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第十局
☖ 戦いのあとに
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全身をかけめぐっていた熱が、一気に放たれていく心地がした。
ぼうぼうと耳鳴りがしていて、周りの人たちの声はよく聞こえない。
無我夢中で指していたから、対局が終わったのかどうかすらもあいまいで、今もまだ戦いの真っ最中にいるみたいに思える。
それでも――目の前の赤金君が、くやしそうに唇をかんでいるのを見た瞬間に、私は、やっと実感したのだ。
勝てたんだ、と。
「……ありがとうございました」
盤や、それを置いてある机よりも、ずっと深いおじぎを返す。
無言で頭を下げていた赤金君もゆっくりと顔をあげて……私はそこで、ようやく、初めて赤金君の姿をしっかりと確かめた。
茶色がかった黒髪をもつお父様――赤金志々雄名人よりも、少し明るい茶色のくせ毛。短めに整えられた、上向きの眉毛のかたちやその顔立ちからも伝わる、いかにも活発そうな性格の雰囲気。
対局中は気丈で強気な輝きを放っていた赤茶色の虹彩は、滲んだ涙に溶けて、ゆらゆらと揺れている。
……赤金君って、こんな人やったんや。
悔しげに表情を歪めていた赤金君は、しばらく黙りこんだままだったけれど、やがてぼそぼそと口を開く。
「おれ、父さんが名人だからって、周りからは結構プレッシャーかけられてたから。最近、将棋があんまり楽しくなかったんだ」
「……そうやったん」
「でも、今の将棋と……あと、準決勝の、あいつとの将棋は、まあまあ楽しかった」
「……っ!」
そっかあ。
私との対局だけじゃなくて、アルフレッド君との対局も、何だかんだで楽しんではいたんだ。
その割には、結構、アルフレッド君にはひどいことを言っていたような気もするけれど……赤金君の本心は分かったし、よかった気もする。
憎まれ口も叩くけれど、結局のところ、赤金君だって、将棋に一生懸命なひとなんだ。
赤金君は、どこかすっきりしたように小さく笑って、私に手をさしのべてくる。
「またやろうぜ。そんでもって、次は俺が勝つ」
「うん。今度も負けへん」
赤金君の手をにぎり返して、私も笑う。
戦いを終えて握手を交わす私たちを、あたたかな拍手が包みこんでいた。
☖
「サファイア! こっちこっち!」
閉会式を終えて、トロフィーを抱えて戻ってきた私に、アルフレッド君が大きく手を振った。お父さんも、私に気付いて小さく手を振ってくれている。
「アルフレッド君、お父さん」
私が二人のもとへ駆け寄ると、アルフレッド君は、さっきまでの悔し涙なんてすっかり忘れた様子で、ぴょんぴょん飛び跳ねながら私を迎えてくれた。
「おめでとう、サファイア!」
「うん。ありがとう、アルフレッド君」
「すごい、すごいや、本当に優勝しちゃったじゃないか!」
「うふふっ。言うたやんか、『アルフレッド君の気持ちも背負って勝つ』って」
「そうだけどさ! 最強の小学生に勝ったんだよ? やっぱりすごいよ!」
興奮したようにほおを赤くするアルフレッド君。私よりもよっぽど大げさに喜んでいて、ちょっと面白くなっちゃった。
思わずくすくす笑ってしまう私を見て、アルフレッド君は、ふと問いかけてくる。
「ねえ、サファイア」
「なに?」
「去年の大会で、置き忘れてきちゃった気持ち。取り戻せたかい?」
思わず、トロフィーを持つ手に力がこもった。
アルフレッド君は、私がなんて答えるかを、きっともう、うすうす分かっている。
それでもこれは、やっぱり、私がきちんと言葉にするべきなんだ。
「……うん」
だから私は、ぴかぴかのトロフィーをぎゅうっと抱きしめて、胸を張る。
「ちゃんと、取り戻せたよ。アルフレッド君」
将棋が誰よりも大好きだっていう気持ち。
大好きな将棋で、誰にも負けたくない気持ち。
今回の優勝は、二つの気持ちが重なったからこそ得られた結果だ。
アルフレッド君はなにも言わずにうなずいて、ただ満足そうに眼鏡の奥の目を細めている。
そんな彼にほほえみ返して、私は、今度はお父さんのほうへ向き直った。
「お父さん」
「ああ」
「勝ったで」
「うん。ちゃんと見とった」
「がんばったやろ、私」
「……ああ。ようやった……」
お父さんは笑いながら言っているつもりなんだろう。それでも、お父さんの目からは、こらえきれなかった涙がぼろぼろとこぼれていく。
実は私、知っていたんだ。
お父さんが、私が決勝戦で指している間、ずっとお母さんの写真を抱えていたことを。
お母さんに、私の対局を――去年よりも強くなった私を、見せてくれていたことを。
お父さんは、「やめたい」と言った私の気持ちも、「やめたらええ」と言ったお母さんの気持ちも、どっちも理解していた分、ずっと苦しかったと思う。
でも、私はもう、去年までの私とも、アルフレッド君が転校してきた日にお父さんと指した私とも違う。
だから、今なら、素直な気持ちで言えるよ。
「お父さん。私な、やっぱり将棋が大好き。色んな人たちと、もっともっとようけ指して、本気で戦って、今よりもっと強くなりたい」
――だからね、お父さん。
「私、研修会に入りたいです。だから、私の師匠になってください!」
そう言って私が頭を下げると、お父さんは泣きながら、不器用な手つきで髪をなでてくれた。
ノータイムでお父さんが指した一手。
それは、私を弟子に取るという覚悟を――親子ともども、厳しい勝負の世界で生きていく覚悟を決めたということを、雄弁に示す一手だった。
「……覚悟せえよ。今までよりも、もっと厳しく教えるさかいな」
「はい。――よろしくお願いします、『師匠』!」
一番弟子になる私の言葉に、お父さんは、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、照れたように笑っていた。
ぼうぼうと耳鳴りがしていて、周りの人たちの声はよく聞こえない。
無我夢中で指していたから、対局が終わったのかどうかすらもあいまいで、今もまだ戦いの真っ最中にいるみたいに思える。
それでも――目の前の赤金君が、くやしそうに唇をかんでいるのを見た瞬間に、私は、やっと実感したのだ。
勝てたんだ、と。
「……ありがとうございました」
盤や、それを置いてある机よりも、ずっと深いおじぎを返す。
無言で頭を下げていた赤金君もゆっくりと顔をあげて……私はそこで、ようやく、初めて赤金君の姿をしっかりと確かめた。
茶色がかった黒髪をもつお父様――赤金志々雄名人よりも、少し明るい茶色のくせ毛。短めに整えられた、上向きの眉毛のかたちやその顔立ちからも伝わる、いかにも活発そうな性格の雰囲気。
対局中は気丈で強気な輝きを放っていた赤茶色の虹彩は、滲んだ涙に溶けて、ゆらゆらと揺れている。
……赤金君って、こんな人やったんや。
悔しげに表情を歪めていた赤金君は、しばらく黙りこんだままだったけれど、やがてぼそぼそと口を開く。
「おれ、父さんが名人だからって、周りからは結構プレッシャーかけられてたから。最近、将棋があんまり楽しくなかったんだ」
「……そうやったん」
「でも、今の将棋と……あと、準決勝の、あいつとの将棋は、まあまあ楽しかった」
「……っ!」
そっかあ。
私との対局だけじゃなくて、アルフレッド君との対局も、何だかんだで楽しんではいたんだ。
その割には、結構、アルフレッド君にはひどいことを言っていたような気もするけれど……赤金君の本心は分かったし、よかった気もする。
憎まれ口も叩くけれど、結局のところ、赤金君だって、将棋に一生懸命なひとなんだ。
赤金君は、どこかすっきりしたように小さく笑って、私に手をさしのべてくる。
「またやろうぜ。そんでもって、次は俺が勝つ」
「うん。今度も負けへん」
赤金君の手をにぎり返して、私も笑う。
戦いを終えて握手を交わす私たちを、あたたかな拍手が包みこんでいた。
☖
「サファイア! こっちこっち!」
閉会式を終えて、トロフィーを抱えて戻ってきた私に、アルフレッド君が大きく手を振った。お父さんも、私に気付いて小さく手を振ってくれている。
「アルフレッド君、お父さん」
私が二人のもとへ駆け寄ると、アルフレッド君は、さっきまでの悔し涙なんてすっかり忘れた様子で、ぴょんぴょん飛び跳ねながら私を迎えてくれた。
「おめでとう、サファイア!」
「うん。ありがとう、アルフレッド君」
「すごい、すごいや、本当に優勝しちゃったじゃないか!」
「うふふっ。言うたやんか、『アルフレッド君の気持ちも背負って勝つ』って」
「そうだけどさ! 最強の小学生に勝ったんだよ? やっぱりすごいよ!」
興奮したようにほおを赤くするアルフレッド君。私よりもよっぽど大げさに喜んでいて、ちょっと面白くなっちゃった。
思わずくすくす笑ってしまう私を見て、アルフレッド君は、ふと問いかけてくる。
「ねえ、サファイア」
「なに?」
「去年の大会で、置き忘れてきちゃった気持ち。取り戻せたかい?」
思わず、トロフィーを持つ手に力がこもった。
アルフレッド君は、私がなんて答えるかを、きっともう、うすうす分かっている。
それでもこれは、やっぱり、私がきちんと言葉にするべきなんだ。
「……うん」
だから私は、ぴかぴかのトロフィーをぎゅうっと抱きしめて、胸を張る。
「ちゃんと、取り戻せたよ。アルフレッド君」
将棋が誰よりも大好きだっていう気持ち。
大好きな将棋で、誰にも負けたくない気持ち。
今回の優勝は、二つの気持ちが重なったからこそ得られた結果だ。
アルフレッド君はなにも言わずにうなずいて、ただ満足そうに眼鏡の奥の目を細めている。
そんな彼にほほえみ返して、私は、今度はお父さんのほうへ向き直った。
「お父さん」
「ああ」
「勝ったで」
「うん。ちゃんと見とった」
「がんばったやろ、私」
「……ああ。ようやった……」
お父さんは笑いながら言っているつもりなんだろう。それでも、お父さんの目からは、こらえきれなかった涙がぼろぼろとこぼれていく。
実は私、知っていたんだ。
お父さんが、私が決勝戦で指している間、ずっとお母さんの写真を抱えていたことを。
お母さんに、私の対局を――去年よりも強くなった私を、見せてくれていたことを。
お父さんは、「やめたい」と言った私の気持ちも、「やめたらええ」と言ったお母さんの気持ちも、どっちも理解していた分、ずっと苦しかったと思う。
でも、私はもう、去年までの私とも、アルフレッド君が転校してきた日にお父さんと指した私とも違う。
だから、今なら、素直な気持ちで言えるよ。
「お父さん。私な、やっぱり将棋が大好き。色んな人たちと、もっともっとようけ指して、本気で戦って、今よりもっと強くなりたい」
――だからね、お父さん。
「私、研修会に入りたいです。だから、私の師匠になってください!」
そう言って私が頭を下げると、お父さんは泣きながら、不器用な手つきで髪をなでてくれた。
ノータイムでお父さんが指した一手。
それは、私を弟子に取るという覚悟を――親子ともども、厳しい勝負の世界で生きていく覚悟を決めたということを、雄弁に示す一手だった。
「……覚悟せえよ。今までよりも、もっと厳しく教えるさかいな」
「はい。――よろしくお願いします、『師匠』!」
一番弟子になる私の言葉に、お父さんは、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、照れたように笑っていた。
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