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第五章 たった一人の兄と妹
―メイ―⑦
しおりを挟む次の日の朝、女子トイレに行くと、女子社員二人にじっと見られた。特に面識はない。気のせいだろうとも思ったけれど、明らかにこちらを見ている。それでいて、何か声を掛けて来るわけでもない。結局、そのまま何も言うことなくトイレから出て行ってしまった。
一体、何……?
不思議な気持ちのまま自分のデスクに戻ると、ちょうど森嶋さんが出勤して来たところだった。
「おはようございます。昨日は、どうもごちそうさまでした」
「ああ、いいよ」
革の鞄を肩に掛けながら、森嶋さんが軽く手を上げた。もう一度会釈をして自分の席に着こうとした時、私の隣に座る男性社員が声を上げた。
「森嶋さん、もう長谷川さん誘ったんですか? 相変わらず動きが早いですね」
「人聞きの悪いことを言うなよ。俺のせいで残業させたから、それで飯を奢っただけ」
男性社員の発言に少し気になるところはあったけれど、目の前の仕事に精一杯で深く考える余裕はない。
それからなんとなく、近くの席にいる女子社員の視線が気になるようになった。
それだけじゃない。同じ係内で共有するはずの連絡事項が、私だけに届かない。ランチを兼ねた打ち合わせにも、私だけが呼ばれなかった。
「なんで、今日の打ち合わせ来なかった?」
「……え?」
森嶋さんに指摘されても何を言われているのか理解できなかった。
「久遠さんから聞いてない?」
「久遠さん、ですか……?」
私の斜め前に座る二年先輩の女性社員だ。ちらりと視線を合わせると、一瞬にやりとした次の瞬間に驚いたような顔をした。
「さっき伝えたわよね? 今日のランチはミーティング兼ねてるから第三社食に来てって」
「え? 私、そんなことは聞いていませんが――」
混乱する私に、森嶋さんが冷たく言い放つ。
「もう学生じゃないんだ。ちゃんとしろ」
もう一度久遠さんを見ても、もうその視線は別のところに向けられていた。
一体、どういうこと――?
広いフロアを見渡す。そこにいる人皆が全然知らない人に見える。確かに私もここにいるのに、自分だけがいない。そんな錯覚に陥ってしまいそうになる。
その後も、似たようなことが立て続けに起きた。それは決まった女子社員から。何が何だかわからなかった。それでも、こんなこと誰にも言えずにいた。
「ちょっと、長谷川さん!」
それから少し経った日のこと、同期の女の子と廊下ですれ違った時に素早く腕を引かれた。
「どうしたの?」
「いいからちょっと来て」
廊下の端にある階段の踊り場まで連れて来られたところで、開口一番「まずいよ!」と叫ばれた。
「何が?」
「森嶋さんと、夜会ってたんだって? 駅前のいい雰囲気の店から、長谷川さんと森嶋さんの二人が出て来るのを見た先輩がいたみたいなの。それで、長谷川さん目の敵にされてる」
矢継ぎ早にそう言われても、どれもこれも意味が分からない。
「森嶋さん、女子社員に人気あるじゃない?」
そんなこと知らない。
「森嶋さんって、人気があるだけじゃなくて、ちょっと問題アリの人で」
「問題?」
「新人の女の子に手を出したことがあるらしくて。それで捨てられた人が同じ社内にいるのよ。その人が長谷川さんを見れば面白くないじゃない? それに、あのルックスだからどうしたって目を引くし、女子社員にとっては、森嶋さんが特定の誰かを特別扱いしているのを見たくないんじゃないかな」
特別扱いって、あの人が指導担当なのだから仕方がないではないか。
それなのに、そんな理由で嫌がらせなんて――。
「まだ新人だし、気を付けた方がいい。女子社員は敵に回すと厄介だから。もし、長谷川さんが森嶋さんを好き、とかだったらあれだけど……」
「まさか。そんなことあるわけない。でも、教えてくれてありがとう」
女の怖さを実感するのは何年振りだろう。
自分の席に戻っても、ただ居心地が悪いだけだ。森嶋さんのような人が指導係になってしまったのが不運だった。仕事だから接しないわけにはいかない。ただでさえ、新しい環境で神経を張り詰めているというのに、そんなことにまで気を使わなければならないことが嫌でたまらなかった。
同じ係内にいても、自分だけが浮いているような気さえしてしまう。
「長谷川さん、ちょっと」
「は、はい」
森嶋さんに呼ばれるだけで、身体が強張る。
今はまだ、私自身が困るような嫌がらせだけで済んでいる。でも、いつか、仕事に大きな影響を与えるようなことがあったとしたらと、考えるだけでぞっとする。
「今度、取引先との打ち合わせがあるんだ。サンプルをいくつか持っていくから、このリストのもの準備しておいて」
「分かりました」
誰かの視線を感じるせいで、森嶋さんと目を合わせることも出来ない。
「じゃあ、よろしく頼むな」
肩をポンと叩かれる。そのとき、大袈裟なほどに肩がびくついて、森嶋さんにも気付かれてしまった。
「どうした……?」
「いえ、なんでもありません。では、準備しておきます」
すぐに森嶋さんに背を向けて自分の席へと戻ろうとした時、久遠さんの鋭い視線とぶつかった。
森嶋さんが以前手を出したというのは、久遠さんではないか――。
考えただけで面倒だ。
「取引先との打ち合わせ、長谷川さんも一緒に行くから。ちゃんと取引先のこと勉強しておいて」
背後から突然声が聞こえてハッとする。
「はい。分かりました」
ただ頭だけを深く下げる。
その日の夕方近く、森嶋さんと一緒に取引先に打ち合わせに行った。社内から出てからは少し気が楽になったけれど、どこで誰が見ているか分からない。一瞬だって気を抜くことは出来なかった。
「長谷川さん」
「はい」
取引先との打ち合わせもなんとか終えてそのオフィスビルを出た時には、もう空の色は完全に暗くなっていた。
「今日は直帰でいいって、課長から言われてるから」
「そうですか。では、お疲れ様でした。私はここで――」
一刻も早く森嶋さんから離れたくて、すぐさま立ち去ろうとした。
「ちょっと待て」
その腕が私へと伸びて来た。
「なんですか?」
「君さ、社会人の自覚ある? 話をする時は人の目を見る。俺は仮にも先輩だ。そんな態度あるのか? 最近、長谷川さんの俺に対する態度に気付かないとでも思ってる?」
ぐいっと掴まれた腕がジンジンと痛い。その痛みが、これまで抱えてきたものを溢れさせてしまいそうになる。
誰のせいで、こんなにも耐えているのか。職場に来るのが辛いのか――。
「失礼な態度を取っていたことは謝ります。でも、それを言うのだったら、森嶋さんも――」
そこまで言いかけて口を噤む。
森嶋さんに何と言うというの――?
特別何かされたわけでもない。はっきりとしたことを言われたわけでもない。
「俺が、どうしたの……?」
鋭く射抜くような視線が突き刺さる。腕を掴む手のひらの力も強さを増す。
「はっきり言いなよ」
わなわなと唇を震えさせるだけで何もできない。自分の無力さに虚しささえ覚える。
「……周囲の方が、森嶋さんと私のことを誤解しているようです。ですので、森嶋さんも、少し気を付けていただけると助かります」
そう言うのが精一杯だった。
何の言葉も返って来ない。それが森嶋さんの怒りを表しているような気もする。とにかく、もう私を解放してほしかった。
「それで、誰かに何か言われたりしたの?」
不意に近くなった森嶋さんの声に驚く。いつの間にか至近距離に森嶋さんが立っていた。
「誰……? 言ってごらん?」
「誰、というのではありません。ですから――」
「ごめん、配慮が足りなかった。謝るよ」
森嶋さんから離れようとするのに掴まれたままの腕が少しも動かない。
「私、帰ります――」
「女子社員に何か言われたんだろう? 君は、綺麗過ぎるから」
「離してください」
森嶋さんの声のトーンが変わって行く。それが怖くて、掴まれた腕を強く引いたのに余計に大きな力で引き寄せられた。
「これからは、俺が守ってあげるから。だから俺の彼女になりな。そうしたらもう、誰にも何も言わせないよ」
この人、何言ってるの――?
「やめてくださいっ」
オフィス街の真ん中だということに気付いたのか、ビルとビルの間にある物陰に強い力で連れて行かれた。
「強がるなよ」
冷たい壁に押し付けられて見下ろされたその目は、今までに見たこともない目だった。どこか冷たくて見下したような目。それでいて、絡めとるような獲物を捕らえる男の目だ。
「オフィスでいたたまれないんだろう? 新人だから尚更だ。助けて欲しいだろ。助けるだけじゃない。いい思いもさせてやるから」
その口調もいつもとは違う。会社に入ったばかりの、不安で弱い立場の女の子からすれば、魅力的で年上の男性社員に迫られたら落ちてしまうのかもしれない。
これまでも、そうやって――。
目の前の男に怒りばかりが湧き上る。そんな私におかまいなしに、何を思ったのか無理矢理唇を押し付けて来た。
「やっ!」
力づくで抱きすくめられて、強引に唇を割られる。いつかの記憶が、ありありと蘇って。身体中が壊れたように震えだした。
あの家にいた頃、狭い部屋に置かれた二段ベッド。複数の男と圭太――。
もうとっくに過去のことになっていたと思っていたことが、たった今起きたことのように鮮明に映像が流れだす。震えて仕方ない身体から懸命に力を振り絞り、森嶋さんを押しのけた。
「や、やめて、ください……っ」
声までも震える。それに気付いたのか、森嶋さんの腕が緩んだ。
「本当に、怖かったのか……?」
力づくだったその腕がそっと私の肩に触れようとする。
「し、失礼します……っ」
触れられる寸前に自分の身体を自分の腕で抱きしめて、森嶋さんからすり抜けるように走り出した。
夜のオフィス街を走り抜ける。伸びた髪が何度も顔にかかって、視界を邪魔する。
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