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第三章 春時雨
十二
しおりを挟む「君は彼とこの先も一緒にいたいと思っている。それなら、二人が両親から別れさせられずに済むように、僕と結婚すればいい。結婚と言っても、形だけだ。君は僕に対して一切奥さんとして振る舞う必要はない」
「どういう、ことですか――」
唖然としながらも、なんとか声を発する。
「君はもう高校生の子供じゃない。自分のことは自分で決められる立派な大人だ。縁談を断る権利がある。でも、このままでは、彼との関係を疑われたまま、君の両親から執拗に縁談を無理強いされるだろう。これまで以上に、彼と会うのにも慎重になる必要がある」
春日井さんの言葉をどうにか理解しようとする。でも、全然頭が追いつかない。
「だけど。僕と結婚したとご両親が知れば、もう君に何を言うこともできない。さすがに結婚したとなれば、彼と君のことを疑う気持ちも薄れるだろう。弟さんの立場上、二人が公に一緒になれないのなら、僕と形だけの結婚をして二人の関係を貫けばいい。あの母親を安心させ、なおかつ、二人の想いを全うできる。君たちにとって、この選択は悪くはないんじゃないかな。僕を隠れ蓑にすればいい」
そこまで一息に言い終えると、春日井さんが私をうかがうような視線を寄こした。
「そんなことをして、春日井さんに一体何のメリットがあるんですか? 春日井さんには春日井さんの人生があるじゃないですか」
疑問は山ほどある。でも、まず口に出たことはそれだった。
「もちろん、君の為だけじゃない。僕にも利益がある」
コーヒーを口にした後、春日井さんが自分の事情を話し始めた。
「高校生の時、糸原さんに言ったことを覚えているかな。僕には、父親も母親もいないということ」
「はい、覚えてます」
あの図書室で、冗談とも本気とも取れない軽い口調で春日井さんは言っていた。
「僕には家族がいないんだ。それが、社会で生きてく上でとっても不都合だってこと分かるよね? 仕事でもなんでも、信用が第一だ。家族がいない人間は信用されにくい。失うものがない人間は、何をするか分からないってね。これまで散々、悔しい思いもして来た」
それはそうかもしれない。会社でも、同じように仕事ができる人間なら、男性は既婚者の方が大きな仕事を任せられたり出世しやすいと聞いたことがある。
「今から親を作るのはほぼ不可能だ。でも、結婚をして家族を作ることはできる。僕は、既婚者という肩書がほしいんだ。せっかく今の仕事にありつけたんだ。少しでも上に行きたいと思うからね」
「なら、本当に好きな人と結婚すればいいじゃないですか。もし今、そういう人がいないのだとしても、これから先現れるかもしれない」
春日井さんなら、絶対に普通に結婚できるはずだ。
「――いるよ」
ほんの少し目を伏せた後、私を見て春日井さんが言った。
「僕にも、ずっと想っている人がいる」
「それなら――」
私の自然に出た言葉は、すぐに遮られる。
「でも、その人とはどうにもならない。この先も絶対に。それでも、この気持ちが変わることもない。他の誰かを好きになることはない」
「どうにもならないって、一体……」
どんな事情なの――?
そんな私の疑問に気付いたのか、春日井さんは何かを言おうとした。でも、すぐに口を噤む。
「どうにもならない事情……ってことで、勘弁してもらえるかな」
その目が翳り、表情には苦悩が滲み出ていた。それ以上追及してはいけないような気がした。何かを思うだけで心を抉る――そう思えた。
「――とにかく、君を女として見ることはない」
その言葉だけは、やけにはっきりとしていた。
「だから君も、申し訳ないとか負い目に感じる必要はないよ。正々堂々僕を利用していい。お互い様だ」
そう言った後、春日井さんは諭すような叱咤するような目を私に向けた。
「家を出てから、君は一人で立派に生きて来た。そのことをもっと認めてあげた方がいい」
――一人で立派に生きて来た。
そんな風に思ったことは一度もない。
”未雨には俺しかいない。俺がいなくなったら、未雨には何も残らないだろう?”
春日井さんの言葉に樹の声が被さって、心を揺さぶる。
「春日井さんは知らないだけです。立派になんて生きてない。何にもないんです。私は結局、ちゃんと一人で立てていない。孤独を受け入れられていない。樹がいるから生きていられるんだって――っ」
「それは、違うだろう?」
私の昂ぶる感情を強く否定するように、春日井さんの口調が厳しくなった。
「君は、自分の力で働き生活している。それは紛れもない君の日常だ。自分の足で立っているってことだ。その事実は自分の中で認めないと。その生活があった上で、彼と君はお互いに大事に想い合っている。そうだろう?」
春日井さんの強くて真っ直ぐな眼差しが私の胸の奥まで届くようで、その視線を逸らせない。
「君は、覚悟を決めるべきなんじゃないか」
「覚悟……?」
「六年前、君は家族から一方的に縁を切られた。それなのに、ここに来て君はまた、君を捨てたはずの家族に巻き込まれようとしている」
十七歳ですべてを失った。一人身で放り出された時の心細さと哀しみは今でも忘れることはない。突然降って湧いた縁談も、継母の私に対する猜疑心も異常なまでの憎しみも。
六年経った今になって、私はまた翻弄されようとしている――。
「これからは自分の意思で生きて行くと、覚悟を決めるんだ」
その静かだけれど力のある言葉が、すっと私の中に入り込んで来る。
「誰でもない、君の人生だ。君の意思で選ぶべきだ」
そう言い終えた後、春日井さんの視線がふっと緩んだ。
「その君の人生において重要なことだから、今すぐ結論なんて出す必要はないよ。そもそも、僕を信用できるかどうか、糸原さんが判断しなくてはいけないしね。いくらフリだと言っても結婚だからな。それに何より、彼の気持ちもあるだろう。二人で話し合う必要もある。その上で、君の意思を彼に伝えるんだ」
春日井さんは、私にそう告げた。
私の意思――。
これまで自分の意思なんてものを、考えたことがあっただろうか。
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