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霜焼け
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霜焼けが痛い。
「こんな所にいるわけないでしょう。早く戻るわよ。」
「……分からないだろ。」
「長居したら心中する前に死ぬわ。」
「…………。」
寒風が首裏を撫でて、背筋があわだつ。どれほど前のことか、遊園地に行った時に入った、極寒の館を思い出した。そのときに隣にいたのはこの女ではなく、誰か他の人間だったはずだが。
じゃりじゃりと濡れた地面を歩く彼女の後ろを歩きながら、ひそかに後方を振り返る。
木も草も、岩のひとつだってない。遠く遠くまで広がる白い地平線の向こうには海があり、そう海辺には遠くない場所には赤い鯨が浮いている。数日前までは、もう少し海辺が遠かったはずだが、どうだっただろう。段々と海面が上昇しているのは前々から知っていることだが、この雪原がいつ沈むかの予想まではできない。
目を凝らせば、所々、雪原に突起のようなものがいくつかあるのが分かる。まるで月面のような、……そんな、クレーターのようなかわいいものでないことくらいは分かる。先程、それらをいくつか崩したばかりなのだ。
「……あと三日もしたら、ここを離れましょう。どうせいないわ、貴方の彼氏さんは。」
「彼氏じゃない。」
「心中しようってのに?」
「……俺の勝手だ。」
「そうでした。」
くすくすと笑い声を白く浮かび上がらせながら、前を歩く女は笑う。極寒には到底耐えられそうにもない黒のジャケットが、吐く息と雪で湿って、光を鈍く反射していた。
「こんな雪原にいたら、流石に分かるんじゃないかしら。そのお相手様、手首に赤いリストバンドば付いているんでしょう?」
「白に赤はすぐ分かる、って?んなの、雪に埋もれてたらわかんねえだろ。ちゃんと全部探してからだ、ここを離れるのは。」
「海岸線が近づいて、流れた死体だってあるでしょう。その中にお相手様がいたらどうするの?意味もなく、これからもずっと探すの?」
「どうせ最後は全部海の底だ。もし仮にあいつが海に食われたっていうなら、地上がなくなるその時に海に飛び込んで死ぬ。」
「得体の知れないものに食べられてたら?」
「例えば?」
「あの赤い鯨とか。」
「だったら、その鯨にでも無理やりにでも食われに行く。一匹しかいねえんだ、外れはないだろ。」
「…………へぇ。」
一段と濃い白が笑って、ぐわりと揺れる。
その白が消え行く方向を追いかけるついでに、俺は再度海の方を見やった。霜焼けが痛む。
赤い鯨が永遠と往復する海は、その鯨以外は、特に前と変わりない。空と同じ青い顔をして、段々と、段々と、地上を食っていく。もしあいつがすでに食われていたのだとしたら、俺が今していることはとんでもない無駄足なのだろう。
ただそれでも、まだ食われていない可能性があるならば。とんだ無駄足だとしても、踏む価値がある。
「私のお友達の死体は、とっくにあの底でしょうけどね。」
前を歩く彼女がふとそう言って笑った。乾いていた。
「だからと言って、海に飛び込もうとは思わないけれど。飛び込むにしても、海岸線が赤道辺りにきたころがいいわ。今よりはまだあたたかいはずだもの。」
「死ぬのにあたたかいほうがいいのか。」
「寒いのは熱いし、何より痛いでしょう?」
そこまで言われて海から視線を戻せば、不幸なことに、女はこちらを振り返っていた。
うすらと霜がかかった黒い前髪の下で、濡れた睫毛を傘に赤い瞳が笑っている。その視線は、どこかで拾ったダウンジャケットからはみ出た、俺の左手に向けられていた。
「マニアは嫌じゃないの?痛いの。」
「…………まさか。」
嫌ではないわけがない。
冷えたポケットに両手を突っ込み、目を逸らす。霜焼けが痛い。じんわりと熱をもった肌が痒い。指先がじりじりと焼かれているようで、気持ちが悪い。全身がこの感覚で覆われるなんて、想像もしたくない。
霜焼けが痛い。……痛い、が。
それよりもずっと痛むものが、冷たくて寒いものが、随分と前から身体の中に居座っているのだ。痛いだなんて、……今更だ。
「死んだら、痛いもなにもないでしょうけどね。私は嫌よ、痛い思いをして死ぬのは。」
「やらなきゃいいだろ。」
「そうね、やるのはマニアだけね。」
前に向き直り、彼女は「お互い幸せになれればいいのよ」と言う。袖から手を出して、色の変わらない指先で濡れた黒髪を手慰みにすいていた。
「私はいいのよ、二回目の心中なんてごめんだもの。」
「寒いのが嫌だから愛してた奴も捨て置く、ってか?」
「まさか!」
多分、一生分かり合えることはない。と、溌剌とした声を聞きながらに思う。
随分と前からすくう寒さも痛みも、それが終わったのと始まったのとではわけが違う。この女はとうに終わったのだ。寒さなんて感じるわけもない。
目がくらむほどの白を、俺はまた振り返る。雪の下に埋まっているのかもしれない、親しい彼の顔を思い出す。
霜焼けが痛い。……痛いのは、嫌だ。だから、寒いのは嫌だ。
どうせなら、あたたかいあいつの隣で死にたかった。
【霜焼け】
「こんな所にいるわけないでしょう。早く戻るわよ。」
「……分からないだろ。」
「長居したら心中する前に死ぬわ。」
「…………。」
寒風が首裏を撫でて、背筋があわだつ。どれほど前のことか、遊園地に行った時に入った、極寒の館を思い出した。そのときに隣にいたのはこの女ではなく、誰か他の人間だったはずだが。
じゃりじゃりと濡れた地面を歩く彼女の後ろを歩きながら、ひそかに後方を振り返る。
木も草も、岩のひとつだってない。遠く遠くまで広がる白い地平線の向こうには海があり、そう海辺には遠くない場所には赤い鯨が浮いている。数日前までは、もう少し海辺が遠かったはずだが、どうだっただろう。段々と海面が上昇しているのは前々から知っていることだが、この雪原がいつ沈むかの予想まではできない。
目を凝らせば、所々、雪原に突起のようなものがいくつかあるのが分かる。まるで月面のような、……そんな、クレーターのようなかわいいものでないことくらいは分かる。先程、それらをいくつか崩したばかりなのだ。
「……あと三日もしたら、ここを離れましょう。どうせいないわ、貴方の彼氏さんは。」
「彼氏じゃない。」
「心中しようってのに?」
「……俺の勝手だ。」
「そうでした。」
くすくすと笑い声を白く浮かび上がらせながら、前を歩く女は笑う。極寒には到底耐えられそうにもない黒のジャケットが、吐く息と雪で湿って、光を鈍く反射していた。
「こんな雪原にいたら、流石に分かるんじゃないかしら。そのお相手様、手首に赤いリストバンドば付いているんでしょう?」
「白に赤はすぐ分かる、って?んなの、雪に埋もれてたらわかんねえだろ。ちゃんと全部探してからだ、ここを離れるのは。」
「海岸線が近づいて、流れた死体だってあるでしょう。その中にお相手様がいたらどうするの?意味もなく、これからもずっと探すの?」
「どうせ最後は全部海の底だ。もし仮にあいつが海に食われたっていうなら、地上がなくなるその時に海に飛び込んで死ぬ。」
「得体の知れないものに食べられてたら?」
「例えば?」
「あの赤い鯨とか。」
「だったら、その鯨にでも無理やりにでも食われに行く。一匹しかいねえんだ、外れはないだろ。」
「…………へぇ。」
一段と濃い白が笑って、ぐわりと揺れる。
その白が消え行く方向を追いかけるついでに、俺は再度海の方を見やった。霜焼けが痛む。
赤い鯨が永遠と往復する海は、その鯨以外は、特に前と変わりない。空と同じ青い顔をして、段々と、段々と、地上を食っていく。もしあいつがすでに食われていたのだとしたら、俺が今していることはとんでもない無駄足なのだろう。
ただそれでも、まだ食われていない可能性があるならば。とんだ無駄足だとしても、踏む価値がある。
「私のお友達の死体は、とっくにあの底でしょうけどね。」
前を歩く彼女がふとそう言って笑った。乾いていた。
「だからと言って、海に飛び込もうとは思わないけれど。飛び込むにしても、海岸線が赤道辺りにきたころがいいわ。今よりはまだあたたかいはずだもの。」
「死ぬのにあたたかいほうがいいのか。」
「寒いのは熱いし、何より痛いでしょう?」
そこまで言われて海から視線を戻せば、不幸なことに、女はこちらを振り返っていた。
うすらと霜がかかった黒い前髪の下で、濡れた睫毛を傘に赤い瞳が笑っている。その視線は、どこかで拾ったダウンジャケットからはみ出た、俺の左手に向けられていた。
「マニアは嫌じゃないの?痛いの。」
「…………まさか。」
嫌ではないわけがない。
冷えたポケットに両手を突っ込み、目を逸らす。霜焼けが痛い。じんわりと熱をもった肌が痒い。指先がじりじりと焼かれているようで、気持ちが悪い。全身がこの感覚で覆われるなんて、想像もしたくない。
霜焼けが痛い。……痛い、が。
それよりもずっと痛むものが、冷たくて寒いものが、随分と前から身体の中に居座っているのだ。痛いだなんて、……今更だ。
「死んだら、痛いもなにもないでしょうけどね。私は嫌よ、痛い思いをして死ぬのは。」
「やらなきゃいいだろ。」
「そうね、やるのはマニアだけね。」
前に向き直り、彼女は「お互い幸せになれればいいのよ」と言う。袖から手を出して、色の変わらない指先で濡れた黒髪を手慰みにすいていた。
「私はいいのよ、二回目の心中なんてごめんだもの。」
「寒いのが嫌だから愛してた奴も捨て置く、ってか?」
「まさか!」
多分、一生分かり合えることはない。と、溌剌とした声を聞きながらに思う。
随分と前からすくう寒さも痛みも、それが終わったのと始まったのとではわけが違う。この女はとうに終わったのだ。寒さなんて感じるわけもない。
目がくらむほどの白を、俺はまた振り返る。雪の下に埋まっているのかもしれない、親しい彼の顔を思い出す。
霜焼けが痛い。……痛いのは、嫌だ。だから、寒いのは嫌だ。
どうせなら、あたたかいあいつの隣で死にたかった。
【霜焼け】
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