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第二部
あなたのために出来ること 5
しおりを挟む会釈しながら栗林専務がにこやかにこちらへと向かって来る。そして、その一歩後ろに奥様がいた。
こちらにたどり着いた栗林ご夫妻が副社長と奥様に挨拶を終えると、奥様が口を開いた。
「栗林さん、今、ちょうど創介さんとお話していたのだけれど」
その言葉で、栗林ご夫妻の視線が創介さんへと向けられた。
「あら、創介さんでしたのね。申し訳ございません、気付きませんで――」
栗林専務の奥様が丁寧に創介さんに頭を下げると、創介さんの隣に立つ私に視線を移した。
「……雪野さん?」
そのとき初めて、私の存在を認識したようだった。
腰に当てられていた創介さんの手のひらに、優しく力が込められる。
「奥様、お久しぶりです。雪野、栗林専務夫妻に挨拶を」
その手のひらを支えに、ぐっと足元に力を込めた。しっかりと奥様と栗林専務に向き合う。
まず専務に挨拶をした後、真っ直ぐに奥様を見つめた。
「奥様、先日はお誘いくださりありがとうございました。それなのに、大変失礼を致しまして申し訳ございませんでした」
なんとか、声を震わすことなく挨拶をすることが出来た。
「雪野さん、今日は、結婚式の時とはだいぶ雰囲気が違うね。一瞬誰だかわからなかった」
栗林専務が笑顔ではありながらも目だけは笑っていないような顔でそんなことを言う。
奥様は、この前会った時のような上から見下ろすような視線ではなく、ただ目を見開いて私を見ていた。このドレスとメイクのせいだろうか。
「それで今、雪野さんの話をしていたんだが」
副社長が栗林専務夫妻に話題を振る。説明を付け足すように、副社長の奥様が口を開いた。
「私、前回の幹部婦人の会合に行けなかったじゃない? 創介さんが奥様のことで大変心配なさっているんだけれど、栗林さん、何か事情をご存知?」
「……え?」
栗林専務の奥様が驚きの表情のまま、副社長の奥様へと視線を向けた。
「そうなんです。妻が、栗林専務のお宅にうかがってからずっと、失礼をしてしまったと気に病んでいまして。僕が事情を聞こうとしても詳しいことを話そうとしない。とにかくお詫びをしなければと思っているのですが、どんな無礼なことをしたのか分からないままではお詫びも出来ない」
申し訳なさそうな表情をしながらも、すらすらと創介さんが栗林専務の奥様に言葉を続ける。
「香代、何かあったのか?」
「い、いえ……」
栗林専務からの視線、副社長ご夫妻、そして創介さん。そんな四者からの視線が一斉に栗林専務の奥様に向けられた。
「僕の、たった一人の大切な妻ですから、皆様に可愛がっていただけるように導きたい。ご迷惑をおかけしたのならお詫びするのが筋ですし、これからのためにも間違ったことは正さなければいけません。でも、本人が硬く口を閉ざすのでどうしたものかと頭を悩ませておりまして。どうか、僕を助けると思って、お教えいただくわけにはいきませんか」
「雪野さんも、ご自分の立場上遠慮なさって詳しいことを創介さんに話せないのかもしれない。そんな雪野さんをこれ以上問い詰めるのも可哀そうだし、栗林さん、お話して差し上げて」
副社長の奥様が創介さんの言ったことを助けるように、そう続けた。
ここは私がきちんと言葉を発するべきなのだろう。
だけど、あの日のことをどう話すという――?
でも、創介さんはほとんどの事情を知っていると言っていた。なのにどうして教えてほしいなんて言うのか。
もしかして……。
私は、そこである考えが頭に浮かぶ。
分かっていて、わざと――?
創介さんを見上げた。
あの創介さんが、そんなお芝居みたいなことをするの? でも、何のために――?
「別に、失礼なことだなんて、そんなことはされてませんよ。雪野さんの勘違いじゃないかしら?」
栗林専務の奥様が視線を逸らす。発せられたその声は抑揚のないものだった。
「そんなはずはありません」
申し訳なさそうな顔をしていたはずなのに、創介さんは突然厳しい口調でそう言い放った。
「勘違いですむような些細なことではないはずだ。どれだけ気に病んでいたか、見ていたから分かります。妻の性格は十分すぎるほどに分かっている。昨日今日、出会ってすぐ結婚したような関係ではないので」
創介さん――。
「そうらしいねぇ。なんでも、二人はもう五年もの付き合いだって言うじゃないか。創介君がそんなにも一途な男だったなんてな。私も、社長からその話を聞いた時は驚いたよ」
副社長がそう言ったのを聞いていた栗林専務の奥様の表情が、一瞬変わる。
「妻は、慣れないこともあり、まだまだ至らない点はあると思います。でも、自分の妻のことではありますが、彼女が真面目で人に対して誠実な性格だと知っている。そんな彼女が悔いていることを、解消してやりたい。必要なら共に詫びて、許しを乞いたいと思っています」
「私は、別に……」
栗林専務の奥様の表情に悲壮感が滲み出て、そんな姿を見ていれば黙っていられなくなった。
「創介さん、私――」
私が咄嗟にあげた声を遮るように創介さんが言った。
「もし教えていただけないのなら、あらゆる手を尽して調べるしかありません。仕事のことなら、どんな状況でも冷静に合理的に対処できると自負しているのですが、妻のことになると我を忘れてしまうんですよ」
創介さんの目が険しく鋭くなる。
「これまでずっと、大切に守って来た存在ですから」
創介さんの言葉に、ただただ胸が詰まる。横たわる沈黙のあと、副社長の奥様が呟いた。
「調べる……ね。創介さんのお気持ち、よくわかったわ。私も仲良くさせてもらっている奥様たちに、少し聞いてみましょう――」
「調べるだなんて大袈裟な。そんな必要ないですよ!」
焦ったように、栗林専務の奥様が声を上げた。
「大袈裟? 僕にとっては何があったか事実を知ることはとても重要なことだ。それとも――」
創介さんの鋭く低い声と、射抜くような視線に私までびくつく。
「調べられては困るようなことでもあるのですか?」
その視線に、栗林専務の奥様が怯えたように表情を強張らせた。
「い、いえ、別にそういうわけではありません。そんなお手間をお掛けしたくないというだけで」
創介さんは、栗林専務の奥様が本当の事情を話せないだろうと分かっている。分かっていて、言わせようとしている――。
「あ、ああ……そうだわ。もしかしたら、幹部婦人の会合の準備をお手伝いできなかったことを言っているのではないかしら? 雪野さん、そんなことならもう気になさる必要はないのよ? 次から気を付けていただければいいんだから」
引きつった笑顔を浮かべながら栗林専務の奥様が私を見つめる。その奥様の視線に、どう答えるべきなのか分からずにいると、副社長の奥様が問い質した。
「栗林さん。幹部婦人の会合について、雪野さんに事前にきちんと説明はされたのかしら?」
「それはもちろん、案内状をお送りして――」
「そう言えば、会合の案内状はいついただけたのでしょうか? 僕が出張に出る前は雪野から一切その話は聞いていない。それなのに、出張中にはもう会合があったと聞いている」
またも、栗林専務の奥様の言葉を創介さんは遮った。
創介さんは、奥様を追い詰めようとしている。最初から、申し訳ないともお詫びをしたいなどとも思っていないのだ。
私が苦しんだ分の報いを与えようとしているの――?
「どうしてそんなに直前まで、会合のことについてお知らせいただけなかったのですか?」
創介さんの栗林専務の奥様に対する詰問に、私は思わず創介さんの腕を掴んだ。
「それはどういうこと? 初めて参加する時、どれだけ緊張するか、どれだけ不安なのか、栗林さんにも経験があるのだから分かりますよね? ましてや、雪野さんはまだお若いのだからなおさらよ。余計に親身になってあげてもよかったのでは?」
副社長の奥様は、決してきつい口調ではなく、それは諭すような話し方だった。でも、その話の内容こそが栗林専務の奥様を責めている。
「それは――」
「もしかして、僕の妻が疎ましいから……ですか?」
「創介さんっ」
咄嗟に声を上げてしまう。
「まさかっ!」
でも、その声にかぶさるように栗林専務の奥様の叫びにも似た声が発せられた。苦虫を噛み潰したような表情で、創介さんを見ている。
「香代、おまえは一体、榊君の奥さんに何をしたんだ?」
「私は、ただ――」
栗林専務がまるで叱責するかのように、奥様に問い掛けた。
この状況に、ひやひやとして生きた心地がしない。私が、自分一人の力で対処できていれば、こんな状況を作らずに済んだのかもしれない。何か上手く場を収める言葉はないだろうか。そう必死で頭をフル回転させている時だった。
「――社長」
副社長の声に、その場にいた全員がその先に視線を向けた。創介さんのお父様が現れて、一瞬にしてこの場に緊張感が走る。
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