闇を泳ぐ

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epilogue 

最後に還る場所⑪

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 数日経って、兄はICUから一般病棟に移った。どうやら大部屋は一杯らしく、ありがたいことに個室を与えられた。

 医師からの話の後兄の病室に戻ると、そこには山内君の姿があった。

「山内君……」
「ああ、メイ。さっき来たところなんだ」

兄のベッド脇に座る山内君が、私の方へと振り向いた。

「そうなんだよ。メイが戻って来るまでここで待っていてもらったんだ」

兄が笑顔で顔を出した。

「そ、そっか」

ぎこちなく笑顔を浮かべる。兄のところへと向かい、山内君の顔を見る。山内君は、私の目を見て頷いた。

お兄さんのことは、分かっているから――。

そう言ってくれているみたいに。


 それからは、記憶を失くした兄に合わせて、山内君がいろいろと私の大学時代のことを話していた。それを興味深そうに相づちをうったり質問したり。兄はとても楽し気だった。

「こんなにいい友人がメイにいて、良かったよ」

兄が囁くように零した。私は、何と言葉を返していいのか分からなくて言葉に詰まる。

「じゃあ、俺はそろそろ帰ります。お兄さんを疲れさせてもいけないし」
「俺は大丈夫だけど、でも、あんまり引き留めても悪いよね。じゃあ、これからもメイのことよろしくお願いします」

それは、昔何度も見た兄の表情だ。また、胸が抉られる。

「私、そこまで山内君見送って来るね」
「ああ」

山内君と一緒に病室を出て、エレベーターに乗った瞬間に、自分の表情が歪むのが分かった。それ以上堪えられなかった。

「……メイ、大丈夫か?」
「ごめん。大丈夫」

顔を見られたくなくて、山内君から顔を背けた。

「お兄さん、本当に記憶ないみたいだな。でも――」

山内君が深く息を吸ったのが分かる。

「とにかく、お兄さんが元気そうで良かった。それが一番大事なことだろう?」
「うん。分かってるの。ちゃんと分かってる」

私は何度も頷いた。

「お兄さん、自殺しようとしていたなんて信じられないほど笑顔だった。それにはきっと意味がある。辛いかもしれないけど、メイは家族だ。どんなお兄さんも受け止めないとな」

諭すような優しい声に、泣いてしまいそうになる。
 下へ下へと落ちて行く小さな箱は、私から力を奪う。必死で踏ん張るように立っていた。

「……その代り、本当に辛くてどうしようもなくなったら、俺にはいつでも甘えて。頼っていいよ。弱音だって愚痴だってなんだってぶつけろ。遠慮なんかするな」

私の肩に触れようとして、その手を止める。その代わりに私の顔を覗き込んで微笑んでくれた。

「ありがと」

エレベーターは一階へと到着する。

 大きなロビーを出たところで、山内君が「ここでいい」と言った。

「また、様子見に来る。メイからも、連絡しろよな」

私は力なく笑って手を振った。

 山内君を見送って、重い足取りで兄の待つ病室へと戻った。

「メイ」

無意識のうちに俯いたまま病室に入っていたらしい。兄の声でハッとして顔を上げた。

「ん?」

取り繕うように笑顔を作る。

「山内君だけどさ」

まるで内緒話でもするように、小声で私に顔を寄せる。病室の窓から差し込むオレンジ色の陽が部屋中を照らす。

「彼、絶対、メイのこと好きだよな」
「……え?」

兄の表情と反対に私の顔は強張って行く。

「男の目で見たらすぐにわかるさ。それに、とってもいい人だ」
「変なこと言い出さないで。山内君はずっと友人なんだから」

兄から視線を逸らしそう答えると、楽しそうに兄が続ける。

「そう思っているのはおまえだけだろう。彼ならきっと、おまえを幸せにしてくれる。そう思うけどな」
「やめてっ」

つい、声を荒げてしまった。

「あ……、ごめん。でも、お兄ちゃんが変なこと言うから。それより、これからリハビリが始まるんだって。それが終わらないと退院できないから、一緒に頑張ろう」

誤魔化すようにまくしたてる。どんな顔して兄を見たらいいのか分からない。不意に泣いてしまいそうで怖い。だからわざと大きな声を出す。

「――ごめん。迷惑かけて」

さっきまで楽し気だった兄が表情を翳らせた。

「何言ってるの? 家族、なんだからそんなこと気にしないの。悪いと思うなら少しでも早く退院できるように頑張ってよ」
「ああ。そうだな」

私の心は、迷いと悲しみで、どうにかなりそうだった。

 だからだろうか。家で一人になっても、仕事に復帰しても、兄の顔が何度もちらついた。苦悩に満ちた私を抱く時の兄の表情。病院で見せる、昔の兄の表情。それらが交互に浮かぶのだ。心が乱されて、一人真っ暗闇に放り出されたみたいに孤独で。叫び出したくなる。

お兄ちゃん、怖いよ――。

何より、自分が怖いのかもしれない。

 兄に何か言ってしまいそうで。感情をぶつけてしまいそうで。だから、兄の顔が見たくなった。苦しそうな顔じゃない。今の”兄”の顔。私の兄としての顔を見て、自分に言い聞かせたかったのかもしれない。

 私は、病院への夜の道を走り出した。  

 夜の明かりに照らされた無機質な病院の建物。窓にはかろうじて病室の電灯が灯されている。
 面会時間を過ぎていた。守衛室に無理を承知で向かった。当然今日はもうだめだと言われて。でも食い下がった。

「あれ? 長谷川さん?」

そこに、兄の担当の看護師さんが通りかかった。奇跡だと思った。

「どうしても、兄に会いたくて。仕事の関係でこんな時間にしか来られなくて」

迷惑だということも分かっている。でも、すがるように看護師に頭を下げた。

「……すみませんね。今回だけ見逃してあげて?」

その看護師さんが守衛さんに話しをつけてくれた。

「ありがとうございます」
「今日だけよ? それに、病室にはそっと行ってね」

優しくウインクしてくれる。私たち兄妹の状況を知ってくれているからこそ、そんな計らいをしてくれたのかもしれない。深く感謝して、頭を下げた。

 暗い廊下を進み兄の病室の前で止まる。個室だからか、兄の部屋は暗かった。

もう電気を消したのかな。寝ちゃったのかなーー。

そっと音を立てずに扉を開けた。

「……っ」

静かなはずのその部屋に、兄の吐息が響いている。最初は寝息だと思った。

「うっ……」

でも、そんな規則的なものではない。視界が暗がりに慣れて兄の姿が見える。ベッドに横たわりこちらに背を向けて。その肩が小刻みに震えていた。

「……っ」

それは、嗚咽のようなもの。

泣いてる、の――?

私の胸の鼓動が一瞬止まる。

「どうして、俺は……っ」

お兄ちゃん――。

涙の滲んだ掠れた声が、静けさの広がる病室に悲しく響く。咄嗟に扉の傍にしゃがみ身を隠した。息を殺して、小さくうずくまる。

 何故か、私がここにいることを気付かれてはいけないと思った。どうしてそう思うのかは分からない。だけど、身体が勝手に動いたのだ。

 激しく胸が震える。その音さえも聞こえてしまいそうで、余計に鼓動が忙しくなる。兄の声が、私の心を訳も分からず動揺させる。

ドクンドクンドクンドクン――。

その心臓の音を掻き消す、くぐもった音が耳に届いた。身を隠しているから、その音が何だか最初は分からなかった。

 何か、柔らかいものを叩いている音。衣擦れの音と共に聞こえる。ハッとして、私は口元を手で押さえた。

「俺は――っ」

多分、兄の拳が何かを何度も打ち付けている。

 声を漏らさないように力一杯口元を押さえるけど、溢れる涙までは止められない。

まさか、お兄ちゃんは――。

怖いのに、耳に意識を集中してしまう。怖いのに、全ての音を聞き洩らさないようにと注意深く息を止めてしまう。

「どうして、ちゃんと死ねなかった……っ?」

お兄ちゃん――。

「どうして、俺は――っ!」

決して大きな声じゃない。堪えても漏れ出てしまう声。だから、余計に苦しみが伝わる。痛いほどに私の胸に入り込んで、染み渡って行く。

お兄ちゃんは、忘れてなんかいない。全部、分かってるんだ――。

「ごめん、メイ……」

痛みを忘れるほどに、自分の唇を手のひらで押さえ付けた。兄の絶望の声が、無機質な病室に彷徨うように積み重なっていく。

 私は、声を上げることも逃げることも出来ず、果てしなく感じる時をただひたすらに待った。

 兄は、目覚めた瞬間、絶望を見たんだ。生きていたことに絶望するなんて。私は、兄の覚悟を甘く見ていたのだろうか。結局、私は兄の気持ちをほんの少しも理解出来ていなかった。

 意識から目覚めた瞬間、大きく見開いた兄の目。その目は、愕然と失望した目だったのだ。それだけ、兄は強く死を望んでいた。

私から、離れるために――。

それが叶わなかったと知って、私との過ちの記憶をすべて消すことにした。死ぬことが出来なかった以上、兄が生きて行くには、そうするしか道がなかったのだ。

すべてをリセットするには、そうするしか――。

”兄”と”妹”に戻るために。

 夜の病院は、心の奥底まで覗かれてしまいそうなほどに静かで。兄の涙と、絞り出されるような哀しみが充満して私を押し潰す。

 どれだけの時間をそうしていたのだろう。じっと息を潜め続けると、病室から音という音が消えた。兄の声も哀しみのこもった鈍い音も。

 おそるおそる立ち上がろうとすると、身体のあちこちが悲鳴をあげそうになる。
 音を立てないようにゆっくりと兄の方を見つめた。やっぱり背中しか見えない。頭を巻き付けている包帯だけが白く浮かび上がっているように見えた。

 嗚咽のせいで震えていた肩は、今では静かにそこにあるだけだった。じっと見つめると、微かに上下しているのが分かる。泣き疲れて、眠ってしまったのかもしれない。

 兄の様子をうかがうように、一歩一歩気配を確かめながら兄へと近付いて行く。兄は静かに横たわったままだった。

 そうしてベッドの傍に立つと、ベッドを挟むように置かれたテーブルに一枚の紙きれが斜めに置かれていた。そこには、放り出されていた鉛筆もあった。何かの紙の裏だろうか、そこに荒々しい文字が書き殴られていた。

”どうして俺は生きてる。死ぬことも出来ない。これ以上、メイを苦しめろと言うのか! メイの未来を俺の手で潰したくなんかない”

兄の乱れた文字が、心に飛び込んで来る。無意識のうちに頭を激しく横に振る。

違うよ。違うよ、お兄ちゃん。
お兄ちゃんが生きていてくれて嬉しいんだよ。お兄ちゃんといられることが何より幸せなの――。

でも、次の文章で、私は打ちのめされた。

”メイは俺の宝物だ。
メイを誰より幸せにしたい。
メイを守るために生きていた自分に戻らせてくれ。
何より大切なメイをこの手で不幸にするようなこと、もうしたくないのに"

心が震えているのか、身体までも震えているのか。震えが止まらない。

"これ以上、宝物を壊したくなかったのに"

目覚めた瞬間絶望を見た兄は、咄嗟に記憶を消すことにした。私に昔のような笑顔を見せ、誰にも何も言わずにただ”兄”を演じ続けた。
 どこにも誰にも吐き出せない絶望と苦しみを、耐えられなくてこうして文字にした。たった一人、暗闇の中で。悲痛な心の叫びが、私の感情をかき乱した。

「ごめんね……」

兄の心にあるのは、たった一つだ。

――私を幸せにすること。

そのために、自分を消そうとした。そうしないと、何もかもを終わらせることが出来ないから。私が、新しい人生を歩けないから。

「お兄ちゃん、苦しめてごめんね……」

嗚咽を堪えながら、そっと兄に近付く。寝息でさえ息を潜めているように遠慮がちだった。涙の筋が跡になって残っている。寝ている顔も、苦しそうで。

昼間、私の前で笑う分、こうして夜に感情を吐き出していたんだね。

「……どこにも逃がしてあげられなくて、ごめんね」

ベッド脇にしゃがみ、その目を閉じた顔を見つめる。こんな風にじっと兄の顔を見つめるのはいつ以来だろうか。今でも愛しさが込み上げて仕方がないけれど、それ以上に哀しみが溢れる。

「苦しかったね。私なんかのために、お兄ちゃんは……」

漏れそうになる嗚咽を必死で塞ぐ。息を殺して泣き崩れた。

「でも、安心してね。もう、大丈夫だからね」

私に出来ること。それは、兄の思いを受け入れることだ。もうこれ以上、兄は苦しませてはいけない。私のせいで苦しんでいたんだから、兄を解放出来るのは私しかいない。

――生きていてくれた。この世界に、生きていてくれる。

それだけで、もう十分。

 私が兄のためにしてあげられることはたった一つ、”妹”になることだ。

もう、いいよ。全部、なかったことにしようね。

私たちには、おかしなことなんて何一つなかった。妹思いの兄と、兄に守られていた妹。

それが、私たちの事実のすべてだよ――。

布団から出ていた兄の手。ごつごつとして骨ばっていて、兄の苦労がそのまま表れている、私の愛しい人の手。

戻ろうね。

お兄ちゃん――。
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