雨の庭で来ぬ君を待つ【本編・その後 完結】

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第三章 春時雨

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 土曜日の夕方、春日井さんと出くわした。こうして偶然会うのは、重い買い物袋を持ってもらった日以来のことだ。あのスーパーを出たところだった。

「今日は、無謀な量の買い物はしていないんだね」
「もう、同じ過ちは犯しません」

私が手にしているビニール袋に視線を向けた春日井さんに、苦笑しつつ答えた。

「この前会った時も同じような時間帯だったと思うんですけど、いつもこの時間が帰りなんですか?」
「土曜日のうち月一回は早番でね。夕方までの勤務なんだ」

自然と並んで歩き出す。

「そっか……。普通の会社とは違いますもんね」
「月曜日が休館日だし」
「確かにそうですね。 私にとっては、月曜日なんて憂鬱で仕方がない日だから、羨ましく思っちゃいます」
「その分、みんなが休んでる時に働いているんだけどね」

不服そうに、でもどこか楽しげでもある言い方だった。

「そうだった!」

顔を見合わせて笑う。

春日井さんの笑顔は、やっぱり親しみやすい――。

そのことにホッとしている自分がいた。

「ん? なに?」
「い、いえ。何でもないです」

つい見つめてしまって、慌てて視線を逸らす。

「そう?」
「はい」

その声も眼差しも、高校の図書室で聞いて見たもの。あの、穏やかで優しかった声と目ーーあっという間にあの頃の光景に引き戻される。この数年の間に春日井さんに何があったのかは知らない。でも、その本質は変わっていないと思えた。

 どうということもない会話をした。線路脇を歩きながら聞く電車の通過音は結構心地いいとか、いつ見てもシャッターの閉まっているパン屋があって気になるとか。アパート近くの橋にたどり着くまでの時間があまりに早くて、つい後ろを振り返ってしまったほどだ。

「春日井さんのお宅、あっちの方ですよね? 私もなんです」

橋を渡りながらアパートの方を指差す。警戒なんてしていないということを、春日井さんに知って欲しかった。

「そんなこと教えちゃっていいの?」

冗談ぽく、意地悪に、春日井さんが私に言う。

「警戒してませんから!」

ついムキになって返してしまう。そんな私を見て、また春日井さんは笑った。
 二人で橋を渡り終えて、私のアパートの前へとたどり着いた。

「うち、ここなんです」

足を止めた時、アパートの古びた門柱から人影が現れた。私の前に現れたその姿に声を失う。この動揺は、父親の時の比ではない。

私が一番会いたくない人――。

「未雨ちゃん」

冷たく鼓膜を掠める声。それは継母だった。

この人を見た最後の日に、何度も何度も感情を剥き出しにした力のまま叩かれた。

――絶対に許さないから。

金切り声が鮮明に蘇って来る。

――こんな汚いもの、もう見たくない。今すぐ消えて!

私への憎悪に満ちた目と声が、過去から戻って来て私の身体を強張らせる。

「長居はしません。言いたいことは一つだけです」

こんなところに突然やって来たくせに、声も言葉も怖いくらいに淡々としていた。綺麗に髪を一つにまとめ、品の良いベージュのブラウスと紺のタイトスカートに真珠のネックレスとイアリング。どこからどう見ても立派な社長夫人だ。でも、その目の奥に憎しみが透けて見えた。

「古谷さんの息子さんと結婚して、海外に行きなさい。何も言わずにそうすれば、私は何も言いません」

その言葉の一つ一つが冷たい氷柱のようになって私の胸に突き刺さる。

樹とまだ続いていることが、継母にバレた――?

混乱と動揺がぐるぐるととぐろを巻き、激しい動悸を引き起こす。唇は震えて動けない。

「すぐにあちらの申し出を承諾して、樹の前から消えて。そうしなければ――」

何も言葉を発せないでいる私に苛立たったのか、その口調が早くなった。そして、私を睨んだその視線は、尋常ではないほどに据わっていた。

「私は、あなたを殺すわ」

呼吸が一瞬止まる。それでも懸命に、混乱する頭で考える。

だめだ。何が何でも否定しないと――。

「わ、私は、樹とは、もう何でもありません」

震える唇のせいで、上手く喋れない。でも、ここは絶対に間違えてはならない。今度こそ、樹と永遠に離れ離れになる。樹までいなくなってしまったら、もう何もない。

それに――。

吐き気がするほどのにやけた笑みが、脳裏に映し出される。

あんな男と結婚して海外に行くなんて、絶対にいや――。

私は必死だった。

「あれから樹とは会っていません!」

気付けばそう言い放っていた。震えが唇から身体中に伝染する。その震えを抑えるのに精一杯だった。

「そんな嘘、信じると思ってるの? 私は見たのよ。新宿までの高速バスの乗車券の半券。何枚も何枚も、もう何年分も取ってあった。東京に知り合いなんてあの子にはいない。あなたに会いに来てたんでしょう!」

淡々としていた継母が、その感情を露わにする。でも、怯むわけにはいかない。スマホでの私たちのやり取りを見られたわけではないみたいだ。なら、確信はないはず。激しい動揺の中で懸命にこのやり取りの最善の出口を探す。

「そ、そんなの私は知らない。関係ないです」

絶対に認めてはならない。絶対に――。

目をそらさずに、必死に継母の目を見つめる。ほんのわずか、継母の瞳が揺れた。

「――六年前、お父さんに『家族はいないと思え』と言われて、あなたから樹に縋ったんでしょう? あなたには誰もいないものね」

誰もいない。そう、私には誰も。

「平気で私たちを裏切ることが出来たあなたのことなんて、信じられるわけがない」

動き続ける継母の唇を見つめる。何かに憑りつかれているみたいに動き続ける。その目はもう私しか映っていない。

「これ以上、樹の人生を邪魔しないで。自分の孤独をあの子に押し付けないで」
「嘘なんかじゃない。本当です。私と樹は何の関係もありません。私には今、ちゃんと付き合っている人がいます」

嘘でもでまかせでもなんでもいい。何としてでも否定して、信じさせなければ。そのことしか考えられなかった。必死のあまり、出た言葉だった。

「嘘よ――」
「本当です。この人と、付き合ってるんです」

いつの間にか私から一歩離れたところにいた春日井さんを、勝手に恋人に仕立て上げていた。この口が勝手に言っていた。ただこの場を乗り切るために勝手なことをしておきながら、罪悪感だけではなく願望さえ抱く。

お願いです。話を合わせて――!

まだ身体中の震えは止まっていない。今この瞬間、春日井さんはどんな表情をしているだろうか。怒っているだろか。私の前に流れる無言の時間が、それこそ殺人鬼から逃げ、いつ止めを刺されるかと身を隠している時間のように思えた

「――どうも、初めまして。未雨さんとお付き合いさせていただいてます」

その声に、思わず春日井さんの顔を見上げていた。自分で勝手に芝居を始めたくせに驚いてしまう。春日井さんの横顔は、ただ真っ直ぐに継母に向けられていた。継母は、そこに人がいたということに初めて気付いたみたいな表情をして、ただ春日井さんを見ていた。

「僕にとって大切な人です。ですから、そんな物騒な言葉を彼女に向けないでいただけますか?」

――私は、あなたを殺すわ。

今更ながらにその言葉の持つ恐ろしさを私に実感させる。

「あ、あなた、この子がどんな子か知って――」
「知っていますよ」

焦ったような戸惑うような継母の声を、春日井さんが、静かに、でもはっきりと遮った。

「彼女の過去も現在も、どれも彼女が生きて来た道ですから。その全部を僕は大切に思っています。未雨さんの未来も全力で守りたいと思っています」

春日井さんの発した作り物のはずの言葉に驚く。

「未雨さん、他に何か言っておきたいことはある?」

不意に私に向けられた春日井さんの顔に、我に返る。その表情が、想像していたものと違ってとても優しくて。私を労わるような励ますような、「大丈夫だよ」と言ってくれているようなそんな表情に力をもらう。

「いえ。もう、ないです」
「ん、分かった」

春日井さんが私に優しく頷くと、丁寧に継母に対して頭を下げた。

「――そういうわけですので、失礼いたします。じゃあ、未雨さん、行こう」

私のアパートの方へと向かう春日井さんの背中を慌てて追う。

「待ちなさい」

そんな私たちに、継母の鋭い声が放たれた。

「あなたたちの言葉を完全に信じたわけでも、納得したわけでもない。私が今日あなたに言ったこと、絶対に忘れないで」

継母が私だけを真っ直ぐに見る。

「樹からあなたを完全に引き離すためなら、私は何だってする」

それは私に対する最終警告ーー。継母は何かを振り切るように私から視線を逸らすと、その場から立ち去った。


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