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第一章 たった一人の家族
―メイ―②
しおりを挟む暗い道の中を兄に手を握られて家に帰った。
「もう、大丈夫だと思うけど……」
小さくそう囁きながら兄がうかがうように玄関のドアノブを回す。木造の二階建てのアパートの一階の左端。そこが私たちの家だ。
玄関ドアはところどころべニアが剥がれていてる。本来新聞を入れるべきところには、なんだかよく分からない紙がたくさん入っていた。ドアノブも少し握っただけでグラグラとする。玄関脇にある四角い窓は暗いままだった。
「あれ……、母さんいないのかな……」
そっと開けた扉の隙間に、兄が頭をのぞかせる。その背中の後ろにぴったりとくっついた。
「……っあ。ああ……んっ」
何か呻き声のようなものが暗がりの中から聞こえて来る。聞いたことがあるような気もするし、ないような気もする。
この前、夜にお母さんが泣いていた声に似ているかもしれない――。
そう思うと、急に心がざわつき出した。
「ねえ、お兄ちゃん。お母さん、泣いてるのかな……」
微動だにしない兄の背中に声を掛ける。すると、ハッと我に返ったようにこちらを向くとすぐにドアを閉めた。
「な、なんでもないと思うよ。メイは心配しなくていい。それより、もうちょっと遊ぼうか」
「え? 今帰って来たばかりだよ? それにもうこんなに真っ暗だし」
せっかく家に帰ったばかりなのに、兄は何を言い出すのだろう。目をぱちくりとさせて兄を見上げた。
「夜の冒険だよ。この前読んでやった絵本であっただろう? 夜になると起き出す優しい怪獣がいるんだ」
「それ、本当に優しいかなぁ」
不安な気持ちが消えなくてそう声を漏らしてしまう。
「優しいって。兄ちゃん、夜にこっそり探検に行ったことがあるんだ。そうしたら、凄く優しくてさ、一緒に遊んでくれたんだよ」
ぱたぱた――。二度の瞬きの間に見える兄の瞳が哀しく光った。
「でも、メイ、お腹すいたよ」
さっきから何度もお腹が鳴っている。学校の給食から何も食べていない。一体今が何時なのかもわからない。
「じゃあ、優しい怪獣さんが何か美味しいものをくれるかも。行ってみよう」
兄が私の手のひらを掴んで走り出した。建ち並ぶ家々から漏れる温かい光の中を、私たちは二人で走った。
「ごめん、メイ。今日は、怪獣さん見つけられなかった……」
砂場のある公園の裏手にある雑木林。街灯もないから空を見上げていないと真っ暗だった。疲れ切った足と空腹の身体で今にも座り込んでしまいそうになる。そんな私に気付いて、兄が立ち止まった。
「じゃあ、もう帰ろう」
「そうだな。家に帰ってご飯食べよう」
風が吹くたび木々がさざめく。暗くはっきりとしない周囲の視界の中で、その音は一際響き恐怖心をあおる。
「うん。もう、メイ、帰りたい」
「メイ、怖いのか?」
「怖い」
泣きたくないのに、勝手に涙が零れ落ちて来そうになる。温かかったはずの空気も冷たくなって、痛いほどにお腹もすいて、歩き続けた足はじんじんとする。
「兄ちゃんがいるから大丈夫。怖いことなんてないよ。ほら、兄ちゃんに掴まって。これなら安心だろう?」
しゃがみ込んだと思ったら、背中をこちらに向ける。言われるがままにその背中に身体を預けた。
「お兄ちゃん、重くない?」
「兄ちゃんは、今日で十一歳だしな。メイ一人くらいなんてことないさ」
心細かった心が、兄の背中の温かさで一気にホッとする。ぎゅっと兄の肩を握り締めた。
兄が歩く振動が心地よい。一定のリズムで上下する肩が私をなだめるかのようで。疲れ切っていた身体が眠気を連れて来て、気付くと私は夢を見ていた。兄と二人で、うちとはまるで違う綺麗な部屋でテーブルの席に着いていた。目の前には、ケチャップでお花の絵が描かれたオムライスと湯気の出ているスープ。そして、向かいに座っている兄は、見たこともないような染み一つない真っ白なシャツを着ていた。
『お兄ちゃん、ここどこ? このご飯、食べてもいいのかな』
『いいに決まってるだろ。ここはメイのおうちなんだから』
『お母さんは?』
『このおうちに母さんはいないんだ。母さんがいないと、メイは寂しいか?』
兄の目がゆらゆらと揺れている。
『ううん。メイ、お兄ちゃんがいれば寂しくないし』
本当はお母さんもいてほしいと思ったけれど、そう答えたら兄が悲しむような気がした。それに、もし、母親と兄と、どちらか片方を選ばないといけないのだとしたら、私は迷わず兄を選ぶ。兄を一人にするのは絶対に嫌だった。
『そっか。じゃあ、食べようか。きっとすごくおいしいよ』
光が反射してキラキラとするスプーンを手に持つ。そしてすべすべの卵焼きにそっとスプーンを差し入れた。
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