど、仕方のないことだ。この日記帳を後世まで残すかは別の話として。
「日記帳。久々にここに来たし、記念になにか書いてみようかなって」
「へぇ……よくそんなん書けるんね。小学校の夏休みを思い出すなぁ。あったやろ? 毎日の日記帳」
「うん、あった。文章とか小説とか書くのは好きだから、ちょこっとやるくらいなら苦になんないよ。学校でも文芸部に入ってるし」
「んーん、関心関心……。ウチは三日坊主や……」と苦笑しいしい、小夜は畳の上であぐらをかく。それからふと、「あっ」と思い出したように手を叩いて、少し前のめりになりながら言った。
緩やかな茶髪のショートヘアが、その動きに追随して軽やかになびく。僕を見るその瞳は、蛍光灯の白が反射していた。
「そういや彩織ちゃん、さっきどこまで行ってきたん? 村に何があったか覚えとるんー?」
悪戯心のあるような笑みで、小夜は僕の顔を見つめてくる。最後に来たのが四年前とはいえ、流石にすべてを忘れているわけじゃない。……いやまぁ、記憶が曖昧になっているところも、ないわけではないけど。
踏切は、この家から少し離れたほとんど向かいで、その線路を沿って向こう側に歩けば、駅がある。駅前には商店がいくつか並んでいて、その通りを外れると、駄菓子屋があったはず。学校も確か、その近く。
「何がどこにあるかくらいは、まだ覚えてるよ。ギリギリね」
「ギリギリかい……」
呆れたような顔の小夜を見ながら、「そういえば」と僕は切り出す。
「さっき、あの子に会ったよ。昔、たまに遊んでた──」
「あの子って誰や……男か女かはっきりせんと。同年代の子?」
「うん。──そうだ。あやめちゃん。椎奈あやめちゃん」
「えっ……」
途端に小夜が小さく悲鳴したように聞こえた。それはただ、そう聞こえただけで、本当はどこかで似たような音がしたのだろうと、そう思った。虫の声とか、野良猫の声とか、そういう類だろうと。
だから僕は、一瞬だけ窓の向こうを見る。何もないから、視線を戻す。けれど彼女は明らかに、息を呑んでいた。張り詰めたような森閑に八畳間は包まれて、それはさながら、触れたら割れてしまいそうな、玻璃のようだった。
視線が右往左往と彷徨している。きっとお互いに、酷く狼狽したような態度でいるのだろう。だからこそ、僕の発言に一切の非があるのだということを、否が応でも感じさせられた。
一二〇ほどまで急増した脈拍を直に感じながら、彼女の説明を、固唾を呑んで待たずにはいられなかった──これ以上ないほどに遣り切れないような、怖気立ったような、とにかく何とも言い様のない表情を、彼女はしていた。
「……彩織ちゃん、知らないん?」
何が、とも軽率に切り出せない口調をしている。僕は無言のまま、先を促した。
「……あやめちゃんはもう、死んでるんよ」
階下で僕たちを呼ぶ祖母の声が、どこか遠くに聞こえた。
祖父母の家に帰省する時は、いつもこの部屋があてがわれていた。二階の最奥、和室の八畳。座卓と座椅子があるきりの簡素なものだけれど、寝泊まりするぶんには何の問題もない。
ついさっき開けた窓からは、部屋いっぱいに籠もっていた熱気が逃げていく。その変わりに涼風が吹き込んで、僕の髪をそっと揺らしていった。
座椅子の背もたれに寄りかかりながら、窓枠の向こうを、何がなしに凝視する。卓に開いている日記帳代わりのノートブックが、風をはらんで一枚めくれる音がした。そこにふと、目が留まった。
『──だから、存在しないあの夏に、焦がれているのだ。縁なしの紺青の空、ただ立ち昇るだけの入道雲、アスファルトに揺らぐ夏陽炎、降り注ぐような蝉時雨──その悠然さに、僕は、きっと。』
それは昨日、この村にやって来た時、すぐ書き留めた手記の一部だった。喧騒な都会の生活に辟易して、少しでもあの頃の悠然さを取り戻そうとした、僕自身のエゴに他ならない。
だから、ここに来た。手を伸ばして、背伸びをした。自分の夢想する夏というものの断片に、ほんの少しだけでも触れたいから。虚像の夏を、ほんの少しだけでも鮮明に映し出したいから。
そしてなにより、スランプを脱却したかった。今まで普通に書けていたはずの小説が、まったく書けなくなった。地元の環境が邪魔だった。だから、ここに来た。
「……これで良かった、のかな」
消え入りそうな声で自問自答するけれど、誰も答えてはくれない。それはさながら、この八畳間の森閑に、音もなく融けていくようだった。
ときおり肌を洗っていく晩夏の風は、どこかに哀愁の匂いがする。まだ、間に合う──そう言ったあやめの言葉が、ふいに、頭のどこかで鳴り響いたような気がした。
「彩織ちゃん、おる?」
思案にふける僕を現実へ引き戻すかのように、誰かが部屋の扉を叩く。顔を上げてそちらを見ると、一人の少女が、少しだけ開いた扉の合間から、頭を覗かせていた。毛先が巻かれている茶髪のショートヘアは、この家には同年代のいとこ、小夜しかいない。
ゆったりとしたワイドパンツとトップス姿で、彼女は部屋に入ってくる。柑橘類のような爽やかな匂いが、風に乗ってこちらにも漂流してくるようだった。
「そろそろ夕飯やってさ」
「うん。いま行く」
「おっけ。……なに読んどるん?」
小夜は腰に手を当てながら、卓の上にあるノートブックを覗き込もうとする。僕は咄嗟にそれを閉じると、表紙を見せるふりをして中身をごまかした。幸いにも『日記帳』とタイトルを書いてあるし、『雨宮彩織』と名前も記している。
……流石にこれを人に読まれるのは、恥ずかしい。我ながら人に言えない行動理念を持っているのはどうかと思うけれど、仕方のないことだ。この日記帳を後世まで残すかは別の話として。
「日記帳。久々にここに来たし、記念になにか書いてみようかなって」
「へぇ……よくそんなん書けるんね。小学校の夏休みを思い出すなぁ。あったやろ? 毎日の日記帳」
「うん、あった。文章とか小説とか書くのは好きだから、ちょこっとやるくらいなら苦になんないよ。学校でも文芸部に入ってるし」
「んーん、関心関心……。ウチは三日坊主や……」と苦笑しいしい、小夜は畳の上であぐらをかく。それからふと、「あっ」と思い出したように手を叩いて、少し前のめりになりながら言った。
緩やかな茶髪のショートヘアが、その動きに追随して軽やかになびく。僕を見るその瞳は、蛍光灯の白が反射していた。
「そういや彩織ちゃん、さっきどこまで行ってきたん? 村に何があったか覚えとるんー?」
悪戯心のあるような笑みで、小夜は僕の顔を見つめてくる。最後に来たのが四年前とはいえ、流石にすべてを忘れているわけじゃない。……いやまぁ、記憶が曖昧になっているところも、ないわけではないけど。
踏切は、この家から少し離れたほとんど向かいで、その線路を沿って向こう側に歩けば、駅がある。駅前には商店がいくつか並んでいて、その通りを外れると、駄菓子屋があったはず。学校も確か、その近く。
「何がどこにあるかくらいは、まだ覚えてるよ。ギリギリね」
「ギリギリかい……」
呆れたような顔の小夜を見ながら、「そういえば」と僕は切り出す。
「さっき、あの子に会ったよ。昔、たまに遊んでた──」
「あの子って誰や……男か女かはっきりせんと。同年代の子?」
「うん。──そうだ。あやめちゃん。椎奈あやめちゃん」
「えっ……」
途端に小夜が小さく悲鳴したように聞こえた。それはただ、そう聞こえただけで、本当はどこかで似たような音がしたのだろうと、そう思った。虫の声とか、野良猫の声とか、そういう類だろうと。
だから僕は、一瞬だけ窓の向こうを見る。何もないから、視線を戻す。けれど彼女は明らかに、息を呑んでいた。張り詰めたような森閑に八畳間は包まれて、それはさながら、触れたら割れてしまいそうな、玻璃のようだった。
視線が右往左往と彷徨している。きっとお互いに、酷く狼狽したような態度でいるのだろう。だからこそ、僕の発言に一切の非があるのだということを、否が応でも感じさせられた。
一二〇ほどまで急増した脈拍を直に感じながら、彼女の説明を、固唾を呑んで待たずにはいられなかった──これ以上ないほどに遣り切れないような、怖気立ったような、とにかく何とも言い様のない表情を、彼女はしていた。
「……彩織ちゃん、知らないん?」
何が、とも軽率に切り出せない口調をしている。僕は無言のまま、先を促した。
「……あやめちゃんはもう、死んでるんよ」
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