闇を泳ぐ

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第五章 たった一人の兄と妹

―メイ―⑩

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 次の日の朝、不意に兄が言った。

「昨日言ってた、先輩の話。何か、会社で嫌な目に遭うようなこと、あるんじゃないか?」
「え……?」

台所に立っていた私は、兄の方に振り返った。その目は私の表情から何かを探ろうとしている。森嶋さんのせいで女子社員から冷たい目で見られている、なんてこと言えない。

「何か辛いことがあるなら、一人で抱え込まずに誰かに相談しろ」

そう言うと、兄は自分の部屋へと消えてしまった。

――誰かに相談しろ。

”俺に”とは言ってくれなかった。

 嫌というほどに感じる、兄との距離。兄が私から距離を置こうとしている。漠然とそう感じることが多くなった。ばくばくと心臓が激しく鼓動して、思わずそこにしゃがみ込む。

どうすればいい――?

その不安は、そのあとすぐ現実のものとして目の前に突きつけられた。


 少しでも兄と一緒に過ごしたくて、必死だった。目前に迫った兄の誕生日は、絶対に一緒に祝いたいと思った。

「お兄ちゃん、もうすぐ誕生日だよね? 料理、たくさん作るから。何かリクエストない?」

懸命に笑顔を作る。少しでも、兄を笑顔にさせたい。兄の笑顔を見て安心したい。

「……ごめん。その日、同僚の結婚式に呼ばれてる。留守にするからおまえも気にしなくていいぞ」

淡々とした口調で兄が言った。

「結婚式か……。それなら、しょうがないね。じゃあ別の日に――」
「いいから。祝ってもらうような歳でもないしな」

私の声を遮る。私に何も言わせないためかのようだ。私の笑顔が、虚しくそこに取り残された。


 週明け、出勤するのに緊張が伴った。無理矢理抱きすくめられて、キスまでされて。

一体どんな顔して森嶋さんに会えばいい?

憂鬱で仕方ない心をなんとか奮い立たせてオフィスに向かう。春の風の生温さが、余計に私を息苦しくさせた。

「……おはようございます」

周囲の女性の視線に敏感になって、以前のように声を張ることが出来ない。どこにいても見られている気がして、身体中が痛いほどに強張る。姿全部を隠すことが出来たらどんなにいいだろう。

 自分の席に着くと、二つ隣の席はまだ誰もいなかった。まだ、森嶋さんが出勤して来ていないことにホッとしたけれど、すぐにそんな安堵も消える。

「長谷川さん」
「お、おはようございます」

すぐに背後から森嶋さんの声がした。反射的にびくつく身体。強張る自分の声で、余計に身体中が硬直する。仕事である以上私的感情を挟むわけにはいかない。どんなに身体が拒否反応を示しても、それをあからさまに態度に出すわけにはいかない。

”目を見て話すものだろう”

そう言った森嶋さんの言葉を思い出す。身体中の力を振り絞り立ち上がって、森嶋さんに向き合った。

「金曜日に取引先に行った時のやり取り、簡単でいいからまとめて俺に出して。それも一緒に俺の方で報告書まとめるから」

森嶋さんは顔色一つ変えなかった。あの日のことは、夢だったんじゃないかと思えるほどに、以前とまったく変わらない態度だ。

「分かりました。すぐやります」

その森嶋さんの態度に、ほんのわずか身体のこわばりが解ける。何もなかったことにしてくれるのなら、それほど願うことはない。いっそのこと、私の悪い夢だったのだと思いたい。

 それから二十分ほどで取引先でのやり取りをまとめて森嶋さんの元へと向かった。

「確認をお願いします」
「ありがと」

私の顔を見ることなくそれを森嶋さんが受け取った。

「では」
「じゃあ、次、ここに書いてるリストの資料、資料室から持って来てもらえる?」

その時、椅子ごと森嶋さんが私の方へと振り向いた。

「はい。分かりました」

一切の感情を滲ませない森嶋さんの目が私に向けられた。

 オフィスを離れられるのは嬉しい。好都合とばかりに足早に資料室に向かった。一つ一つ棚の分類を探しては資料を手に取る。私の所属する課専用の資料室だから、他に人は見当たらない。資料探しに専念することで、いろんな雑念を消し去ることが出来た。

ガチャ――。

その時、資料室のドアが開く男がする。

他の人――?

ビクッとしてドアの方を振り向く。小さな小窓から差し込む太陽と蛍光灯で明るさは十分あるというのに、部屋全体が薄暗く感じ始める。ゆっくりと押された扉から廊下の明かりまでもが差し込んで、それと一緒に人影が入って来た。強張る身体がそこから視線を逸らせない。ドアが閉じられて廊下の明かりがなくなる。そして人影だけが残った。

「長谷川さんいるよね」

その声に、自分の身体が酷く重く感じるのに気付く。返事をしようにも上手く声が発せられない。絨毯敷きのフロアだから足音なんてほとんどしないはずなのに、一歩一歩こちらに近付いて来るのが分かる。声も出せず一歩も動けず。ただ、固まったように立ち竦むだけだった。

「長谷川さん」
「な、なんでしょうか」

どうしても声が強張る。何もなかったように普通にしてれいばいい。そう自分に言い聞かせた。

「金曜日のことなんだけど」

びくっと肩が上がる。やはり、なかったことにはしてくれないらしい。失望と苛立ちとで、手に持っていた資料を支えにぐっと力を込めて抱きしめ、威嚇するように森嶋さんを睨みつけた。

「そんなに警戒しなくても、大丈夫だから」

そう言われて素直に安心出来るはずもない。

「長谷川さんに謝ろうと思って。悪かった」

そうしたら、急に森嶋さんが頭を下げた。驚いて、その姿をただ見つめる。

「反省してる」

まだ森嶋さんの言うことを鵜呑みに出来なくて、表情の強張りが解けない。

「入社したばかりで緊張しているところに、指導の立場にある先輩から迫られたら、困惑以外の何物でもないな。その子が俺に好意を持っていない限り」

森嶋さんが苦笑した。

「これまで、少しその気を見せればみんなまんざらでもない感じだったんだよ。だから、その感覚で君に接してしまった。こんな風に完全に拒否されたの初めてだったんだ」

そんな発言を大真面目な顔で言っている。

「俺の好意が迷惑になることもあることを知ったよ。だから、もうあんな風に無理強いしたりはしない」
「そうしていただけると助かります。まだまだ教えてもらわなければならないことがたくさんあるので」
「……許してくれる?」

ふっと溜息を吐き、仕方なく頷いた。

「全部忘れます」

それだけを口早に告げて、資料の検索作業に手を戻した。これ以上、個人的な話をしたくない。

「ーー長谷川さん、好きな人いるでしょ」

出て行こうとした足を止めて、私に振り返った。

私が想っている人はただ一人。他の人を好きになることなど、おそらく一生ない。唯一無二の、私のすべてだ。









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