闇を泳ぐ

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epilogue 

最後に還る場所⑧

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 病院に戻ると、看護師さんから声を掛けられた。

「今、ラウンジで河谷さんという方があなたを待ってますよ。一時間くらい待ってみますとおっしゃっていたから、まだいらっしゃるんじゃないかしら」
「かわたに、さん?」

私の知り合いにはいない名前だ。この場所を知っているということは、兄の職場の人だろうか。

「……じゃあ、行ってきますので、兄のことよろしくお願いします」

頭を下げてラウンジへと向かった。心配だからと、山内君も一緒に付いて来てくれた。ラウンジには一人の女性以外見当たらない。おそるおそる声を掛けてみる。

「あの、河谷さん、ですか?」
「はい。河谷です。長谷川さんの妹さんですか? 突然すみません」

綺麗な大人の女性。私たちのやり取りを見た山内君は、少し離れたテーブルに腰掛けたようだ。

「私、長谷川さんと同じ職場で働いている者なんです。それで、妹さんにお話しておいた方がいいかなと思うことがありまして、今日はうかがいました」

意志の強そうな真っ直ぐな瞳。凛とした女性だった。

「じゃあ、ここ、座ってもいいですか?」
「はい」

向かいあって座る。正面に座る河谷さんという女性が、一瞬俯いて、そして意を決したように私をもう一度真っ直ぐに見つめた。

「職場に警察の方が来ました。ここ最近の長谷川さんの様子についてと、何かトラブルがなかったかってことを聞きに。それで、事件や自殺という方向でも調べているんだとなんとなく分かりました」
「それで、兄は職場で何か困っているようなことってあったんですか……?」

職場でのことを兄が話すことはあまりない。私には何も言わずに、何か苦しんでいることでもあったのだろうか。

「いいえ、それは絶対にないと思います。長谷川さんの同僚も上司も、皆彼の人柄には太鼓判を押しているし、慕っています。長谷川さんを嫌う人なんていませんから、警察にもそう答えていました」

河谷さんがそうきっばりと口にした。職場にも何もなかったということになる。

「やはり、兄は自殺するような状況にはなかったってことですよね」
「確かに、職場での長谷川さんに特段変わった様子はありませんでした。でも、後になって思い出したことがあって。五月頃のことだったと思います。私の考え過ぎだとも思いました。こんなことわざわざ話に行くようなことでもないんじゃないかとも思いました。でも、どうしても気になって。それで、とりあえず妹さんにはお話しようと思ってここに来ました」
「何ですか……?」

思わず身体が強張る。

「私と長谷川さんはしている仕事も全然違いますし、親しいわけでもないんです。それなのに、長谷川さんの方から一度声を掛けられたことがあって。不思議に思ったので、印象に残ってるんです」

そう言って、河谷さんが話し始めた。

「私、過去に、結婚の約束をした人を突然の事故で失ったんです。もう十年も前のことですけど」

河谷さんの口から語られた話が、何を意味するのか分からない。ただ、鼓動が激しくなる。

「でも、十年経って、別の人と婚約したんです。その話が職場内で少し噂になったみたいで、その話を聞かせてほしいと、長谷川さんが私のところに来たんです。まったく面識なかったんでその時はびっくりしました」
「……え?」

面識もない人に、そんな人の心の奥深くに立ち入るようなことをするなんて。兄の性格からは考えられない。

どうして、そんなこと――。

「でも、だからこそ、長谷川さんにとって何か意味があることだと思ったんです。興味本位で人のことをあれこれと探るような人ではなさそうでしたし。その時の長谷川さん、とても真剣な顔をしていたから。だから、私、自分のことを話したんです」

河谷さんが、一瞬辛そうに表情を歪めてたけれど、すぐに微笑んで思い出話でもするように話してくれた。

「本当に心から愛している人を突然事故で失って、一気に世界が真っ暗になりました」

それって。

今の、私――?

心から愛している。兄より大切なものなど何もない。その兄を突然事故で失いそうになった。

「もう誰も愛せないと思ったし、幸せになりたいとも思わなかった。いつまでも塞ぎ込んでいる私から、少しずつ友達も家族さえも離れて行きました。それも無理はないと思います。どう接したらいいのか分からなくて、疲れてしまったんだと思います。私はずっと彼のことを忘れられなかった」

彼女の気持ちは、まるで自分のことのように理解出来る。もし、このまま兄を失っていたとしたら。間違いなく私だってそうなる。

「そんな私から、そんな中で、ただ一人変わらずにずっと私のそばにいてくれた人がいました。私の心が壊れても、辛抱強く私の傍にいてくれた友人。それが、今の婚約者です」
「――え?」

更に鼓動が激しくなる。何かが頭の中で点と点が繋がろうとする。それを拒んでいるのか、繋げようとしているのか分からない。

「長谷川さん、特にそこのところを詳しく聞こうとしていました。どんな風に今の彼と結婚を決めたのか。その時の気持ちとか。どんな風に傷を受け止めて行ったのか」

河谷さんの傍にずっといてくれたという友人。その人によって河谷さんは救われた。そして、十年という歳月はかかっても、こうして今穏やかな表情でいられている。

それを知って、兄は、何を考えたの――?

「それで、長谷川さんが私に聞いたんです。『今、幸せですか』って。それで、私が幸せだって答えたら、長谷川さん、本当に嬉しそうにほっとしたように『本当に良かったです』って言ってくれたんです。それが、私の心に引っかかりました。先ほども言いましたが、私と長谷川さんはその時初めて言葉をかわしたような間柄です。それなのに、その言い方が、とても他人の話を聞いて出たようなものではない気がして。それに――」

自分の心が激しく揺さぶられている。目の前の女性が打ち明けてくれている話の一つ一つが、すべて矢のようになって私に突き刺さる。

「長谷川さん、こんなことを言ってくれました。亡くなった恋人も、きっと私の今の姿を見て喜んでいるはずだと。本当に愛した人には誰より幸せになってほしいと思うはずだから、私が婚約したことを天国から見てホッとしているだろうって。あんなに愛してもう誰も愛せないなんて思っていたのに他の人と幸せになること、どこか罪悪感があったんです。でも、長谷川さんにそう言ってもらえたことが嬉しかった。でも、それと同時に違和感も感じました」

お兄ちゃん、お兄ちゃんは――。

漏れ出る哀しみを思わず両手で押さえる。

「まるで、自分の気持ちを言葉にしているような、私の勝手な思い込みかもしれませんけど、そう思えて。何か、長谷川さんも心に苦しみを抱えているのかなって。今回、長谷川さんが事故に遭ったと聞いて、そして、警察の方が来て「自殺」をほのめかすようなことを言っているのを聞いて、何故か胸騒ぎがしてしまったんです」

兄が、どうして河谷さんの話に興味を持ったのか。事故で最愛の人を失った河谷さんが、今では新しい幸せを手に入れることができたのを、自分のことのように喜んだのは何故か――。

そして、どうして兄が事故に遭ったのか。

『事故と言うには不審な点が多い』

そう言った警察官の言葉がこだまする。

兄は、兄は本当は――。

「こんな話、今回のこととは全然関係ないのかもしれません。それに、このことが長谷川さんにとってどんな意味を持つものだったのか、私にはいくら考えても分かりませんでしたし。ただ、ご家族の方には、この長谷川さんとのやり取りをお伝えしなくちゃって、そう思って来ました。突然、大変なところにすみませ――」
「すみませんっ」
「え?」
「メイっ?」

耐えられなくなって、私は飛び出した。
 
 どんなに抵抗しようとしても、頭の中で急速に点と点が線で繋がっていく。知ろうとしなかった。分かろうとしなかった。真実を知るのが怖くて。卑怯な私は、そんな恐ろしい事実に向き合うことが出来なくて。
 私は、兄とずっと一緒に暮らして来た。誰よりもずっと兄を見て来た。だから、河谷さんの話を聞いて、兄の考えていたことすべてが理解出来てしまった。その、哀しくて苦しい絶望的な真実を――。

 無機質な廊下を駆け抜ける。私は、一体どこへ行こうとしているのだろう。許せない。もう、絶対に自分を許せない。これほどまでに自分の存在を許せなくなったことはない。

 私だ。兄を死に追いやったのは、紛れもなく、私だ。兄はずっと、私を自分から突き放そうとしていた。何度も何度も。山内君の元に行くようにしむけ、私が兄から離れるように、誰より自分の心を傷付けながら私を酷く抱いて。

『頼むから、俺から逃げてくれ』

兄は泣いていたのに。何度も私に訴えていたのに。それなのに私は自分の感情を兄に押し付けた。苦しみもがく兄を縛り付けて。死を選ばせるほどに兄を追い詰めた。

 兄は優しいから。これ以上私を突き放すことが出来なかった。だから、河谷さんの話を聞いた兄は、自ら死ぬことで離れられると考えた。たとえ私を悲しませたとしても、必ず笑える日が来ることを知ったから。それほどまでに、私から離れたかった。優しい兄は、自殺だと私の傷を大きくすると思った。だから、事故に見せかけた。

 兄の部屋を思い出す。異常なまでに完璧に日常を装って。違和感さえ感じるほどに、いつもの通りの兄の部屋だった。命を絶つつもりだったなら、何でもいいから言葉を残したかったはず。人生を終えるなら、何か生きた証を。でも、そんなことより私の気持ちを優先した。自殺だと分かってしまったら、私が自分のせいだと責めてしまうことを分かっていたから。

 振り返ってみれば、あの日を境に兄の様子が変わった。それは、兄が河谷さんから話を聞いた頃と重なる。二人で初めてデートのようなものをした日。数年ぶりに二人で笑い合って。

『メイといると幸せだ』

そう言ってくれた。

『ずっと傍にいる』

兄の言葉に、私は幸せに浸っていた。嬉しくて、嬉しくて。そんな風に浮かれていた私のそばで、兄はもうこうすることを決めていたんだ。
 でも、あの日の後すぐに死んでしまったら、私が不審に思う。だから、あれから何でもない日々を送ったんだ。
私が、穏やかな兄との生活に慣れるまで。それが当たり前になるまで。実際、私は「特段変わった様子はなかった」って警察に答えていた。
 ここ最近、私本当に幸せで。こんな毎日が続くんだと思っていた。

『メイのこと、言葉じゃ言い表せないくらい、大事に想ってる』

そんなことを伝えてくれて。この穏やかな日々は、私に兄の想いを伝えるためのものだったんだ。兄がくれた私への最後のプレゼント。そして、完璧に事故に見せかけるための日々。

どうして、お兄ちゃん。お兄ちゃんは、どうして――!

自分の愚かさに、身勝手さに、ズルさに、耐えられなくなる。泣く資格なんてない。

 私が誰より兄を苦しめた。兄の人生を、台無しにした。
 兄が欲しくて、どんな手段を使ってでも手に入れたくて。私のために生きてきたような人を、あんなに綺麗な心を持った人を、私が壊したのだ。

私が無理やり兄を自分のものにしようとなんてしなければ――。

自分のして来たことの恐ろしさが今頃になって分かるなんて。兄を失いそうになって自分の犯した罪の重さを深く実感するなんて。もう、兄の傍にいられない。誰より自分を許せない。
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