闇を泳ぐ

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epilogue 

最後に還る場所⑨

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 たどり着いた先は、病院の屋上だった。屋上の果てに手すりが見える。その向こうには私たちが住む街の景色が広がる。すがりつくように捕まえた手すりは冷たくて、ぎゅっと強く握り締めた。風が強く吹き抜けて、髪もスカートも揺らす。

このまま、この風に乗って消えてしまいたい――。

衝動的に手すりに足を掛ける。

ごめんなさい。お兄ちゃん、私を許して――。

最後に見た、出勤間際の兄の笑顔。

もう、楽になって。お兄ちゃん――。

「メイっ!」

ふっと意識を殺した時、静寂を引き裂くような叫び声がした。

「何、してんだ」

思わず振り向いてしまった先に、息を切らした山内君が立っていた。

「降りろ。馬鹿なことするんじゃない――」
「兄の人生って、一体なんだったの?」

昂ぶる感情のまま声を張り上げた。

「生まれてからずっと辛いことばかりで、私のことばっかり考えて生きて来て。自分のことなんてお構いなしで。最後は、私のせいで死のうとしたんだよ。ねえ、教えてよ。兄は一体、なんのために生まれてきたの?」

こんなこと山内君に言ったってどうしようもないのに。私は手すりを飛び越えて、山内君に向かって叫んでいた。

「多分、お兄さんはそんなこと考えてもいないと思う。お兄さんにとって、メイがすべてだったんじゃないかな。それでお兄さんは良かったんだよ」

山内君が静かにそう答えて、ゆっくりと私に近付いて来る。こんな私、もっと早くに消えるべきだった。兄が死のうとなんて思う前に。

「俺には、メイたち兄妹のことはよく知らないよ。でも、さっき、あのお兄さんの同僚だって人の話を聞いて一つだけ分かったことがある」
「来ないでっ!」

泣き叫ぶ私に構うことなく、一歩一歩、山内君が距離を詰める。

「お兄さんは、本当にメイのことを愛していたんだなって」

私は激しく頭を振る。違う。私は、兄としての優しさに付け込んだのだ。兄は一度も私に「愛している」と言ったことはない。兄は、私を憐れんだ。そして拒めなかった。それがどれだけ自分の心を壊す行為だとしても、私の気持ちを優先した。

「その愛が、どんな種類のものなのかはわからないけど、でも、それはむしろ、そこらにある愛よりよっぽど強いものだったんだと思う。事故に遭う直前、どうしてお兄さんが俺に電話して来たのか。その謎が分かったよ。これから苦しむことになるメイを一人にしないためだ。メイが自分から俺を頼ったりしないってお兄さんは分かっていたんだろう。だから、俺からメイに電話をするように仕向けたんだ。途中で切れた電話なんて、気になって仕方無いからな」

握りしめた手すりから滑るようにしゃがみ込む。激しく迫り上がる息苦しさで呼吸も上手くできない。

「これから死ぬって間際まで、メイのことを考えていたんだ。それが愛じゃなかったら、なんなんだ?」
「……来ないで!」
「それに、『本当に愛した人には誰より幸せになってほしい』っていうお兄さんの言葉、それは多分メイを想って言った言葉なんだろう。おまえは、間違いなくお兄さんの大きな愛情に包まれていたんだよ。どうしてお兄さんが自ら死のうとしたのか俺には分からない。でも、ただ心にあったのはメイのことだけだ」

私さえ生まれて来なければ――。

小さい時から母親に言われていた言葉。あの言葉は正解だったんだ。この存在が忌まわしい。もう兄には会えない。

 一歩足を踏み出した時、腕を強く引かれた。

「まだ、分からないのか! お兄さんは生きてる。お兄さんが目を覚ました時、おまえがいなくてどうする? どうして、おまえは死ねるんだ!」
「私が、兄を殺そうとしたようなものだからだよ!」
「――え?」

強い風が吹き付けて、消えてしまえと私に言っているようだ。一瞬驚いた顔をした山内君が、ふっと息を吐き私の腕を掴んだまま言葉を放った。

「……俺、なんとなくだけど、薄々感じてた。もしかしたらメイはお兄さんをって。でも、まさかって思って打ち消してた。それに、例えそうだとしても、そんな辛い恋をしているのなら俺がメイの支えになりたいとも思ってた。メイが誰を想っていても失いたくないよ。だから、メイをここで死なせるわけには行かない。そんなことしたら、俺がお兄さんに怒られる」

兄を愛している。だけど、もうこれまでみたいに傍にいることは出来ない。これ以上、兄を壊せない。
 兄といられるなら、闇の中だって構わないと思って来た。でも、私がこの手で兄までも闇の底に引きずり落としたのだ。そんなことにも気付けずにいたなんて。どれだけ愚かなのだろう。

私は、どこに行けばいい――?

「……うっ、うう」

分からない。私には兄しかいなかったから。兄に中学生の時に再会してからずっと、兄しか見ていなかったから。

「お兄さんは必ず目を覚ますよ。こんなメイを置きざりにしたままでなんていないさ。これまでお兄さんには散々世話になって来たんだろう? おまえ以外誰が傍にいるっていうんだ?」

目を覚ました時、兄は何を思うのだろう。側に私がいたら、兄はまた苦しみの世界に身を置くことになる。そこを飛び降りることも、戻ることも出来ずに、私はただ現実との狭間にしゃがみ込んだ。

「おまえはお兄さんの傍にいる義務があるんだ。メイに他の選択肢なんかない」

山内君のいつもの優しい口調とは程遠い、厳しい言葉が私を貫いて行く。燃えるように心が熱くてヒリヒリして痛い。込み上げて来る涙が、その熱を更に上昇させて。その熱で燃え死んでしまいたい。

 山内君は、兄が私を愛していたんだという。

だったら、私はなんだったの? 私の愛って、何?私は一体、兄のために何をしてきた……?

「私、昔から兄のことが好きだった。実の兄なのに、ドキドキしてずっと焦がれてた。どうして私は、お兄ちゃんなんか好きになっちゃったんだろう!」
「……メイ」

手すりの反対側にいる山内君は、私と同じ目線になるようにしゃがみ込んだ。

「……俺も、メイと同じ。どうしてメイのことなんて好きになっちゃったんだろうな。こんなに焦がれ続けても俺のものにはならないのに」

山内君が表情を歪めて微笑み、手すりの隙間から手を伸ばしてそっと私の頭に触れた。

「それでも、好きでいるのってやめられないんだよな。やめたいって思っても自分の意思でやめられるもんじゃない。それが恋の辛いところだけど。だから、俺は、自然に任せようと思ってるんだ。メイも――」
「ちょっ、山内君、何してるの? やめてっ、危ないよ!」

何を思ったのか、山内君までもが手すりを飛び越えた。すぐそこは、遥か下の地上へとまっさかさまだ。私は咄嗟に山内君の腕を掴んでいた。

「それも、メイも同じ。こんなとこにいたら危ない。俺のことだと、急に怖くなった?」

すぐ隣に座り込んだ山内君が私の顔を覗きこむ。

「メイ……。メイも、お兄さんのこと、好きでいればいいじゃないか。いつか本当にその想いが消え去るまで。その時の自分を見届けるためにも生きてないと。メイはお兄さんを好きな女の子ってだけじゃない。お兄さんの”妹”でもあるんだから、行くべき場所があるだろ?」

少しごつごつとした山内君の手のひらが、私の頭を覆う。優しく優しく撫でて、慰めるように、労わるように、そして励ますように。

「……お兄さんのところに、戻ろう」

でもね、山内君――。

「そうしてくれないと、俺、こっから落ちちゃいそうでちょっと怖いんだけど? どうしてもっていうなら俺もお供するけど、出来ることならもう少し生きていたい」

冗談っぽく笑って言うには、とんでもない状況で。そんなシュールさに、思わず笑ってしまった。

「――ほら、メイ。行こう」

山内君が手を差し出した。

「山内君は、いい人過ぎるよ……」

涙でぐちゃぐちゃの顔で、やっと山内君を見上げた。

「俺がいい人なのは、メイにだけだから。下心丸出し」

山内君が、さっと私の腕を掴む。絶対に離さないと言われているみたいに強い力で、思わず呻いてしまった。

「もう、こんなことするな」

真剣な目になって私を見つめると、強い力で肩を引き寄せ手すりへと引き上げた。
 山内君にまで危険な目に逢わせるわけにはいかない。私は言われるがまま、手すりを飛び越える。強く掴まれた腕のままで、兄のいるICUへと戻った。

「長谷川さん、お兄さんが!」

ICUへと足を踏み入れた瞬間に、看護師の声が飛んで来た。兄のベッドへと無心で駆け寄る。
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