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第五章 たった一人の兄と妹
―メイ―⑥
しおりを挟む社会人になって、私の生活は一変した。
アパートと同じ市内にあった大学とは違って、勤務地は東京のオフィス街大手町にある。通勤に一時間半はかかる。
一週間程度の研修の後は、新入社員とは言え、定時に帰るということはほとんどなかった。
定時までに終わらなかった仕事がある時はもちろん、同じ係内の他の社員の仕事が終わっていなければ新人の自分だけ帰るということは出来ない。
広いオフィスには遠くまでデスクが並ぶ。上司の席の後ろには天井までのガラス張りの窓。そこからは東京の中心地にあることを示すように、東京の街が見渡せた。
仕立ての良いスーツを着た男性社員に、育ちの良さそうな品の良い女性社員。私から見れば、すべての人に気後れした。
自分が浮いているのではないか。他の人と、どこか違って見えているのではないか。少なくとも、同期入社の人たちは、私とは育った環境がまったく違う。研修中は一日中一緒にいたから、自然といろんな話をした。両親揃いっているのは当然でその両親も高学歴だったり、本人たちも中学から名門の私立に通っていたという人も少なくない。
なんとなく家族の話になる時があった。
『うちのお母さん、本当に口うるさくて。お弁当はいいって言ってるのに、無理矢理持たせるのよ? 最初のうちは栄養が必要だーとか言って』
――そうか。普通に親がいる人にとっては、親に世話してもらうのは面倒なことなんだ。
大学時代にも友人たちにそんなギャップをよく感じていた。でもこの有名企業では、大学の時に感じたより、普通以上の家庭の選ばれた人間たちが集まっているのだと実感した。
『長谷川さんのところはどう?』
『あ……うちは両親いないから。お兄ちゃんと二人で暮らしてる』
そう言うと、皆が驚いたような顔をして次の瞬間困惑する。
『そ、そうだったんだ。偉いんだね……』
『偉いのは、お兄ちゃんだけどね』
例え周りの人とは違う環境で育ったのだとしても、嘘をついたりしたくなかった。何も恥じることはない。私はいつだって、兄を誇りに思ってる。
「――長谷川さん」
自分のデスクで、私の指導係の先輩社員に頼まれていた資料を必死になって作成していたら、その先輩が声を掛けて来た。
「追加で、これもお願いしていいかな」
「期限はいつまでですか?」
椅子から立ち上がり向かい合う。
「急ぎで悪いんだけど、今日中にお願いしたいんだ。ごめんね」
ちらりと壁に掛けてある時計を見る。既に十九時半を過ぎていた。追加で頼まれた資料の内容を把握する。ざっと計算してみても、多分、一時間くらいはかかる。
「分かりました」
今作成中のものを終えてから取り掛かれば、今日中に仕上げるのは可能だろう。
「助かるよ」
手のひらが不意に私の肩にポンポンと触れた。
少し茶色がかった髪は地毛なのか。身に着けているシャツもネクタイもスーツも、スタイリッシュでまるでモデルのよう。手首にある腕時計は、派手ではなくてもいいものだとすぐにわかる存在感。こういう人に囲まれて、今まで自分のいた世界と全然違うのだと思い知る。
とりあえず、早く仕上げないと――。
私はすぐにキーボードに手を戻した。
集中していたためか、気付くとフロア内が静かになっていた。腕時計を見ると二十一時を回っている。なんとか終えることが出来た。
同じデスクの島には、私とその先輩社員しか残っていない。
「森嶋さん、頼まれていた資料できました。確認をお願いします」
二つ隣の席に座る先輩社員の傍まで言って手渡した。
「おお。早いね。ありがとう……。うん」
そう言ってその資料を特に見直しもせずにデスクの脇に置いてしまった。
「あの、今日中に必要だったのでは――」
「ああ。明日の確認で大丈夫だから。それより」
森嶋さんが急に立ち上がり、その距離が近くなる。
「まだ新人なのに、こんな時間まで残らせちゃってごめんね。夕飯まだだろ? お礼に奢るよ」
きっちりセットされた前髪からのぞく目が、私を見る。
「い、いえ、仕事ですので。お礼なんて――」
「いいから、遠慮しないで。こういう時の先輩からの申し出は、特に新人のうちは断らないのが礼儀だよ?」
これからこの人の元で働かなければならない。そう思ったら、確かに無下に断ることなんて出来なかった。
連れて来られた場所はオフィスの最寄り駅前にある、ワインバーだった。こういうお店に何気なく連れて来るあたり、やはり年上の男性なんだと思わせる。
「どう? 仕事慣れた?」
「はい。なんとか。いつも、皆さんにご迷惑をかけないようにとそれだけで必死ですが……」
向かいに座る森嶋さんがワインリストを眺めながら声を掛けて来る。
「迷惑って、新人には多かれ少なかれ迷惑かけられるものだと思ってるから、そんなに肩に力入れる必要ないよ。俺だって新人の頃はミスしてたし」
「……はい」
それにしても。夕飯と言っていたのに、お酒が入るとは思っていなかった。こういうところが学生と社会人の違いなのだろうか。
「長谷川さんは、何飲む?」
「えっと、烏龍茶で――」
「は? ここでソフトドリンク?」
森嶋さんが少し呆れたような目で視線をこちらに向けて来る。
「お酒はちょっと……。どうぞ、森嶋さんは飲んでください」
心の中で溜息をつきつつ、そう伝えた。
「あのな。こういう時、一人で飲んでも楽しくないでしょ? 飲めるんだったら付き合ってよ。そうだな、じゃあ、このフルーティーなスパークリングワインにするといいよ。すみませーん」
「あ、あのっ」
私の声には構わず、勝手に店員に注文してしまっていた。考えないようにしていたけれど、やっぱりこの人、苦手だ。
「一杯だけ付き合って。それ以上無理に飲ませたりしないよ。だから、そんな怖い顔しない」
にっと笑う顔が、酷く作られたものに見えた。
「長谷川さん、先月まで女子大生だもんなぁ。俺から見たらかなり若いな」
「森嶋さんはおいくつなんですか?」
特にこの人に興味はないけれど、とりあえず何か一つくらいは質問しておいた方がいいのだろうと思った。
「俺は、二十六。今年二十七になるけどね」
「え?」
つい、声を上げてしまった。
「どうかした?」
「あ、いえ……。私の兄と同い年だなって。ただ、それだけです」
目の前に座る人と、兄とを、頭の中で比べてしまう。全然、違う。何もかもが違うのだ。目の前の人の姿を見ていれば分かる。普通の匂いだ。
その瞳の裏に陰が潜んでいるようなこともない。憂うような笑みもない。いたって普通にここまで来た人――。
「長谷川さん、俺と同い年のお兄さんがいるんだ。お兄さんと仲いいの?」
頬杖をついた森嶋さんが、形のいい唇を弓なりにして微笑む。
「いえ……。いや、はい、まあ、普通です」
普通にしていればいい。平然と言ってのけられない自分に情けなくなる。
「なに、その反応。何かあるの……?」
微笑んでいたはずのその目は、意味ありげなものに変わっていた。その目が何かを悟ったのかと思って一瞬焦る。でも、すぐに冷静になった。何も知るはずもないのだ。私は、ふっと息を吐いた。
「兄が私を育ててくれたようなものなので。多分、普通の兄妹よりも兄への感謝の気持ちが大きいんです」
「へぇ。若いのに、苦労してるんだね」
「兄にはもっと自分のことも考えてほしいと思ってます」
「お兄さんは――」
森嶋さんが呟くように口を開いた。
「君のこと、凄く、かわいいんだろうね」
その言い方に、ドキリとした。深い意味もなく言っただけなのだろう。でも、何故だか鼓膜にひっかかる。私は、ただ作り笑いをするしかなかった。
「今日は、ごちそう様でした」
約束通り一杯だけお酒を飲み、食事をして店を出た。
「いや、いいよ。俺は楽しかったし。また、明日から頑張って」
「ありがとうございます。では、ここで失礼します」
頭を下げて、駅へと向かおうとした時だった。
「俺は、君のお兄さんみたいな立場になるつもりはないから」
「は?」
思わず振り向く。
「たとえ、君のお兄さんと同じ年だとしても、俺は君を妹みたいに見るつもりはない」
その表情からは、森嶋さんが何を意図してそんなことを言っているのかさっぱりわからない。
「それは、そうだと思います。森嶋さんは兄ではありません。職場での先輩ですから」
兄のように思おうなどとこれっぽっちも思っていない。真面目にそう答えると、何故か森嶋さんが噴き出した。
「ははっ! 君って、やっぱり面白いね。変わってる」
まだ笑っている。しまいには腹を抱えて。
「何が可笑しいんですか?」
むっとした感情が少し顔に出てしまったかもしれない。
「ごめんごめん。君は、本当に擦れていないというか、純粋なのか……。まあ、いいよ。じゃあ、また明日」
「はぁ……。では、失礼します」
「最後に一つだけ。長谷川さん、恋人、いないよね?」
笑いは止まっていたが、でも表情にはまだ笑みが残っている。
「ええ」
「了解。じゃあな」
一人納得したような顔をして、私にくるりと背を向けた。
一体、何が言いたかったの――?
本当に、あの人苦手だ。ただ身体に残るのは、疲労感だった。
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