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第三章 春時雨
二
しおりを挟む家を追い出された私の元に突然樹がやって来たのは、私が東京に出て来て一か月ほどがたった頃だった。大学が始まったばかりで、慣れない都会暮らしに疲弊していた。その日も、雨が降っていたと思う。東京に来て初めての住まいは、父親が勝手に契約した大学近くの賃貸マンションだった。前触れもなく、玄関のドアの前で制服姿の樹が座り込んでいた。驚きのあまり言葉を発することができなかった。以前使っていたスマホは解約させられていたし、樹とはまったく連絡は取っていなかった。
どうしてこの場所を知っているのか。それより、どうして樹がこんなところに来たのか――。
父親から聞いた樹の気持ち、そして、私たちの関係がバレて私が責められていた時の樹の姿が蘇る。
「どうして、俺から逃げたの?」
どれだけここで待っていたのか。酷く疲れた顔を私に向けて、おもむろに立ち上がった。一歩一歩、私に近付いて来る樹の顔は、憎しみと怒りと安堵の混じった複雑なものだった。
「逃げる? 私は逃げたりなんかしてないよ」
「嘘を言うな!」
突然大声を上げた樹に、たまたま通りかかった住人が怪訝な視線を向ける。慌てて樹の腕を引き部屋に入れた。
「姉さんは俺から逃げて、こうやって勝手に新しい生活を始めていたんだな。俺が、どんな思いでいるかを考えたこともないんだろう?」
玄関で向き合う樹が、睨みつけるような目で私を見た。
「何を言ってるの? 私が樹のお母さんから責められてたのを樹だって見てたよね? 家を追い出されたのは私の方なんだよ」
どうして私が樹から責められるのか全然理解できない。あの、惨めでたまらなかった日が、すべてを失った日が鮮明に思い起こされる。
「確かに引き離したのは親だ。でも連絡くらい出来たはずだ。俺の携帯の番号もアドレスも、姉さんは知っているんだからな。好きだったんなら、何をしてでも会いたいと思うのが普通だろ? 姉さんの方は番号も何も全部変わっていて、俺はどうすることも出来なかった。俺は、姉さんから連絡が来るのをずっと待ってたんだ」
――待ってた?
そんなはずはない。
「そんなの嘘だよ。だって――」
「嘘? じゃあなんで俺は今ここにいるんだよ。俺は姉さんに会いたくて、必死に姉さんの居所を探し続けてた。どこに行ったのか俺には何の情報もない。ここの住所だって、父さんの書斎に忍び込んで、やっとの思いでマンションの契約書類を見つけた。それですぐにここに飛んで来たんだ!」
樹の手が私の首元に飛んでくる。平日のこの日、制服を着た樹はきっと学校をサボって東京まで来た。
「それなのに、姉さんは何もしなかった!」
樹が恐ろしいほどの力で私の鎖骨のあたりを掴む。
「それは違う!」
息苦しさからなのか哀しさからなのか、涙が溢れて来る。
私が一人でどんな気持ちでいたのか。どれだけ、喪失感を味わったのか――。
「樹が私とのことは全部忘れるって言ったって、そう聞いた。樹がそう思ってるなら、私はもう何も言えないって必死に忘れようとした。こんな関係、誰にも言えないし苦しいだけ。樹がなかったことにしたいならって――」
私の叫びに、樹の手のひらが緩む。
「俺は、そんなこと言っていない」
樹の手のひらが、今度は私の両肩を掴んだ。
「勝手に親が姉さんに言ったんだろ? 俺はそんなこと思ってない!」
「じゃあなんで、お母さんとお父さんがホテルの部屋に乗り込んで来た時、樹は何も言わなかったの? 私が責められている時、ただ黙っているだけだったの? 私は、あれが樹の答えだと思ったんだよ」
あの時、心の奥底が急速に冷えて全身が震えた。本当に一人なんだって実感させられた。でも、樹だってまだ十五歳の子供で。責めるつもりもなかったのに、言わずにはいられなくなった。真っ直ぐに向けて来ていた目を、初めて私から逸らした。
「樹から逃げたわけでも、好きで東京に出て来たわけでもない」
これ以上樹を責めようとは思わない。でも、私の事情も分かってほしかった。
「……だから何だって言うんだよ」
低く地を這うような声が耳に届く。再び私に向けた目は、ゾッとするような冷たい目だった。
「俺との約束は? 何があっても俺から離れないって言っただろ。死ぬほど好きなら、そんなに簡単に諦めたりしない。俺なら絶対に無理だ。姉さんが俺から逃げて行ったと思ったって、こうやってどこまでも探しに来る」
樹の両腕とドアとが、私の身体を挟み込む。どこにも逃がさないというように、真上から見下ろされた。
「俺が忘れるって言ったからって、関係ないだろ。結局、姉さんは俺との約束を破ったんだよ」
私を見下ろす目は憎しみに満ちているのに、その奥に樹の寂しさが見えてしまう。
「絶対、許さない。俺には姉さんしかいないのに。そう何度も言ったのに」
「樹……」
「姉さんがどれだけ俺から逃げようと思っても、絶対に逃がさない。姉さんは一生俺のものだ」
――一生、俺のものだ。
その言葉が、私の心を掴み取る。全部なくなったと思っていたのに、目の前に樹がいる。
「姉さんにはもう誰もいないだろ? 本当の母親も、父親でさえも。帰る家までなくなったんだ。たった一人だ」
たった一人――。
私には誰もいない。誰もいなくなった。この先も一人だと思っていた。都会の人の波の中で誰にも気かけられず埋もれたように生きて行くんだと思っていた。樹の低く囁く声が、耳からそのまま心の奥に届く。
「――姉さんにはもう俺しかいないんだよ」
樹の唇が私の耳元に触れる。生温い吐息が私の身体を震えさせる。
「姉さんの世界にいるのは、俺だけだ」
吐息の後に、濡れた感触が耳たぶを撫でる。
「……あっ」
忘れかけていた感覚が呼び起こされて、身体が勝手に痺れ始める。力づくだった樹の手が、違う意思を持って私の身体をさすり始める。
「姉さん――」
「んっ」
樹の唇がいつの間にか滑って行き、私の身体の真ん中へと向かって行く。
「姉さんは、俺の腕の中にだけいればいい。俺は、絶対に姉さんを捨てたりしない」
身体中がいとも簡単に快楽を思い出す。何度も何度も交わったあの熱を身体は嫌というほどに覚えている。
「――もう、俺から離れることは許さないよ?」
久しぶりに与えられる快感に、思考がゆらゆらと揺れる。激しく求められる安堵が、空っぽだった心を瞬く間に満たして。気付けば頷いていた。
「……ここも、ここも、俺のものだっていう証の痣が全部消えてるね」
私の腕と胸元に、続けて痛みが走る。
「また付けておかないと。姉さんは、すぐに忘れるから」
樹の強い所有欲が私を甘く心地よく縛り付けて行く。私に向けられる樹の激しい欲望が、私の存在価値になる。
「未雨、好きだよ――」
初めて、名前を呼ばれた。本当に樹のものなのだと思える。この世でただ一人の、大切な人――。
あの日から、樹は時おり訪ねて来るようになった。樹が高校生のうちは数えるほどだった。大学生になって金銭的自由と生活の自由が増えても、野球に打ち込む樹が東京に出て来るには限りがある。それでも私たちは、五年の間、この関係を途絶えることなく続けて来た。
「――未雨、もう帰るよ。明日は普通に練習あるし」
引き締まった身体をベッドから起き上がらせ、樹がそう口にした。うつらうつらとベッド脇の置時計を見ると、21時を回っている。毛布を胸元まで上げて、私も身体を起こした。
「いつとはまだはっきり言えないけど、ゴールデンウイークに一日くらいは休みになるだろうから、その頃にまた来る」
「わかった」
立ち上がり服を着ると、樹が私に振り返った。
「それまで、俺が嫌がるようなことはしないでね」
いつもの決まり文句だ。そう言った後、必ず深いキスをする。この快感を忘れさせないように。
「するわけないよ」
そして、私は笑顔を向ける。
「じゃあね」
ドアを出て行く樹の背中を見送る。これから樹は夜行バスに乗って実家まで帰って行く。早朝に着いたら、おそらくそのまま大学に向かうのだろう。
疲れ、取れるかな――。
少しの時間のために、こうして樹は私に会いに来る。それが、私を想う何よりの証拠だ。私も、樹のことを一番に考えてあげたい。
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