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第二部

"前夜" 3

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 結局、それから母はその話には触れて来なかった。

 あまり深く考えていないのか。もしくは、その話題を意識的に避けているのか。その話をしようとすると、すぐに私の前からいなくなってしまう。
 本当は、もう少しちゃんと話をしておきたかった。

 そんな状況のまま、創介さんが我が家に来る日曜日になった。
 優太もどこか落ち着かない様子で。母は何かを心に決めたのか、厳しい表情をしていた。



 約束の時間に、団地の建物の外まで創介さんを迎えに行く。

「待たせたか?」
「いえ、全然。時間ぴったりです」

早くもなく遅くもない時間に創介さんは現れた。

 落ち着いた色合いのネイビーのスーツに同系色のネクタイをして、年相応の雰囲気を醸し出している。いつもは、年齢よりも上に感じるから、その変化に気づいた。手には、どこかのお店の紙袋を持っている。

「じゃあ、行こうか――」
「あの……っ」

ぴんと伸びた背中に、咄嗟に声を掛けた。

「ん?」

創介さんが振り返る。創介さんに近付き、そっと腕に触れた。

「私も隣にいるので、だから――」
「俺のこと心配してくれてるのか? それほど、今緊張してるのがばれてたか」

そう言って、創介さんが笑う。

「緊張しているようには全然見えないです」
「いや、人生で一、二を争うほどに緊張してる。結局、おまえの家に来る時は緊張するってことだな」

創介さんでも、緊張したりするんだ――。

そんなことを思って、その顔を見上げた。確かに、いつもと違うかもしれない。

「とにかく、誠心誠意話をしようと思ってるから」

そう言うと、私の手のひらを一度ぎゅっと握ってくれた。その力強さと温かさが伝わって来る。そして、その手は離れて行った。

「――よし。行こう」

創介さんが自分に言い聞かせるように、スーツの襟を正した。



「お休みのところお時間をいただきありがとうございます」

いつも私たち家族が過ごしている和室に創介さんがいる。その隣に私が座り、向かい側に母と優太が座っていた。

 なんとも言えない緊張感が、この庶民的雰囲気の溢れた和室に立ち込めている。創介さんがいるだけで、いつも以上に狭く感じた。

「雪野の母です。隣にいますのが、雪野の弟の優太です」

母がそう紹介すると、「どうも」と硬い表情で優太がほんのわずか頭を下げた。

「初めまして、榊創介と申します」

創介さんを見つめる母の目は、強いもので。優太も必死で怯まないようにと虚勢を張っているように見えた。
 最初からこんな雰囲気で、どうなるのか。向かいに座る母と優太の顔ばかり見てしまう。

「雪野さんとのことでお願いがあり、参りました」

母も弟も分かっているとは言え、創介さんの言葉により気を張り詰めているのが分かる。

特に、母は――。

「ひたむきで心優しく芯が強い、そんな雪野さんに惹かれました。この先の人生を共に生きて行きたいと強く思うようになりました。人生をかけて雪野さんを幸せにします。どうか、雪野さんとの結婚をお許しください」

創介さんが座卓から少し後ろへ下がり、深く頭を垂れる。その姿を見て、私もすぐさま同じように頭を下げた。

「私も創介さんと一緒に生きて行きたいって思ってる。だから、結婚を認めてください」

ただひたすらに母の声が発せられるのを待つ。その沈黙が異様に長く感じられた。

「――分かりました」
「お母さんっ」
「ありがとうございます――」

母の言葉に、私と創介さんが一斉に顔を上げると、すぐさま母の声が飛んで来た。

「榊さんのご両親は、こんな風にすぐに了承されましたか?」
「……え?」

顔を上げて見つめた母の顔は、酷く険しい顔をしていた。決して結婚を喜んでくれている表情ではない。笑顔になりかけた表情はすぐに引き戻される。創介さんも、困惑した様子で母を見ていた。

「雪野と結婚したいとご自分のご両親にお話された時、喜んでくださいましたか?」

話し方は落ち着いている。でも、それは明らかに詰問だった。

「雪野から少し話は聞いています。榊さんは、名のある家の方だとか。うちはご覧の通り、ごく普通の、いえ普通より下の家庭だと思います。父親はいませんし、私も仕事をしているとは言えパートを掛け持ちしてなんとか生活を成り立たせている。最近は、雪野が就職したおかげでやっと少し余裕のある生活ができるようになった。そんな家です――」
「お母さん、そんなこと、創介さんにはもうとっくに話してある」
「雪野は黙ってて」

母の厳しい声に、私の言葉は遮られた。

「私のような人間には、上流階級の方がどのようなお考えをお持ちなのか分かりません。だから確認しておきたいんです。雪野は、榊さんのご家族に、喜んで迎えてもらえるんですか?」
「それは――」
「何も持たない娘です。それでも、雪野でいいと言ってくださったんですか?」
「お母さんっ!」

母の強い口調に、私は思わず声を張り上げてしまった。隣に座る創介さんが私を制止し、母を真っ直ぐに見つめて口を開いた。

「確かに、僕のような家はごく普通の家だとは言えないでしょう。おっしゃる通り、父は最初からもろ手を挙げて賛成だとは言いませんでした。でも、今では僕たちの結婚を認めていますし、何より、僕自身のことですから誰が何と言おうと意思を変えるつもりはありません」
「それはつまり、反対されていたご両親を榊さんが説得された。そういうことでいいですか?」
「はい。今ではきちんと認めてくれています」

そう言った創介さんに、母が言い放った。

「それで、雪野は幸せになれるんでしょうか」
「お母さん、どうしてそんなこと――」
「榊さんにお聞きしてるの。雪野は、辛い思いをしないでしょうか」

さっきから責めるようなことばかりだ。聞いていると苦しくなる。

「榊さんのご両親はかなり反対なさったはずです。それは、家のレベルが違い過ぎるからです。多少の違いはどの結婚にもあるでしょう。でも、榊さんとうちとでは違い過ぎる。反対されたご両親の気持ちも分かります。お互いにとって不幸なこと。私だって、雪野の母として、苦労すると分かっているところに嫁になんか出したくないと思います」

どうして、そんなことを今言うのか――。

前もって創介さんの話をしたときには賛成とも言わなかったけれど、反対だとも言わなかった。

それなのに、どうして、こんな風に今――。

「雪野には幸せになってほしい。この子には、これまで苦労ばかり掛けて来ました。普通の子がやれることをやらせてやれなかった。だからこそ、これからは幸せになってほしい。親の勝手ですが、そう願ってきました」

お母さん――。

「それなのに、どうしてわざわざしなくていい苦労をしなくちゃいけない? もっと普通の結婚があるじゃない。肩ひじ張らず、引け目も負い目も感じず、自然体で一緒にいられる人がいるはず。それなのに、どうして……」
「母さん……」

母の隣に座っていた優太が、声を詰まらせた母に声を掛ける。その姿を見ていればいたたまれなくなる。

一体、今、創介さんは何を感じているだろう――。

「――僕も、同じことを考えました。何度も」

じっと話を聞いていた創介さんが、口を開いた。

「雪野さんにとって、自分のような人間と一緒になることがいいことなのか。しなくていい苦労をさせることになる。他に、もっと幸せになれる相手がいるんじゃないかと。でも、どうしても雪野さんを諦められませんでした」
「榊さんは、雪野を本当に愛していますか?」

母の鋭い声が空気をぴんと張りつめさせた。

「もちろんです。心から大切に想っています」
「本当にそうでしょうか。あなたは、ただ、雪野のような人間に傍にいてほしいだけなんじゃないですか? 親の私が言うのもなんですが、雪野は本当に優しい子です。いつも自分のことより他人のことばかり考えてしまう。そんな雪野の優しさは、あなたにとって居心地のいいものでしょう。そういう存在を手放したくないのかもしれない。でも、雪野は? あなたを居心地よくするために雪野はいるの?」
「お母さん!」

捲し立てるように言葉を放つ母に耐えられなくなった。 

「そんな言い方ない。お母さんに創介さんの気持ちの何が分かるの? 私たちの何が分かるのよ。私が何より創介さんといたいの。私が幸せなのよ。だから結婚したいんじゃない!」

母の気持ちは分かる。私を思って不安になるのも、心配してしまうのも。でも、勝手に創介さんの気持ちを決めつけるのが耐えられなかった。

「雪野はまだ分かっていないの。結婚がどういうものか。二人だけの問題じゃないってこと。家族同士のことだということ」
「そんなこと分かってるよ――」
「雪野」

創介さんが私を見て頷いて見せた。その表情は、とても真摯なものだった。

「心配されるのも、不安になられるのも、当然のことだと思っています。それでも引き下がるわけにはいきません。本当に雪野さんを愛しているのかと言われましたが、この気持ちに嘘はありません。愛しているからこそ二人で幸せになる方法を考えて行きたいと思っています。苦労をかけてしまう時もあるかもしれません。でも、そばにいて雪野さんを守りたいーー」
「あなたがいない時は? その時は、どうするんですか?」
「お母さん。もう、いい加減に――」
「あなたが仕事でいない時。雪野が一人でいる時。その時、あなたは雪野を守れますか? 結局、雪野は一人で闘わなければならない」

こんなにも反対されるなんて思わなかった。

母にこんなにも強い気持ちがあったなんて……。

 結局、その日、母から「娘をよろしくお願いします」という言葉は出て来なかった。
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