闇を泳ぐ

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第五章 たった一人の兄と妹

―メイ―⑨

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 そして、二人同時に果てた。ぐったりと力の入らない身体を兄に投げ出す。それを兄の胸と腕が受け止めてくれた。まだ収まらない激しい呼吸で、二人の重なる胸が上下する。

「お、にいちゃん……」

兄を想うと苦しくなる。その想いが強すぎて、自分を抑えられなくなる。
 ぴたりと重ね合わせた身体。直に感じる呼吸が愛おしい。兄を構成するものすべてが、愛おしくてたまらない。

「メイ」

そう呼ぶと優しく私の背中に手のひらを載せた。そして、そのまま抱き上げてくれた。

「お、にいちゃん……?」

見上げたその顔は、口元が少し歪んでいた。それだけなのに、表情全部が苦しそうだ。

 私の部屋のベッドに横たえる。そのまま兄が行ってしまいそうに思えて、思わずその腕を掴んだ。

「行かないで。まだ、傍にいて……?」

兄の目が一瞬戸惑ったのを見逃さなかった。でも、兄は私の隣に横たわってくれた。間近になる兄の顔。横向きになって、その顔をじっと見た。

「ごめんね……」
「何が、だ?」

前髪が落ちる。その隙間から見えた兄の目が細められた。

「お兄ちゃんに、嫉妬してほしくて、余計なこといっぱい言っちゃった……。最近、あんまり触れてくれないから、寂しくて」
「――俺に抱かれたかった……?」

そう聞いた兄の顔が、あまりに感情が感じられなくてすっと冷たいものが私の胸に流れる。

「怒った? イヤ、だった……?」

その無表情さが、むしろ怒りを表しているようにも思えて怯えるように兄に問い掛けた。

「おまえに怒ってなんかない。苛立つのは自分自身だ」

兄の眉間の皺がいつもより深くなる。酷い頭痛にでも苛まれているかのような表情に、思わず不安になるほど。

「お兄ちゃん――」
「メイ」

心配になって呼びかけた声はすぐに遮られた。幾分、柔らかくなったその表情は、今度は悲しく切ないものに見えた。

「おまえに無理に迫った男は、職場の人間だと言ったな?」
「そうだけど……」
「メイの会社は社会的にもしっかりとした会社だ。そこに入れるのは選ばれた者。きちんとした学校を卒業して、能力もある人間だ」

突然話が変わったことに驚く。兄の話の意図するものが見えない。

「……何が、言いたいの?」
「メイが以前一緒に暮らしていた男や俺とは、違う世界の人間だということだ」
「どうしてそんなことっ!」

思わず声を上げていた。圭太と兄を一緒にしたのが許せない。全然違う。あんな奴と同じくくりになんかしないでほしい。それに――例え生まれや学歴が立派でも、兄の方がずっとずっと大切で唯一無二の人。それなのに、兄は、自分自身を低い位置に置くようなことを言った。

「それが事実で現実なことには変わりない」

興奮した私とは裏腹に、兄は怖いくらいに落ち着いていた。

「どうして、自分で自分のことをそんな風に言うの? 私にとっては、お兄ちゃん以上の人なんていない。誰と比べたって意味ない!」
「その男は、たまたま誠実でなかったのかもしれない。でも、メイはもっとちゃんと自分の周りを見ろ。大学だって、会社でだって、ちゃんと見渡せば真っ当な人間がたくさんいただろう」

どうしてそんなことを急に言い出すの?

私は、怖くて何度も頭を振る。

「……メイ。メイは過去に男に酷いことをされた。まだ、その時の恐怖を忘れられないか? 少しも薄れてはいない……?」

覗き込むように見つめられたその目は、”兄”の目だった。

「簡単に忘れられることではないだろう。一生完全に忘れることは出来ないかもしれない。でもメイはちゃんと少しずつ乗り越えているはずだ。着実に」

そう静かに口にしながら、何を思ったのか、兄は私の伸びた髪をすくった。

その髪は――。

髪を伸ばし始めた理由は、そういうことじゃない。

男の人が怖くなくなったからじゃない――!

兄が理由だ。少しでも、兄に女として見てもらいたいから。綺麗だと、思ってほしいから。私に、もっと欲情してほしいから――。

「――なんて、もっともらしいことを言いながら、言ってることとやってることが違うだろって話だよな」
「お兄ちゃん……」

突然、兄が乾いた笑い声をあげた。

「周りを見ろ、真っ当な男が他にたくさんいる。そう思いながら、結局俺は自分を止められないんだ。おまえに迫ったという見たこともない男を思い浮かべて、メイにその怒りをぶつけるようにこんな抱き方をする。俺は、どこまでも最低だと思うよ」

歪んだ笑みは、苦しさの表れだ。苦悩に満ちた表情は、諦めさえも漂う。

「自分の中にある二つの感情がいつもせめぎ合って、結局正しい方が負けるんだ」
「私が望んでいることなんだから。お兄ちゃんは何も悪くないし、最低なんかじゃないっ」

いくら感情のままに訴えても、兄は決して表情を変えてはくれない。

「正しいとか、悪いとか、そんなことどうでもいい。だから、お兄ちゃんは自分を責めないでよ。お兄ちゃんが私を求めてくれる。それだけで嬉しいの。幸せなの!」

そう言うと、兄の表情がほんの一瞬揺れた。

「あんな人……。まっとうなんかじゃない。出会ってまだ一か月も経っていない、その上一緒に仕事をしなきゃいけない後輩に、どうしてあんなこと簡単に出来ちゃうの? どんな会社に勤めてたって、関係ない。お兄ちゃん以外の男なんて、見たくもない。知りたくもない!」

どう言えばよいのか。どうすれば、兄に伝えることが出来る? お願いだから、苦しまないで――。

そう願うことも傲慢なのだと分かってる。でも、どうしようもない。私の身体は兄しか愛せないようになってる。

「……おまえは、どうしても目に付いてしまうだろうな」

ひとり言のような兄の声に、兄との心の距離を感じてさらに怖くなった。

「男なら、勝手に目が追ってしまう。意思とは関係なく惹かれてしまうんだろう」
「そんな――」
「だから、一刻も早く自分のものにしてしまいたくなる。閉じ込めておきたくなる……」

兄がそう絞り出すように言うと、自分の表情を隠すように不意に私を強く抱きしめた。

 兄の葛藤を知っても、それでも欲しいと思う私は鬼なのかもしれない。誰でもない、この私が、この世で一番愛しいと思う人を苦しめているのだから。

「……メイ」

そう今にも消えそうな声で私の名前を呼んだきり、兄はもう何も言わなかった。ただ、きつく抱きしめるだけで、何も。

 兄の心のうちを全部理解できていれば、私は違う選択をするのだろうか。

兄の全部を理解できたとしたら、自分を抑えられるのだろうか――。

そう思いながら、強く抱きしめる兄にしがみつく。

 ふっと、六年ぶりに再会した時の、高校生の兄の笑顔が頭に浮かんだ。穏やかで優しくて、そして思慮深い瞳。包み込むような笑顔を妹の私に惜しみなくくれた。そんな兄を、苦しげに、空虚に、哀しげに、そんな表情ばかりさせるようになったのは、全部――。

兄は、今にも壊れてしまいそうなのに。

愛しているなら、辛くても兄のことを解放するべき――?

もう一人の自分が遠くでそう言っている気がする。

でも、出来ない。そんな綺麗ごとを言えるほど、まっとうな愛でも、軽い愛でもない。

「お兄ちゃん、私を許して――」

身体が軋むほどに強く抱きしめられていて、吐き出す言葉は呻き声のようになる。

「メイ……」
「ごめんなさい」

そもそも、”愛”なんて言葉がふさわしいのかもわからない。
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