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第一章 秋霖
十四
しおりを挟むそれからしばらく時間が経ったのか、それともすぐのことだったのか。
「姉さん、どうしたの?」
ゆっくりと目を開けると、樹の姿が見えた。
「……部活は? それに、樹のおばあさん骨折したんでしょう? 行かなくていいの?」
横たえていた上半身をのろのろと起こす。
「部活は、雨が降ってるから中止になった。それより、姉さん、何かあったの?」
肩に掛けていた通学鞄を床に落とし、樹が真っ直ぐに向かって来る。
「別に、何もない――」
力の入らない身体を支えるようにソファに片手を置いた時だ。
「嘘だ!」
樹が突然叫んだ。
「ここ最近の姉さん、変だったよ。楽しそうにしてると思ったら、何かを思い悩んでいるような顔をしたり。姉さんをそうさせたものは何? 好きな男でもできたの?」
いつの間にか私の隣りに座り込み、追い詰められたような目を向けて来る。そんな樹を見ても、これ以上樹と話をする気になれなかった。
「……何それ。意味が分からない」
立ち上がろうとした腕を取られて、すぐにソファに引き戻される。
「俺は、真剣に聞いてるんだ」
余計に樹の表情は強張り、その身体から異様な熱を発していた。
「一体どうしたっていうの? 樹の方こそ最近おかしいよ」
つい先日もおかしなことを言っていた気がする。連れ子同士で姉弟になって、これまでずっと、”いい弟”として私に気を使って接してくれていた。不用意に踏み込んで来ることも、遠ざけるでもない。家族として姉弟として、樹はいつだって適切だった。なのに、なんだろう。ここ最近、上手く説明できない”違和感”を樹に感じていた。
「姉さん……」
思い詰めた目。躊躇いがちに開かれる口――それなのに、その手のひらは意思を持って私の肩を掴んで来た。
「俺、姉さんのこと、どうしても、姉だとは思えないんだ」
さらに力が込められた手のひらが、肩に食い込んで来る。
「樹……?」
その手の強さが、これは異常事態なのだと全身に訴えて来る。どうにか正しい状態に戻さなければと、必死に樹の肩を押し返した。
「お願い、落ち着いて――」
私の声なんて少しも耳に届いていない。熱に浮かされたような目が、私の身体を硬直させる。それでも、姉としてこの場を対処しなければいけないと、頭の中でめまぐるしくその答えを探していた。
「姉さん、俺……っ」
限界まで押さえ込んでいた感情が決壊したかのように、樹が言葉を吐き出す。
「この家に来た日からずっと、姉さんを一人の女の子として見てた。この人は姉なんだって、こんな気持ちはダメだって、何度も自分に言い聞かせたけど、消えるどころか大きくなっていくばっかりだった。姉さんのことが好きなんだ!」
真面目な樹の、きっちりと着ている詰襟が間近に迫る。
「ダメだよ。私たち家族でしょう? 樹のお母さんが知ったら悲しむよ?」
あの人は、誰よりも私に樹を取られたくないはずだ。こんなことを知ったら、きっと発狂する。
「母さんのことなんて関係ない。俺にとって姉さんは、初めて心の支えになった人なんだ」
どうして、私が――?
私が樹に何をしただろう。樹が話しかけてくる言葉に答えていただけだ。
「どうして? 樹にはお母さんがいるじゃない」
「母さんは、俺を見ているわけじゃない。俺はただの身代わりだ」
「そんなはずない! だって、樹のお母さんは――」
その先を口走ろうとして、一瞬迷いが生じる。母親が愛のない結婚をしたと知ることは、樹にとっていいことなのか。
「あの人は、違う」
”あの人”――そう自分の母親を呼んだ時の樹の仄暗い目に、背筋がぞくりとする。
「どういう意味なの……?」
「……身代わりだったの方が、正しい」
私をきつく抱きしめながら、樹が苦しげに口を開いた。
「実の父親が他の女のところに行ってしまってから、母さんには俺しかいないと思って頑張って来た。父さんの身代わりでもいい。身代わりになれるのは、俺しかいないんだからって。でも、俺じゃなくても良かったんだ。俺が、今では身代わりでさえなくなったこと、あの人にとって自分の価値を高めるだけの存在でしかないこと、全部分かってるのに。俺の居場所がなくなるのが怖くて、俺はいい子でい続けてるんだ。馬鹿みたいだろ?」
――居場所がなくなるのが怖い。
その言葉に、激しく感情を揺さぶられた。樹が私と同じことを感じていたなんて思いもしなかった。
継母の心なんて私に知る由もない。だけど、少なくとも、樹自身が感じている痛みは手に取るように分かる。私と同じ寂しさと不安を抱えている。
「俺は、嘘っぱちの自分で生きてる。そんな俺にとって、姉さんを好きだという気持ちだけは本当の自分のものだ。姉さんがそばにいてくれたら、俺は俺でいられる」
樹が抱きしめていた腕の力を緩めると、私の胸にすがるように顔を埋めて来た。
「姉さんだけは、どこにも行かないで」
次に吐かれた声は幼い子供のようだった。純粋にここにいて欲しいという、小さな子が持つ願いみたいで、樹の想いから逃げ出そうとしていた私の心を繋ぎ止めようとする。
「姉さんじゃないとだめなんだ!」
――姉さんじゃないとだめなんだ。
その言葉が私の心にとどめを刺した。麻薬を染み込ませた矢のように、突き刺した先からじわじわとその麻薬が行き渡って。ずっと横たわっていた痛みを消して行く。
自分なんていらない人間だと思っていた。誰からも必要とされず無意味な存在だと思っていた。
「誰のものにもならないで」
私を見つめる樹から目を逸らせない。こんな風に私を強く見つめてくれる人はいなかった。その視界に私だけを入れてくれる人なんていなかった。樹の身体と私の身体との間に隙間がなくなっていくというのに、金縛りにあったみたいに動けない。こんなにも誰かから求められたことがないから、その思いをどうしても無視できない。
「……俺だけを見て。俺だけのものになって」
掠れた声が、私から思考を奪う。いけないことだと頭の片隅で思うのに、何もない空っぽの私を何かが埋め尽くしていく。こんなことを継母とお父さんに知られたら、一体どうなるのか。あの継母の私を見る時の顔が浮かぶ。考えただけで恐ろしいのに、真っ直ぐに向かって来る感情がすべてを超越してしまう。
「お願い、姉さん……」
吐息にまみれた声と共に、生温かい唇が重ねられた。それが引き金となって、樹の欲望を暴き出す。これまで私が見て来た樹と、同じ人間がしていることだなんて信じられない。両手が私の頭を鷲掴み、何度も激しく唇をぶつけてくる。そんな余裕のない行為が、より私を強く求めている証みたいだ。
今だけは、何も考えずに樹の思いに溺れてしまいたい――。
母親も父親も、そして、励まし合えたと思えたあの人も。みんな私から去って行った。寂しさも虚しさも、このひと時でいいから全部忘れさせてほしい。ただそれだけが頭を埋め尽くした。
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