闇を泳ぐ

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第四章 たった一人の愛しい人

―春彦―④

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 正式に正社員となって、本格的に梅雨に入った六月末、夜の工事現場での仕事を辞めた。
 
 仕事をしていない時、メイが大学の授業がない時、バイトがない時。誰にも邪魔されない俺たちの家は、息を乱す場所に変わる。

 お互い隠し抑えて来た分だけ、決壊したダムのように求める感情がとめどなく溢れ出したかのようだった。
 昼間はなんでもないような顔で過ごし、夜にはただの獣に変わり果てる。明るいうちは二つに離れていた身体を繋ぎ合わせるように、片時も離れていたくなかった。ずっと繋がったままでいたいと心が叫ぶ。繋がった身体を分かつ時、それまで溺れていた幸福から引き離されて、その感じた幸福の分だけ苦しみに変わるからだ。

 後にやってくる苦しみを分かっていても、欲しくて欲しくてたまらなくて。常に乾いて、常に欲していた。

 
 メイの大学の夏休み。たったの一週間、ほんの一週間離れていただけなのに、乾ききってからからの身体が狂おしいほどにメイを求めて、その衝動に駆り立てられた俺は、大きなミスを犯した。
 いつもなら、用心に用心を重ねて慎重に行動するのに、その人影に気付くことが出来なかった。

 八月の、暑さもピークにあった中旬のことだった。

 メイが、大学の授業の一環で課外活動に出かけていた。一週間の日程で教授とともに実地での研究調査をするとかで、それで単位が取れるのだと言っていた。

 出掛ける前の晩だって、お互い会えない日の分を埋め合わせるためかのように何度も抱き合ったというのに。

この家にメイがいない――。

たかだか一週間という期間なのに、身体の半分がもぎ取られたかのように辛かった。毎夜毎夜、焦がれて。

 恋人――。そうとは呼べない関係だから、その一週間の間にメイから電話があるわけでもない。メールが来るわけでもない。本当は、メイは存在していないんじゃないかって、そんなことまで思う始末だった。

 メイが帰って来ることになっていた土曜日。仕事が休みだったこともあって、この身体が勝手に動いていた。

 マイクロバスを一台貸し切ってそれで移動し、大学の正門前で集合して解散になると聞いていた。
 逸る気持ちを抑えられなくて、その不自然さについて考えることもなく、そこへと向かった。
 恥ずかしいほどに余裕のない自分。情けなくて仕方がない。いつから、こんなに我慢が出来ない人間になったのだろう。一刻も早く会いたくてたまらなかった。

 バスの到着予定時刻よりも十分ほど早く大学の正門を道路を隔てた場所にたどり着いた。

 もう夕方と言ってもいい時間なのに、太陽は嫌という程に地上を照りつけている。あまりの陽射しの強さに、思わず目を伏せた。
 そんな時、ちょうど一台のマイクロバスが正門脇に滑り込んで来た。一人、また一人と学生たちが降りて来る。

メイ――。

その姿を見つけて、駆け付けようとした足が止まる。バスから出て来たメイが、数人の学生たちと楽しそうに談笑していたからだ。
 女子学生二人と、そして男が一人――。それは、以前、酔ったメイを家まで送り届けて来て、そしてメイを抱きしめていた男。その男にメイが笑いかけている。燦々と照りつける太陽の下で、明るく笑うメイ。その姿に、胸に重い鈍痛が広がって行く。

外では、そんな風に笑うんだな――。

もうずっと、俺の前では、メイはあんな風に笑わなくなった。そこから動けなくなった。

「お、にいちゃん……?」

それでも、メイはどこにいても素早く俺を見つけ出す。道路一つ分離れた距離にいるというのに、その目が、いろんなものをすり抜けて俺を真っ直ぐに見つめて来る。そんなメイを、俺はどうしても手放せない。

 メイが、俺の姿を認めて、はにかんだように笑う。それは決して、晴れ渡るような笑顔じゃない。それでも、その目に俺だけが映る。ゆっくりと、メイに向かって歩き出す。

「どうしたの? 迎えに来てくれたの……?」

驚いたようにメイが、ぎこちなく問い掛けて来た。周囲には、メイの友人らしき学生がいるから、何かを悟られないように平静を装う。

「長谷川さんのお兄さん?」

傍にいた二人の女子学生が俺をじっと観察するように見ているのに気付いて、慌てて挨拶をした。

「どうも、メイの兄です。いつも妹がお世話になっています」
「いえ……。こちらこそ、いつも長谷川さんには仲良くしてもらってます」

軽く頭を下げて微笑むと、慌てたようにその女子学生が手を大きく振った。

「これからも、仲良くしてやってください」
「も、もちろんです!」

何故だか、緊張した面持ちでそう返されたのを笑顔で応えた。

一刻も早くメイの手を引いて、ここから連れ出したい――。

「ーー先日は、どうも」

そう思っていたところに、山内というあの男が少し強張った表情で俺に頭を下げて来た。

「いえ。こちらこそ、送ってもらったのに失礼しました」

その目――。山内という男のその目が俺を落ち着かなくさせる。何かを探ろうとしているような、それでいて挑発的な視線。

「長谷川さんにこんな素敵なお兄さんがいたなんて。迎えに来てくれるなんて、優しいね――」
「う、うん。じゃあ、みんなお疲れ様。また、連絡する」

女子学生の声を遮り、メイが慌てたように話を切り上げる。おそらく、メイも同じことを考えている。一刻も早く、この場から立ち去りたいと。

 その場を離れて、あの学生たちが視界から消えてから、俺は、メイの腕を強く掴んだ。
 一週間ぶりに触れたメイの肌。ただ、手首をつかんだだけなのに、鼓動が荒れ狂ったように騒ぎ出す。
 さきほどあの学生たちに見せた笑顔なんて、跡形もなく消え去って。ただ、メイが欲しいと、この欲望を抑えられない。

「お、お兄ちゃんっ……」

それでも、家の前まではなんとか耐えた。すぐそこにいて掴まえている。荒れ狂う胸を抑えつけて、ただその腕を強く引いた。
 そして、アパートの部屋のドアを開けた瞬間に、この腕の中に閉じ込めていた。

まだ、完全に扉が閉まっていたわけではないのに――。

 その身体をきつく抱きしめ、素早く唇を塞ぐ。触れたと同時にもうその唇をこじ開けていた。この一週間焦がれ続けた、そのメイの感触を確かめたくて少しの時間も待てなかった。絡まる熱で身体中が痺れ始めた時に、頭の片隅でドアが閉じる音がした。

 だから、一階から俺たちの部屋を見上げていた人影に、全く気付くことが出来なかった。
 ドアが完全に閉まって、やっと二人しかいない場所に閉じ込めることが出来て、互いに夢中だった。

 メイが、いつも以上に身体を押し付けて来る。重ね合わせた舌も、今にもからめとられてしまいそうなほどだ。
 激しいまでのメイの欲情に煽られるように、こちらまでもまともな思考など吹っ飛んで行く。

「……一週間の間、この身体、誰かに触らせたりした……?」

触れたくて握り締めたくて、メイのブラウスのボタンを乱暴に外して行く。それでもその一つ一つがもどかしくて、半分まで外したところで無理やりに肩を暴いた。剥き出しになった肩に噛みつくように唇を這わせる。

「そんなこと、するわけ、ない……ふぁ……っ」
「あの男にも……?」

執拗に、舌で、手のひらでメイを昂ぶらせていく。

「あの、男……って、なに……?」

既に身体に力の入らなくなっているメイが、くたっと体重を俺に掛けて来た。

「もう、立ってられないのか……?」
「ベッドに、行きたい――」

熱に浮かされたような目で俺を見つめるから、たまらなくなって唇を塞ぐ。そのまま抱きあげると、メイが俺の腰に足を絡めた。
 しっかりと抱きしめて、そして激しいキスを繰り返しながらメイの部屋のベッドへと横たえた。

「会いたかった。お兄ちゃんに、早く……」

乱れた着衣が余計に煽情的で、淫らで、それでいて恐ろしいほどに綺麗だった。白い肌がほのかに桃色に染まり、すぐにでも食べ尽したくなる。

「本当に……?」
「お兄ちゃんの、こと、ばっか、考えてた」

痛いほどにきつく俺の首に腕を回して来た。その力の強さが、そのままメイの気持ちなのだと分かるのに、俺の心は、もっともっとと渇望する。

「どれくらい、俺のこと考えてたの……?」

身体中を愛撫しながら、耳元で囁く。もっと昂ぶらせて、淫らな言葉をメイから吐かせたい。

「お兄ちゃんの、唇も、てのひらも、一人で、思い浮かべて……」

荒々しい吐息の狭間で、メイが懸命に言葉を紡ぐ。この手は遠慮なく、メイを攻め続ける。

「一人で、したのか……?」

メイは泣きそうになりながら、ふるふると頭を振った。

「したくて、たまらなかったけど……必死で、我慢してた。だから――」

狂おしそうで切なそうなメイの表情を見れば、そのいじらしさに胸が締め付けられる。

「嫌ってほど、してやるよ」

メイを抱くたびに、その身体を儚く思う瞬間が必ずある。今にも消えてしまうんじゃないかと、本当は存在しないんじゃないかと。手のひらに確かにその肌を感じているのに、唇を寄せればその柔らかな感触を得られるというのに。

いつか、こんな時間も終わる――。

そんな漠然とした恐怖が常に付きまとう。

何度身体を繋げても、メイがここにいると実感しても、いつの日か、まるで何もなかったかのように痕跡すらなくなる日が来るのではないか――。

「誰の目にも触れさせたくない。どこにも行かせずに、ここに閉じ込めておきたい――っ」

そんなことを思わず口にしてしまうほどに、メイに溺れていた。心の奥底にある罪悪感。それに向き合うことが出来ず、自分のしていることの善悪も、メイを想っているはずの感情も、何もかも深く考えられない。

 考えてしまったら、突きつけられてしまったら、俺は、きっと耐えられない。耐えられなくて、壊れてしまう。

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