闇を泳ぐ

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epilogue 

最後に還る場所⑩

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 医師が何か慌ただしく兄を診察している。

「お、にいちゃん……?」

医師が覆いかぶさっていて、兄の様子がよく見えない。危険な状況なのか、どうなのか、大きな不安が私の鼓動を激しくする。

「長谷川さん、長谷川さん!」

医師が大きな声で呼びかけると、兄の手がぴくりと動いた。

「……あれ」
「お兄ちゃんっ!」

兄の声だ。まだ、数日だというのに、とても久しぶりに聞いたような錯覚に陥る。

「お兄ちゃん!」

兄に顔を見せるようにと、医師が私を促す。ベッド脇から離れた医師に代わって兄の側へと近付いた。

「お兄ちゃん、分かる? メイだよ!」

すがりつくように兄の手のひらを握りしめた。

「……メイ」

空を彷徨っていた兄の視線が私へと向けられる。そして、その視線と目が合った。

その瞬間――。

「お、兄ちゃん……?」

その瞳の色が変わる。私にはそう見えた。大きく見開かれた瞳は、すぐに固く閉じられた。
 それは、驚きのような、そして、失望のような――。でも、それは一瞬だった。気のせいだと思えるほどに、ほんのわずかな瞬間。
 兄は、ふっと息を吐き瞼を開けると、私を見つめゆっくりと口を開いた。

「……俺、どうしたんだっけ」
「お兄ちゃん……」

そんなとぼけたような言葉に、私はへなへなとその場に座り込んでしまった。

「事故に遭われたんですよ。ずっと意識がなかったんです」
「そう言えば、そうだったかな……。メイ、心配かけたな」

他人事のように応える兄は、どこか痛いのか顔をしかめた。

「大丈夫? どこか痛いの?」

とにかく目を覚ましてくれた。それだけで嬉しいのに、次はどこか異常がないかが心配になる。

「痛いよ。どこもかしこも痛い」

そう言って笑う兄に、ついつられて笑ってしまった。

「そんな風に笑えるなら、とりあえず危険な状況は脱しましたね。あとは、後遺症の有無を検査しながら怪我の治療をしていきましょう」

医師の言葉に、胸を撫で下ろす。兄の表情に、ただ力なく微笑むことしか出来なかった。

兄が自ら命を絶とうとしたこと――。

それには、今は触れないでおこう。兄もきっとそう望んでいるはずだ。

「メイ、よかったな」
「うん。ありがとう」

私の後ろについていてくれた山内君もほっとしたように私に声を掛けてくれた。

「そちらは、メイの友達か?」
「え?」

兄が山内君に視線を向けて、私に聞いて来る。

「山内君だよ? お兄ちゃんも知ってるでしょ?」
「いや、面識ないと思うけど……」

真顔で答える兄に私は詰め寄るように身体を寄せる。

「何回か会ったでしょ? 忘れちゃった?」

もしかしたら、山内君と会ったことがあること、私には隠しておきたいのだろうか。確かに、私もいる場所で山内君と接したことはほとんどないはずだ。

「メイ。お兄さんの意識も戻って安心できたし、俺は一度帰るよ」

山内君が私の肩に手を置いて微笑むと、兄に顔を向けた。

「僕は、メイさんの友人の山内です。何度かお話させていただいたことがありますが、そんなに会ったことはないので忘れていても不思議じゃありません。では、今日は失礼します」

礼儀正しく、山内君が頭を下げる。

「いえ。こちらこそ、ありがとうございます。メイの傍にいてくれていたんですよね? お世話になりました」

兄の言葉に山内君がもう一度会釈した。ここから立ち去る山内君を追う。ICUを出たところで山内君に向き合った。

「本当に、いろいろありがとう」
「いいんだ。とにかく、メイはちゃんとお兄さんの傍にいろ。その後のことはまたゆっくり考えればいい」

私を労るように見つめたあと、山内君は帰って行った。
 それを見送って兄のところに戻ると、兄が身動きは取れない様子で目だけで私を見た。

「そうとう心配かけたんだな。メイの目の下、凄いクマだ」
「そりゃ、そうだよ」

どことなくぎこちなくなるのを、懸命に平静を装う。
 目の前の兄が、自殺をしたのだと思うと到底微笑むことが出来ない。だから、そのことはなるべく意識から遠ざけるようとした。

「……あれ? メイ、いつの間に髪、長くしたの? それに服装もなんだか大人っぽいし。俺、どれだけ眠っていたわけ?」
「――え? 何、言ってるの?」

兄の言っている言葉の意味が、全然理解できなかった。

「お兄ちゃん、私のこと、何歳だと、思ってるの……?」

引きつる表情で兄と向かい合う。聞くのが酷く怖い。

もしかして――?

「なんだよ、そんなこと聞いて。高3だろ?」

受験生なのに、悪いな。なんて、言って頭を掻いたりして。

「お兄ちゃん、それ、本気で言ってるの?」
「何がだ?」

なんともないような顔で私を見る。

 高校三年の頃の私は、兄への想いをまだ胸のうちだけに留めていた頃。本当の普通の兄妹として暮らしていた。

兄が兄でいた頃――。

それは、私と兄が禁忌を犯してからの時間すべてが、兄の中には残っていないということ?

何度もキスしたことも、何度も身体を繋げたことも、苦しみながらも求めあった時間もすべて、兄の中から消え去ったということ――?

目の前にいる兄に映る私は、ただの妹のメイなの――?

頬に何かが流れるのを感じる。私は、今、どんな感情になっているんだろう。自分のことなのに分からない。

 兄は、死のうとするほど私との関係に苦しんでいた。兄がすべてを忘れてしまったことは、ある意味良かったのかもしれない。兄を苦しめる記憶や想いが消えたのなら、兄は救われるのかもしれない。これからも生きて行ける。

それなのに――。

「……メイ?」

どうして、私は涙を流しているの――?

「どうやら、事故とそれ以前数年の記憶が消えているようですね」

兄の担当医に説明を受けている。診察室には、担当医と私、そして看護師の三人。
 懸命に心の整理をつけようとしているつもりだ。妹としてこの場にいなければと、そう思えば思うほどに動揺してしまう。

「検査の結果では、脳に大きな異常は見られないんですがねぇ……」

頭を傾げながらぼそぼそと呟く。それを黙ったまま聞いていた。

「おそらく、事故時の激しい衝撃で、その直前まで強く印象に残っていたことが消えたのでしょう。あるいは、本人にとって消してしまいたいと強く思っていたこととか――」

――消してしまいたいと強く思っていたこと。

兄の記憶は、私が高校三年までで止まっている。

やはり、私との関係を、なかったことにしたいと兄はずっと思い続けていた。そういうことだ。

少しは想像していたじゃない。それなのにどうして私はこんなに傷付いてるの?

胸が痛くて、たまらなくなる。

「本人の強い願望が潜在意識として、記憶を消してしまっているのかもしれません」

この四年は、兄にとって消してしまいたい時間だった。それだけは、きっと間違いじゃない。

「……その記憶が戻ることはあるんでしょうか」

固まって動こうとしない唇をなんとか開いて医師に問い掛けた。

「それはなんとも言えません。ある意味本人次第というか。でも、少しでも記憶を取り戻せるようこちらも治療を続けて行きます。それに、身体的機能については少しリハビリが必要になります。これにはご家族の協力と励ましが何より大切になります。お兄さんと一緒に頑張ってあげてください」
「もちろんです。出来る限りのことをします」

命が助かったのだ。私はなんだってする。
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