34 / 154
第三章 春時雨
十
しおりを挟む土曜日の夕方、春日井さんと出くわした。こうして偶然会うのは、重い買い物袋を持ってもらった日以来のことだ。あのスーパーを出たところだった。
「今日は、無謀な量の買い物はしていないんだね」
「もう、同じ過ちは犯しません」
私が手にしているビニール袋に視線を向けた春日井さんに、苦笑しつつ答えた。
「この前会った時も同じような時間帯だったと思うんですけど、いつもこの時間が帰りなんですか?」
「土曜日のうち月一回は早番でね。夕方までの勤務なんだ」
自然と並んで歩き出す。
「そっか……。普通の会社とは違いますもんね」
「月曜日が休館日だし」
「確かにそうですね。 私にとっては、月曜日なんて憂鬱で仕方がない日だから、羨ましく思っちゃいます」
「その分、みんなが休んでる時に働いているんだけどね」
不服そうに、でもどこか楽しげでもある言い方だった。
「そうだった!」
顔を見合わせて笑う。
春日井さんの笑顔は、やっぱり親しみやすい――。
そのことにホッとしている自分がいた。
「ん? なに?」
「い、いえ。何でもないです」
つい見つめてしまって、慌てて視線を逸らす。
「そう?」
「はい」
その声も眼差しも、高校の図書室で聞いて見たもの。あの、穏やかで優しかった声と目ーーあっという間にあの頃の光景に引き戻される。この数年の間に春日井さんに何があったのかは知らない。でも、その本質は変わっていないと思えた。
どうということもない会話をした。線路脇を歩きながら聞く電車の通過音は結構心地いいとか、いつ見てもシャッターの閉まっているパン屋があって気になるとか。アパート近くの橋にたどり着くまでの時間があまりに早くて、つい後ろを振り返ってしまったほどだ。
「春日井さんのお宅、あっちの方ですよね? 私もなんです」
橋を渡りながらアパートの方を指差す。警戒なんてしていないということを、春日井さんに知って欲しかった。
「そんなこと教えちゃっていいの?」
冗談ぽく、意地悪に、春日井さんが私に言う。
「警戒してませんから!」
ついムキになって返してしまう。そんな私を見て、また春日井さんは笑った。
二人で橋を渡り終えて、私のアパートの前へとたどり着いた。
「うち、ここなんです」
足を止めた時、アパートの古びた門柱から人影が現れた。私の前に現れたその姿に声を失う。この動揺は、父親の時の比ではない。
私が一番会いたくない人――。
「未雨ちゃん」
冷たく鼓膜を掠める声。それは継母だった。
この人を見た最後の日に、何度も何度も感情を剥き出しにした力のまま叩かれた。
――絶対に許さないから。
金切り声が鮮明に蘇って来る。
――こんな汚いもの、もう見たくない。今すぐ消えて!
私への憎悪に満ちた目と声が、過去から戻って来て私の身体を強張らせる。
「長居はしません。言いたいことは一つだけです」
こんなところに突然やって来たくせに、声も言葉も怖いくらいに淡々としていた。綺麗に髪を一つにまとめ、品の良いベージュのブラウスと紺のタイトスカートに真珠のネックレスとイアリング。どこからどう見ても立派な社長夫人だ。でも、その目の奥に憎しみが透けて見えた。
「古谷さんの息子さんと結婚して、海外に行きなさい。何も言わずにそうすれば、私は何も言いません」
その言葉の一つ一つが冷たい氷柱のようになって私の胸に突き刺さる。
樹とまだ続いていることが、継母にバレた――?
混乱と動揺がぐるぐるととぐろを巻き、激しい動悸を引き起こす。唇は震えて動けない。
「すぐにあちらの申し出を承諾して、樹の前から消えて。そうしなければ――」
何も言葉を発せないでいる私に苛立たったのか、その口調が早くなった。そして、私を睨んだその視線は、尋常ではないほどに据わっていた。
「私は、あなたを殺すわ」
呼吸が一瞬止まる。それでも懸命に、混乱する頭で考える。
だめだ。何が何でも否定しないと――。
「わ、私は、樹とは、もう何でもありません」
震える唇のせいで、上手く喋れない。でも、ここは絶対に間違えてはならない。今度こそ、樹と永遠に離れ離れになる。樹までいなくなってしまったら、もう何もない。
それに――。
吐き気がするほどのにやけた笑みが、脳裏に映し出される。
あんな男と結婚して海外に行くなんて、絶対にいや――。
私は必死だった。
「あれから樹とは会っていません!」
気付けばそう言い放っていた。震えが唇から身体中に伝染する。その震えを抑えるのに精一杯だった。
「そんな嘘、信じると思ってるの? 私は見たのよ。新宿までの高速バスの乗車券の半券。何枚も何枚も、もう何年分も取ってあった。東京に知り合いなんてあの子にはいない。あなたに会いに来てたんでしょう!」
淡々としていた継母が、その感情を露わにする。でも、怯むわけにはいかない。スマホでの私たちのやり取りを見られたわけではないみたいだ。なら、確信はないはず。激しい動揺の中で懸命にこのやり取りの最善の出口を探す。
「そ、そんなの私は知らない。関係ないです」
絶対に認めてはならない。絶対に――。
目をそらさずに、必死に継母の目を見つめる。ほんのわずか、継母の瞳が揺れた。
「――六年前、お父さんに『家族はいないと思え』と言われて、あなたから樹に縋ったんでしょう? あなたには誰もいないものね」
誰もいない。そう、私には誰も。
「平気で私たちを裏切ることが出来たあなたのことなんて、信じられるわけがない」
動き続ける継母の唇を見つめる。何かに憑りつかれているみたいに動き続ける。その目はもう私しか映っていない。
「これ以上、樹の人生を邪魔しないで。自分の孤独をあの子に押し付けないで」
「嘘なんかじゃない。本当です。私と樹は何の関係もありません。私には今、ちゃんと付き合っている人がいます」
嘘でもでまかせでもなんでもいい。何としてでも否定して、信じさせなければ。そのことしか考えられなかった。必死のあまり、出た言葉だった。
「嘘よ――」
「本当です。この人と、付き合ってるんです」
いつの間にか私から一歩離れたところにいた春日井さんを、勝手に恋人に仕立て上げていた。この口が勝手に言っていた。ただこの場を乗り切るために勝手なことをしておきながら、罪悪感だけではなく願望さえ抱く。
お願いです。話を合わせて――!
まだ身体中の震えは止まっていない。今この瞬間、春日井さんはどんな表情をしているだろうか。怒っているだろか。私の前に流れる無言の時間が、それこそ殺人鬼から逃げ、いつ止めを刺されるかと身を隠している時間のように思えた
「――どうも、初めまして。未雨さんとお付き合いさせていただいてます」
その声に、思わず春日井さんの顔を見上げていた。自分で勝手に芝居を始めたくせに驚いてしまう。春日井さんの横顔は、ただ真っ直ぐに継母に向けられていた。継母は、そこに人がいたということに初めて気付いたみたいな表情をして、ただ春日井さんを見ていた。
「僕にとって大切な人です。ですから、そんな物騒な言葉を彼女に向けないでいただけますか?」
――私は、あなたを殺すわ。
今更ながらにその言葉の持つ恐ろしさを私に実感させる。
「あ、あなた、この子がどんな子か知って――」
「知っていますよ」
焦ったような戸惑うような継母の声を、春日井さんが、静かに、でもはっきりと遮った。
「彼女の過去も現在も、どれも彼女が生きて来た道ですから。その全部を僕は大切に思っています。未雨さんの未来も全力で守りたいと思っています」
春日井さんの発した作り物のはずの言葉に驚く。
「未雨さん、他に何か言っておきたいことはある?」
不意に私に向けられた春日井さんの顔に、我に返る。その表情が、想像していたものと違ってとても優しくて。私を労わるような励ますような、「大丈夫だよ」と言ってくれているようなそんな表情に力をもらう。
「いえ。もう、ないです」
「ん、分かった」
春日井さんが私に優しく頷くと、丁寧に継母に対して頭を下げた。
「――そういうわけですので、失礼いたします。じゃあ、未雨さん、行こう」
私のアパートの方へと向かう春日井さんの背中を慌てて追う。
「待ちなさい」
そんな私たちに、継母の鋭い声が放たれた。
「あなたたちの言葉を完全に信じたわけでも、納得したわけでもない。私が今日あなたに言ったこと、絶対に忘れないで」
継母が私だけを真っ直ぐに見る。
「樹からあなたを完全に引き離すためなら、私は何だってする」
それは私に対する最終警告ーー。継母は何かを振り切るように私から視線を逸らすと、その場から立ち去った。
0
あなたにおすすめの小説
結婚相手は、初恋相手~一途な恋の手ほどき~
馬村 はくあ
ライト文芸
「久しぶりだね、ちとせちゃん」
入社した会社の社長に
息子と結婚するように言われて
「ま、なぶくん……」
指示された家で出迎えてくれたのは
ずっとずっと好きだった初恋相手だった。
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
ちょっぴり照れ屋な新人保険師
鈴野 ちとせ -Chitose Suzuno-
×
俺様なイケメン副社長
遊佐 学 -Manabu Yusa-
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
「これからよろくね、ちとせ」
ずっと人生を諦めてたちとせにとって
これは好きな人と幸せになれる
大大大チャンス到来!
「結婚したい人ができたら、いつでも離婚してあげるから」
この先には幸せな未来しかないと思っていたのに。
「感謝してるよ、ちとせのおかげで俺の将来も安泰だ」
自分の立場しか考えてなくて
いつだってそこに愛はないんだと
覚悟して臨んだ結婚生活
「お前の頭にあいつがいるのが、ムカつく」
「あいつと仲良くするのはやめろ」
「違わねぇんだよ。俺のことだけ見てろよ」
好きじゃないって言うくせに
いつだって、強引で、惑わせてくる。
「かわいい、ちとせ」
溺れる日はすぐそこかもしれない
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
俺様なイケメン副社長と
そんな彼がずっとすきなウブな女の子
愛が本物になる日は……
私たちの離婚幸福論
桔梗
ファンタジー
ヴェルディア帝国の皇后として、順風満帆な人生を歩んでいたルシェル。
しかし、彼女の平穏な日々は、ノアの突然の記憶喪失によって崩れ去る。
彼はルシェルとの記憶だけを失い、代わりに”愛する女性”としてイザベルを迎え入れたのだった。
信じていた愛が消え、冷たく突き放されるルシェル。
だがそこに、隣国アンダルシア王国の皇太子ゼノンが現れ、驚くべき提案を持ちかける。
それは救済か、あるいは——
真実を覆う闇の中、ルシェルの新たな運命が幕を開ける。
冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない
くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、
軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。
言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。
――そして初めて、夫は気づく。
自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。
一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、
「必要とされる存在」として歩き始めていた。
去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。
これは、失ってから愛に気づいた男と、
二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。
――今さら、遅いのです。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。
その事実だけを抱え、離縁を突きつけ、家を出た。
そこで待っていたのは、最悪の出来事――
けれど同時に、人生の扉がひらく瞬間でもあった。
夫は愛人と共に好きに生きればいい。
今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。
でも、子供たちの心だけは、必ず取り戻す。
妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。
過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
☘ 注意する都度何もない考え過ぎだと言い張る夫、なのに結局薬局疚しさ満杯だったじゃんか~ Bakayarou-
設楽理沙
ライト文芸
☘ 2025.12.18 文字数 70,089 累計ポイント 677,945 pt
夫が同じ社内の女性と度々仕事絡みで一緒に外回りや
出張に行くようになって……あまりいい気はしないから
やめてほしいってお願いしたのに、何度も……。❀
気にし過ぎだと一笑に伏された。
それなのに蓋を開けてみれば、何のことはない
言わんこっちゃないという結果になっていて
私は逃走したよ……。
あぁ~あたし、どうなっちゃうのかしらン?
ぜんぜん明るい未来が見えないよ。。・゜・(ノε`)・゜・。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
初回公開日時 2019.01.25 22:29
初回完結日時 2019.08.16 21:21
再連載 2024.6.26~2024.7.31 完結
❦イラストは有償画像になります。
2024.7 加筆修正(eb)したものを再掲載
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
身分差婚~あなたの妻になれないはずだった~
椿蛍
恋愛
「息子と別れていただけないかしら?」
私を脅して、別れを決断させた彼の両親。
彼は高級住宅地『都久山』で王子様と呼ばれる存在。
私とは住む世界が違った……
別れを命じられ、私の恋が終わった。
叶わない身分差の恋だったはずが――
※R-15くらいなので※マークはありません。
※視点切り替えあり。
※2日間は1日3回更新、3日目から1日2回更新となります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる