雨の庭で来ぬ君を待つ【本編・その後 完結】

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第一章 秋霖

十一

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 次の日の放課後、扉の隙間から図書室内の様子をうかがった。いつもの通り、図書委員が二人。ここから見える視界の範囲に他に人はいない。
 少しがっかりして図書室に入ると、一番奥、前にいたのと同じ席にあの人の姿があった。

 どうしようかと、足が止まる。その時、本から顔を上げた彼と目が合った。親しみの込められた優しい眼差しに背中を押され、彼の向かいの席に腰を下ろした。
 彼は、特に何も言わず、視線を本へと戻した。それが、なんだかとてもありがたかった。
 私も文庫本を開く。
 いつもなら、一人の方が落ち着く。でも、その人との空間は、不思議と居心地が良かった。

 ふと視線を上げて真正面に座る彼を見ると、偶然、前髪の隙間から額の切り傷のようなものを見つけてしまった。

自分で付けた傷だろうか。それとも、誰かに……。

すぐに、追われていたという男子生徒たちを思い出す。あれから結局、何かをされてしまったのだろうか。

「――傷、見えちゃった?」
「えっ?」

視線を本に向けたままのその人から突然声がして、びくっとする。こっそり盗み見た後ろめたさのせいで、鼓動まで早くなった。

「隠しきれてなかったんなら、もう少し前髪増やそうかな」

そう言いながら顔を上げると、ふざけているみたいに後頭部から髪を持って来てくしゃくしゃとしていた。

「そんなことしたら、ぼさぼさになりますよ」

思わず笑ってしまう。本当は笑ってしまうような事情のものではないのかもしれない。でも、この人の仕草や表情が、結局私の感情を緩ませてしまう。

「酷い?」
「はい、酷いです」

正直に答える。

「まあ、もともとイケメンでもないし、大差ないでしょ」

確かに傷はまったく見えなくなったけれど、前髪をぐしゃぐしゃにしてしまった。

「昨日も思ったんだけど、君って――」

あまりにおかしな髪形になってしまったから、必死に笑いをこらえる。

「結構笑うし、意外とはっきり言うよね」
「そうですか? それも初めて言われました」

誰かとこんな風に会話をしたことがないから、自分でも知らなかった。

「僕の勝手な想像なんだけど。君は、一見物静かに見えて、根っこの部分は明るくてはっきりした性格なんじゃないかな」
「そうなのかな……。これまで、誰かと笑い合ったり、何かを言い合ったりしたことがないから」

いつも静かに、空気のように過ごして来た。

「だとしたら、本当の君を知らないなんて、周りの人は損をしてる」
「……そんなことないです。私のことなんて、知りたいと思う人はいないだろうから」

笑ったままで答えたつもりだけれど、上手くいかなかったのだろうか。おどけていたはずの彼が、少し哀しそうな顔をした。
 そして何かを考えている様子を見せた後、改めて私の顔を見た。

「本当の君を知っている人間が、ここに一人はいるから」

お互い、名前も知らないし、どこに住んでいるのかも知らない。ただ、こうして図書室で話をする人。
 でも、私でさえも知らなかった部分を見つけて知ってくれている人がいる――そう思ったら、心が少し温かくなった。

「学校のある日は毎日ここにいるから。お互い詳しい事情は知らないけど、ここに来れば誰かがいる。それだけで十分励まされるだろ?」

最後は結局、彼の口調は冗談めいたものに戻っていた。
 その温かい照れ笑いが、私の中にしっかりと刻み込まれる。
 灰色の毎日が、少しだけ明るい灰色になる。灰色だって、綺麗な色だと気付かせてくれた。彼と私の首元に、同じ色の制服のネクタイが絞められている。そう言えば、その色も明るいグレーだった。

「だから、僕はここに来るよ」

私の世界にある現実が変わったわけではないのに、見える世界が違って見えた。


 それから、毎日のように図書室で顔を合わせた。お互い本を読んでいるだけ。そして、時おり、図書委員の目を盗んで、こそこそと話をする。

「私がここに来ていることも、あなたの励みになっていますか?」

一度そう聞いた。そうしたら、その人は一瞬真顔になって、すぐにくしゃっと笑った。

「もちろんだ」

同じ机で向かい合って座る。少しの言葉を交わす。それ以上近付くこともなく、本当にただそれだけ。でも、朝、目覚めるのが苦しくなくなった。


 そんな日々の中で、一つ驚くようなことが起きた。

「――今度のおじいちゃんおばあちゃんの命日、一緒に墓参りに行くか?」

夜遅く、洗面所から出て二階へ上がろうとした時だった。ちょうど帰宅したお父さんと鉢合わせた。

「たまには、二人で行くか」

唖然として、上手く言葉が出て来ない。

「おい。聞いているのか? 行くのか、行かないのか」

何も答えない私に、お父さんが訝しげな視線を向けて来る。

「行く。行くよ!」

ハッとして、すぐにそう答えた。お父さんは頷くと、そのまま私の横を通り過ぎた。

お父さんが私に声を掛けて来たのなんて、いつ以来だろう。

それ以上に、お父さんが私をどこかに誘うなんて、おそらく初めてのこと。一体、どういう心境の変化だろうか。疑問点が次々浮かんでくるけれど、その裏で喜んでいる自分がいる。
 祖父母は、母親が家を出て行ったちょうど一年後に交通事故で亡くなった。
 それから、もちろん何度もお墓には行っている。でも、ここ数年はいつも私一人でだ。継母には墓の世話はさせたくないとか気を使わせたくないとかで、お父さん自身もあまりお墓には行かなくなってしまっていた。

「お花は私が準備するから。だから、絶対に、一緒に行こうね」

お父さんの背中に慌てて声を掛けた。私の声に振り返ったお父さんが、もう一度頷く。
 家族が増えてから初めての、二人だけの時間だ。

お父さんは私を嫌っている――。

それを知っているのに、私は既にその日を待ち望んでいた。



「何かいいことあった?」

いつもの図書室で、突然聞かれた。

「嬉しそうな顔してますか?」
「鼻歌、歌ってる」
「うそ!」
「うそ。でも、なんとなく、ふわふわしてる感じがする」

頬杖をついて、そういう自分こそにやにやとしながら私を見ていた。

「ふわふわ、ですか? そんなことはないと思いますけど。でも――」

そんなに表情や態度に出てしまっているのだろうか。そうだとしたら、きっと、この人のおかげだ。そんな気がする。

「何も変わらないなんて思っていたけど、自分の気持ちが変われば周りへの見方も変わるのかな、なんて最近思いました」

これまでは、自分も外の世界を閉ざしていた。どうせ――と自分に言い訳して。そんな私に、人と心を通わせることを教えてくれた。
 私が変わったから、お父さんも声を掛けようという気になったのかもしれない。

「あなたのおかげです」
「僕?」

自分を指差して、驚いたような顔をしている。

「はい。絶対そう」

勢いよく頷いた。

「……よく分からないけど、君がそんな風に笑えるなら、僕も嬉しいよ。やっぱり君は、笑った顔が一番自然だ」

目を細めて、その人は笑った。

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